2026年3月8日礼拝説教「神に仕えることの困難」マタイ6:24

神に仕えることの困難  マタイ6:24

  アメリカとイスラエルが体制転覆を目標に攻撃を始め、イランが応戦するという戦争が、続いております。先週1日の礼拝に東京で生活しているイラン出身の姉妹が出席をされました(私たちがよく知っている方の娘さんでもあります)。タイミング的にたまたまの来訪であり出席でしたが、奇しくも、この戦争が始まったばかりの日曜日でした。

 姉妹は言いました。この戦争は一日で終わりそうだ、と。しかし、その後の報道では「短くても4週間」とアメリカ大統領が言い、「もっとかかるかも」と高官が言い、出口戦略がなかった(甘かった?)という指摘もあります。そして現実に2月28日から、今日で9日目です。

 これから世界はどうなるか。そういう心配は極東に住む私たちにもあります。しかし、実際に戦場となっているイラン。あるいはイランのミサイルが飛び始めた中東近隣諸国。その人たちの危険な状況、爆撃被害。建物が壊され、人々が負傷し、死に至る方たちも多く。先の見えない世界に、私たちは、どう思い巡らし、連帯できるのでしょうか。

 アメリカ人もイラン人もなく、イスラエル人もパレスチナ人もなく、ロシア人もウクライナ人もなく、心底、戦争(戦闘状態)を願う人は少ないでしょう。しかしやむなく、その戦闘状態に賛成し、承認し、関わっていく人は出てきます。私たちのほとんどは戦争そのものに反対ですが、多くの場合、「その」戦争は例外になるのです。

 私たちの教会は、今月で終わる2025年度「神は御子によって世を愛した」というテーマを掲げました。神が御子イエスをくださるほどにこの世界を愛してくださり、それは今の時代も変わることがないと信じます。それゆえに私たちは、神の御心と信じて、十字架につけられたイエス・キリストを伝えます。この世のあらゆる人に神の愛を表わそうと努めます。それは、相手の国籍や民族によって左右されるものではありません。

 〈世にあっては苦難があります〉(ヨハネ16:33)と主イエスは言われました。戦争も、この世における大きな苦難であるに違いありません。この世に生きている限り苦難は常にあるのですが、主は続けて言われました。〈しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました〉。

 祈りましょう。「主なる神。私たちに本日も礼拝のときを与えてくださってありがとうございます。大きな戦争が終わりません。しかし私たちは、平和をつくる者でありたいのです。それが神の子どもと呼ばれる道だからです(マタイ5:9)。せいぜい何十人の群れですが、私たちは、世界中の人たち(現在82億3200万人いるという世界中の人たち)を愛します。何をしたらよいか。具体的な道筋は見えませんが、私たちは神の御心を行う教会です。祈りの家であり、平和の福音を伝えます。どうか少なくとも態度において世界を愛することから逃げない群れであらしめてください。みことばを聞きます。主よ、お語りください。私たちはあなたの教会です。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。

(貯蓄と澄んだ目、心と知性)

  本日の箇所は、先週の続きです。6:19-20では、地上ではなく、天に、宝を自分のために蓄えるよう奨められています。宝とは、自分が価値を置き、大切に考えているもののことです。〈あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もある〉(6:21)と主は言われました。

 天に宝を積む(蓄える)。それは自分の心を見張る(見守る)ことでした(箴言4:23)。どのように私たちは自分の心を見張るのでしょう。それは知性です。〈からだの明かりは目です〉(6:22)とありますが、〈目〉を知性と読み替えることを、私たちはやっています。

 「貯蓄のたとえ」に続く、「澄んだ目のたとえ」です。天に宝を積むためには、目が開いているだけでなく、目が澄んでいること(知性が健やかであること)が大事でした。この世界には間違った情報も多いのです。健全なリテラシーで見分けなければ、騙されてしまいます。排外主義が陰謀論と共に語られる昨今です。

 そして、先祖アダムの罪のゆえに、私たちのもともとの知性は暗くなっております。神を正しく見ることができません。そのように知性が暗くなって、全身が暗くなります。人生も暗くなります。人類の罪は、全被造物も巻き込んで世界を暗くもしています。〈目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか〉(6:23)。

(24節は意志を強調する)

 そして本日の24節です。〈だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません〉。

 この節は、6:19からの一連の流れでありながら、独立性が高いのです。22-23節と「まるでつながらない」(田川健三)という人もいます。ロイドジョーンズは、6:21に心heart、6:22-23に知性mind、そして6:24に意志willを見ています。今日は私たちの意志について考察しなければなりません。意志とは、決断でもあり、覚悟でもあります。

 本日は、神に仕えることの困難について考えてみたいと思います。〈だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります〉(ヨハネ7:17)。〈信じない者ではなく、信じる者になりなさい〉(ヨハネ20:27)。こうした聖句がきっと助けになるでしょう。

(二人の主人に仕えることはできない)

 日本の諺にも「忠臣は二君に仕えず」ということばがあります。日本人は侍が好きで、とくに戦国時代の侍が好き。とりわけ、サラリーマンがこういう諺をごちそうにしました。「忠臣は二君に仕えず」というのは「忠義な臣下は、一度主君を決めた以上、二度と主君を変えたりはしない」ことを言います。

 ところがその反対の諺もあります。「七度主君を変えねば武士とは言えぬ」というのです。その意味は、一人の主君に執着せず、自分の実力を活かせる場所(理想の主君)を探し求めることこそが、武士の「生き残り術」である、という意味です。藤堂高虎という武将の残したことばのようですが、私たちは柔軟な考えも必要です。

 そして本能寺の変で有名な明智光秀という武将は、最初は幕府の将軍となる足利義昭の家来でしたが、実力者の織田信長の家来ともなります。所属は親会社だけど、子会社に出向することに似ているでしょうか。同時に、二人の主君に仕えた面白いケースです。

 本日の聖書は〈だれも二人の主人に仕えることはできません〉と言っています。二人の主人に仕えるな、ではないのです。実際は、キリストからオファーをもらいながら、サタンからもオファーをもらうことがあるのです。主イエスの当時であっても、一人の奴隷が二人の主人に仕えることがあり得ることだったようです。

 ただ、二人の主人の意見や方針が違っていたら、どうでしょうか。私たちは蝙蝠のように、どちらにもいい顔をすることができなくなるのです。〈キリストとベリアルに何の調和があるでしょう〉(Ⅱコリント6:15)と聖書は言っています。明智光秀は、将軍足利義昭の家来をやめて、やがて、織田信長だけの家来となりました(そのあとで本能寺の変[謀反]が起こすのですが…)。

 私たち信仰者は、キリストによってこの世に遣わされていますが(ヨハネ17:15&18)、この世のものではありません(ヨハネ17:14&16)。〈古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなった〉〈新しく造られた者〉(Ⅱコリント5:17)です。私たちは〈脱ぎ捨てるべき〉〈古い人〉(エペソ4:22&コロサイ3:9)では最早ありません。新しい人なので、心から、神に仕えることができるはずなのです。

 しかし、どうでしょうか。私たちは、神にも富にも仕えたくなるかもしれません。そうです。明智光秀がそうであったように、両方に仕える状態は一時的にせよ可能です。しかし、主は何と言われたでしょうか。「だれも二人の主人に仕えるな」と言ったのではありません。「神と富とに仕えるな」とも言ったのではありません。そうではなく、それは《できない》《不可能だ》と言われたのです。

 6:19から私たちは学んできました。キリストの弟子として生きたいと願う私たちは、いったいどのように考え、どのようにふるまったらよいのでしょうか。

(神のものである世界でどう生きるか)

  バークレーという先生が非常に分かりやすく問題を整理してくれていましたので、次に紹介いたします。詩篇24:1〈地とそこに満ちているもの世界とその中に住んでいるものそれは【主】のもの〉とあります。また詩篇50:10-12には、こうあります。〈森のすべての獣はわたしのもの。千の丘の家畜らも。50:11 わたしは山の鳥も残らず知っている。野に群がるものたちもわたしのもとにいる。50:12 たとえ飢えてもわたしはあなたに言わない。世界とそれに満ちるものはわたしのものだ〉。

 そのようにすべてのものは(有形無形を問わず)神のもの、神に属しています。そして、主がたとえ話で語られたように、神は人間にいくつかの事物に対して、管理を任しておられます(マタイ21:33葡萄園のたとえ&25:14-15タラントのたとえ)。

 また、常に人間は物(物品)よりも大切であります。経済的繁栄のために人が物のように扱われること(物象化)がありますが、それは神の御心ではありません。

 さらに、富は乏しさを補う善(良いもの)ですが、富は主役ではなく脇役です。Ⅰテモテ6:10に〈金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです〉とあります。金銭そのものが悪の根ではないのです。〈金銭を愛すること〉が〈あらゆる悪の根〉なのです。金銭そのものに罪はなく〈金銭を愛する〉心、人の心にこそ罪が宿ります。

 そうして考えると、どんな方法で財産をつくったか、また、どんな方法で財産を使ったかが問題になります。財産そのものには問題はないのです。

 どんな方法で私たちは財産をつくるべきでしょうか。不正な方法、人や社会を欺いて蓄財することは罪でしょう。また、一見正しい方法のようでも、結果として、社会的に弱い立場の人々を搾取するのは問題があるに違いありません。そして、たとえば家族を養うなどの責任や義務を放棄して財産をつくるのは、正しいことと言えるでしょうか。

 バークレー先生は、ロバート・ニコルという人の父親についてのエピソードを記しています。それによると、ロバート・ニコルの父親は本を買って読む趣味のある牧師でした。そして自分の給料以上に本を買い、スコットランド一の蔵書家でした。しかも多額の金銭によって購入した本は、牧師の仕事のための本でもなく、ひたすら自分が買って読むためだけの本だったそうです。そしてその代りに奥さんも子どもたちもどういう暮らしだったのか、本であふれた牧師館で、奥さんや子どもたちは次々と早死をしたそうです。この牧師は、本よりも家族が大事であることがわからなかったに違いありません。

 次に、どんな方法で、その財産を使うか。先ほどの牧師が好い例ですが、自分のためにだけお金を使う人はエゴイストです。

 また全く使わないで、ただ貯めるだけの人もいます。その人は〈金銭を愛する〉人に違いありません。マタイ6:24に出てくる〈富〉ということばは所有を意味するマモンということばです。このマモンは固有名詞(神名)のように使われるときがあります。

 すなわち富が単なる持ち物ではなく、礼拝の対象となるときがあるのです。富(お金、物質的な豊かさ)を礼拝の対象とするなら、その人は富の奴隷です。富の奴隷は、まことの神に仕えることはできません。だれかを陥れるためにお金を使う人がいます。これもまた間違ったお金の使い方です。

 正しいお金の使い方が、もしあるとすれば、自分の独立と、他人の幸福のために使う使い方です。主イエスは〈受けるよりも与えるほうが幸いである〉(使徒20:35)ということばを残されました。また〈不正の富で、自分のために友をつくりなさい〉(ルカ16:9)とも言われました。私たちは与えることで、天からの祝福をいただくことができるのです。それは、それぞれの人生において、神が証明してくださいます。

(主に明け渡し、意志も含めて祈る)

  私たちは、まず知性をもって福音の知らせを聞きます。その知らせを聞くことで私たちの心は動くのです。しかし知性と心が働くだけでは足りません。意志をもってキリストに仕える決断をするのです。人が結婚をするとき、相手の名前や性格を知っていきます。結婚したいと心が動きます。しかし知性と心だけではだめで、この人と生涯生きていこうという決断、意志を働かせなければなりません。

 私たちは、金銭を愛するのでもなく、富に仕えるのでもなく、キリストを愛し、神に仕えてまいりましょう。〈信じない者ではなく、信じる者になりなさい〉。私たちは〈神のみこころを行おう〉として、さらに神に近づくことができるのです。

 一言祈ります。「神さま。お金に仕えることは、自分の我に仕えることであり、自分の我に仕えることは結局、悪魔に仕えることであると思います。主よ。私たちは、知性も心も意志もあなたに委ね、明け渡します。どうぞ〈私にきよい心を造り揺るがない霊を私たちのうちに新しくしてください〉(詩篇51:10)。主イエスの御名でアーメン」。