神と人との共同作業 ヘブル13:20-21
これはマモルくんが小学校5年生くらいの話です。私は、この話を大人になったマモルくんから、だいぶ前に聞きました。
マモルくんの家は教会です。お父さんのカイジさんは牧師です。小さいときから教会で、聖書のお話を聞いていました。マモルくんは、ある日、台所の冷蔵庫から牛乳を取り出して、テーブルの上に置いたコップに牛乳を注ぎました。そしてコップを手に持ってマモルくんは、お父さんのカイジさんに訊きました。
「ボクはいま牛乳を飲もうとしているのだけど、これはボクが牛乳を飲みたいのだろうか。それとも、神さまがボクに牛乳を飲ませたいと思っているのだろうか」。
皆さんが牧師のカイジさんだったら、どう答えるでしょうか。マモルくんが飲みたいだけだったら、そこに神さまの介在はないわけです。また神さまがマモルくんに飲ませたいだけだったら、マモルくんはロボットとあまり変わりないかもしれません。
お父さんのカイジさんは「わからないなぁ」と答えました。それでマモルくんは、自分の教会で、子どもクラスの担当をしているシバタ先生から答えを聞きました。シバタ先生はカイジ牧師の教会に通っていますが、牧師の資格を持っていて、神学校の先生をしている人でした。シバタ先生の説明を聞いてマモルくんは得心が行きました。
昔、マモルくんから聞いた話はここまでです。
しかし、最近、新しい視点を与えられて、気がついたことがあります。マモルくんのお父さんのカイジ牧師は、ほんとうにマモルくんの疑問がわからなかったのだろうか。牛乳を飲むマモルくんは、自分が飲みたいだけなのか、神さまが飲ませたいだけなのか。これをカイジ牧師がわからなかった、というほうが、実は謎でした。
もしかしたらお父さんのカイジ牧師は、わざと答えを息子に与えなかったかもしれない。最近ある人が書いていたことなのですが、家庭で子どもが疑問を持ったとき、親は答えを教えないほうがよい。しかし「それはすごいなぁ」と感心する。そして、子ども自身が考えたり、自主的に探求するのを見守るほうがいい、と書いてありました。そのほうが子どもは勉強を好きになるという話です。
もしかしたら私たちの神も、私たちに考えさせるために、問いに対する答えをすぐにくれないかもしれない。そんなことも踏まえながら、今日も私たちは、腹の底から神を礼拝できるように、みことばを学ぼうと思うのです。
一言祈りましょう。「イエス・キリストの父なる神。一週間前、私たちは私たちの教会の発足30年のお祝いをいたしました。講師の片山先生の説教のなかで『信仰と献身と奉仕の物語』ということばを聴きました。私たちは31年目の新たな物語を紡いでいきます。『千葉ニュータウンをキリストが崇められる街々に』というビジョンのもと、私たちをいよいよ聖霊によってひとつにしてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。
(「教会を愛する」年度に)
先ほどの聖書朗読を聴いて、これは礼拝の最初の「招きのことば」でも読まれた聖句だと気がついた方は多いと思います。さらに週報を開いた右上にも印刷されていると気づいたという方もいるでしょうか。実はこの箇所から先々月の2月15日に「大きな祈りを祈る」と題して説教をしています。覚えている方はおられますでしょうか。
今年度のテーマは「イエスを愛し、教会を愛する」。三年がかりのテーマ「神を愛し、世界を愛し、教会を愛する群れ」の第3年でもありますから「教会を愛する」ことにフォーカスがあたります。「教会を愛する」。これが今月からの強調点です。
さて皆さん。「教会を愛する」というテーマを掲げながら、この牧師はヘブル人への手紙13:20-21を標語聖句に定めました。この大仰な手紙の末尾にある、大仰な祈りのどこが「教会を愛する」ことを謳っているのかと思う人もいるかもしれません。今日はどうしてもそのことを受けとめていただきたく、この箇所を開いております。
週報にも説教のヒントが書かれておりますが、このヘブル人への手紙13:20-21は大きく4つに分けることができます。
最初は〈永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、〉という部分、20節全体です。自分たちが信じて祈っている対象について説明しています。あるいは、そのように神に呼びかけていると理解できます。
次は〈あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように〉という21節の初めです。手紙の受取人が神の御心を行うことが願われています。神への願いこそ祈りの本論ですが、これは第1祈願と呼べましょう。
その次は〈また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように〉です。21節の中ほどです。これも神に願っている文ですが、第1祈願とは趣が異なります。第1祈願は神の御心を行うのは(祈っている)人間ですが、この第2祈願において、神の御心を行うのは他ならぬ神ご自身です。
最後に21節の終りですが、〈栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン〉とあって、人間や自然や偶像が栄光に輝くのではなく、崇められるべき方に栄光があるようにという、礼拝でいう頌栄の部分です。
この4つのパートから、ヘブル13:20-21は成り立っています。
そのなかでも21節の初めと中ほど、意味的には祈りの本体(第1祈願と第2祈願)こそ「教会を愛する」というテーマを扱う上で重要だと思うのです。
(神の御心と私たち)
第1祈願〈あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように〉。第2祈願〈また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように〉。この新改訳2017版などは、第1の祈願にも〈みこころ〉、第2の祈願にも〈みこころ〉と出てまいります。
しかし第1祈願の〈みこころ〉は〈みこころ〉としか訳しようがない《神の意志》を表わすことばであるのに対して、第2祈願の〈みこころ〉は〈みこころにかなう〉と訳す以外に〈喜びとされる〉(岩波訳)、〈喜ばれるような〉(田川訳)という訳があり、むしろそちらのほうが本来の訳語のような趣があります。
第2祈願は《神の意志》というより《神の感情》のようなニュアンスなのかもしれません。〈みこころにかなう〉という表現がそのあたりを微妙に表わしているでしょう。皆さんが持っている様々な言語の聖書はどのような訳でしょうか。22世紀になって自動翻訳機が完璧な上にノンストレスになったときぜひ比較したいものです。
さて、神の意志であっても、神に喜ばれることであっても、大本では同じであって、
ここでは〈みこころ〉ということばで統一します。神が喜んでくださる、神のご意志についていくつかの整理をしたいと思います。五つ、ポイントがあります。
第一に、神は〈みこころ〉を有する方です。神に知性があり、感情があり、意志があります。神には、喜んだり、悔いたりする《心》をお持ちです。神は意志や感情を持たないエネルギーではなく、ただの触媒や原因でもありません。人間にすぐれた知性や豊かな感情や強い意志を見ることができるのは、人間を造ったお方が、それ以上の知情意の持ち主だからでなくて何でしょうか。〈生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです〉(ヘブル10:31)と聖書は言っています。
第二に、人は、神の許しのなかで、神の〈みこころ〉を知ることができます。もちろん、私たち人間にはすべてを知ることが許されていません。ローマ11:33に〈ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう〉と書いてあるとおりです。
しかしこの世界を造られたお方は、〈神のかたち〉(創世記1:27)として人間を造られ、人は、神のことばを聴いて、神を礼拝する者となりました。旧約聖書の時代にも神は預言者たちによって語ってくださいました。そして、紀元1世紀に始まる、終りの時には、イエス・キリストにあって人類に語っておられます(ヘブル1:1-2a)。
後の世では私たちは神を完全に知るようになりますが、それまでは神について一部分しか知りません(Ⅰコリント13:12)。しかし一部分であっても、私たちは、神に知られて救われるだけの神知識を得ております。それがキリストによる救いです(ガラテヤ4:9)。とにかく私たちは、福音によって、救われるに十分な〈みこころ〉を知らされるのです。神の救いに必要な真理を知らされ、信じている者、それがクリスチャンです。
第三に、私たちは知らされた〈みこころ〉を行うことができます。私たちは毎週の礼拝で「主の祈り」を祈っています。そのなかでマタイ6:10b「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」〈みこころが天で行われるように、地でも行われますように〉と祈っています。
私たちは、神の〈みこころ〉が貫徹する天だけでなく、この地上でも神の〈みこころ〉が行われるように祈りなさいと、主イエスから言われています。2019年末に始まるコロナ禍は世界中がたいへんでした。しかしコロナ禍のころに世界には今のような戦争は起こっていなかった。神が戦争を喜ばないと考えれば、私たち教会は続けて平和のために祈るべきではないでしょうか。祈ることもまた、神の〈みこころ〉を行なうことのひとつでしょう。
第四に、私たちは、自分を通して現れる〈みこころ〉と、自分を通さないで現れる〈みこころ〉の二つがあることを知るべきです。そして私たちは現実に自分を通して神の〈みこころ〉を行うことがとても難しいのです。
本日の箇所の第1祈願〈あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように〉は、自分を(自分たちを、教会を)通して神の〈みこころ〉が現れることを願っている祈りです。少なくとも教会は、自分たちに責任があるのではないでしょうか。
しかし私たちは行なうべき御心がわからないときがあります。たとえばクリスチャンになる前のパウロです。パウロは、クリスチャンくらい神を冒涜している人はいないと考え、教会を迫害していました。パウロは、こう書き残しています。
Ⅰテモテ1:13〈私は以前には、神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました〉。〈みこころ〉に対する無知や無理解で罪を犯すときがあります。正しく学ぼうとしないなら、私たちは、際限なくだだ漏れする、穴が空いた器のようなものです。
さらに私たちは御心がわかっていて実行できないということがあります。ペテロは主が逮捕されたとき、一晩のうちに三度も主を否定しました。わかっていても、罪を犯してしまうのが人間の弱さであり、同時に悪辣さなのです。
パウロもこう言っています。〈私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。…。私は本当にみじめな人間です〉(ローマ7:15&24)。
どうしたら、私たちは〈みこころ〉を行うことができるでしょうか。今日の聖書には〈あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え〉と書いてあります。良い学び、良い訓練、良い友人、良い教会、良い職場、良い地域、良い世界。私たちが神の〈みこころ〉を完遂するためには良いものが総動員されなければなりません。
そのなかでも最も重要で、もっとも必要なのは、良い方と出会うことです。〈良い方は神おひとりのほか、だれもいません〉と主イエスも言っておられます(マルコ10:18、ルカ18:19)。もし私たちが自分の人生で少しでも良いこと(〈みこころ〉に適うこと)をなすことができたとしたら、神に栄光を帰しましょう。
第五に、自分を通さないで〈みこころ〉が現れるときがあります。今日の第2祈願は〈また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように〉です。私は自分の人生を振返って、たくさんの感謝があります。危険も罠も避けることができた。神の恵みのわざだと告白できることがあります。
実は、私の罪深さから来る罪は、私の人生をもっと惨めなものにしてもおかしくなかったのです。しかし主は、呪いを祝福に変え、悲惨を光栄に変えてくださいました。それは、私の罪を背負って、私の身代わりに十字架の上で苦しんでくださり、いのちを捨ててくださったイエスのおかげに他なりません。
そして平和の神は、主イエスを復活させて、死者の中から導き出されました。神は良いことをなされます。もっとも理不尽な死に方をした救い主をよみがえらせて〈永遠の契約の血による羊の大牧者〉となさいました。迷う私たちの、偉大な羊飼の誕生です。
私たちはこの方に人生を導いていただくようになったのです。この教会も、ますます主イエスに導いていただき、主に栄光を帰しましょう。私たちは自分でどうしようもないものを抱えながら、幸いの道を歩かせていただいているのです。
祈ります。「愛する神。虫けらのような小さな者に、あなたは〈恐れるな〉(イザヤ41:14)と語ってくださいます。どうかあなたの助けと贖いによって、私をとおして、あなたの御心が行われますように。この教会をとおして、主イエスの誉れが現れますように。どうぞ、この地域がキリストの崇められる街々となっていきますように。そのためにも私たちの人生を支え、私たちを用いてください。イエスのお名前で祈ります。アーメン」。
