2026年4月26日礼拝説教「一致と謙遜の喜び」(ブライアン・ラスキー先生)ピリピ2:1~11

一致と謙遜の喜び ピリピ人への手紙2:1~11

おはようございます。コンバージのブライアン・ラスキーです。
前回に続いて、またこうしてご一緒できることを本当に嬉しく思います。コンバージでは、日本で教会開拓と弟子訓練に関わりながら、教会が地域に福音を届けていく働きをサポートしています。この教会がコンバージの働きと共に歩んでくださっていることにも、本当に感謝しています。

今日は、私たちが互いに愛し合うよう召されていること、そして互いを愛する中で喜びを見出し、周囲の人が神様の働きと導きを目撃できることについてお話しします。ピリピ人への手紙第2章を共に学びましょう。

聖書または聖書アプリをお持ちの方は、ピリピ人への手紙2章を開いてください。

開きながら、少し想像してみてください。

世界最高クラスの演奏家で構成されたオーケストラです。
全員が才能を持ち、自分の役割を理解しています。

でも指揮者がいません。

それぞれが正しいと思うテンポで、正しいと思う強さで演奏します。間違っている人はいません。しかし結果は音楽ではなく、雑音になります。

一方で、指揮者がいるオーケストラを想像してください。

違いは消えません。たとえば、バイオリンがトランペットになるわけではありません。ドラムが消えるわけでもありません。

でも方向が一つになります。

美しさは「同じ」であることからではなく、
「同じ方向」に向いていることから生まれます。

教会も同じです。私たちの生活でも、教会の中でさえ、ときどき指揮者のいないオーケストラのように感じることがあります。
同じ目標に向かっていても、途中で互いに傷つけてしまうことがあります。

社会でも家庭でも、私たちは同じ方向に立ち、互いに支えたいと願っています。
でも多くの場合、現実は理想とは違います。

教会の中でさえ、キリストに従おうとするときに対立が起こることがあります。
職場でも、地域でも、対立はしばしば私たちの違いから起こります。

しかし今日、使徒パウロは、違いの中にあっても互いに愛する方法について教会を励まし、勧めています。

パウロは獄中からこの手紙を書いています。

鎖につながれながらです。それでも第一章では、喜びを語っています。

なぜでしょうか。

パウロの喜びはもろくありません。
快適さや同意や状況に依存していません。キリストを土台としています。

しかし2章では、その喜びの土台の上に立って、パウロは非常に重要なことを語ります。最初の2節を読みましょう。

ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。

今パウロは、「同じ思いになることで私の喜びを満たしてほしい」と言います。つまり、キリストにある土台の喜びを超えて、さらに喜びがあるということです。それは、コミュニティの中でだけ得られる喜びです。

ピリピの手紙2章で、パウロはシンプルな真理を示しています。

キリストのように生きるとき、喜びは何倍にもなります。

私たちの喜びは、キリストを信じるだけでなく、キリストの思いを身に受けるときにさらに大きくなります。でも、パウロはやるべきことのリストだけを与えたくなかったのです。だからこそ、まず、1節で真実であることを土台にしているのを述べます。

私たちはすでに励ましと慰めを持っています。御霊の交わりと愛情とあわれみも、キリストにあって必ずすでに持っていますよ。すでに与えられているからこそ、互いに愛することが可能になります。
クリスチャンの従順は、やるべきことから始まるのではありません。すでに真実であることから流れ出ます。

では、次を読んでみましょう。

何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。

これは私たち全員が直面する問題で、しかも本当に難しいです。もしこれができたなら、世界は完全に変えられると思います。私たちのコミュニティも。

だからこそ、パウロは、この命令を実際に生きるために、キリストこそが私たちの模範だと示していきます

続きを読みましょう。5節からです。

キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間

でも抱きなさい。キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。

ここに二つの道があります。

一致と謙遜です。この「一致」と「謙遜」を一つずつ

見ていきましょう。まずこの箇所が示しているのは、次のことです。

一致とは、同じ考えを持つことではなく、同じ愛を持つことです。

ここでは、「同じ思い」とは同じ好みや優先順位や意見ではないんです。それは同じ方向を向いた態度です。
一致が壊れるのは、意見が違うことそのものではありません。愛なしに意見がぶつかるときに壊れていきます

キリストのように生きるとき、多様性の中でも一致が生まれます。

福音は、違いを消さずに一致を生み出します。

教会の外でも、一致を見るとき、私たちはすぐにそれが素晴らしいものだと分かって称賛します。

少し前に冬季オリンピックがありました。

オリンピックが好きな人は、どれくらいいますか。

私はオリンピックが大好きで、いつも心をつかまれます。

それで今週このメッセージを書きながら、「一致が実際にどういう姿なのか」を理解する助けになるオリンピックの話を思い出しました。

2014年ソチ五輪で、カナダのスピードスケート選手

ギルモア・ジュニオが1000mの出場資格を得ました。

しかしチームメイトのモリソンは転倒し、出場できませんでした。それでも彼は世界屈指の速さで、本当はメダル有力候補だったんです。

だから、ジュニオは自分の枠を譲りました。

誰にも強制されていません。
ルールでもありません。

チームの益を選びました。

モリソンは銀メダルを獲得しました。あの結果は、一致と信頼なしには起こらなかったと思います。

一致は、同調や盲目的な同意から始まるのではありません。謙遜から流れ出るんです。そしてこれが、パウロが命じる「キリストのように生きるための」第二の道です。

キリストというモデルを見るとき、私たちは次のことが分かります。

謙遜とは、将来が確かだからこそ、低い場所を選ぶこと

キリストは神と等しいお方でした。それでもそれを握りしめませんでした。なぜでしょうか。

最後の勝利が確かだからです。

ときどき私たちは、謙遜とは自分を必要以上に低くして、事実を少し曲げてでも他人を高くすることだと考えてしまいます。

たとえば、日本では、誰かにほめられたら、どんなふうに答えるのが自然だと感じますか。

「いえ、いえ…」って言いますよね。

でもそれは時に、事実を否定してしまうことにもなります。

もしほめ言葉が事実なら、本当の謙遜はそれを受け取りつつ、高慢にならずに「ありがとうございます」と言うことだと思います。

謙遜とは、自分を低く見ることではなく、自分を考えすぎないことです

日本では奉仕が義務や役割から生まれることがあります。
それは社会を支えています。

でも同時に、それが人を重く押し、疲れさせてしまうこともあります。パウロは、「あなたがたはそうであってはならない」と言います。むしろ、私たちは愛から仕えるように求められています。もし私たちが、一致と謙遜においてキリストのように生きるなら、パウロが言うように、喜びは完成すると言えます。

私は娘たちを、何があっても愛しています。

でも父として、娘たちが譲り合い、仕え合う姿を見るとき、
私の喜びは完成します。パウロも同じことを言っています。

キリストの思いを持ちなさい。

結局、どうすればこれを実行できるのでしょうか。この思いで生きるための動機は何でしょうか。

それは、真の謙遜は栄光に至ると知っていることです。

キリストはこの思いを持ち、その結果、高く上げられました。イエスが高められたのは、名誉を要求したからではなく、父なる神に委ねたからです。クリスチャンにとっての謙遜は自分を消すことではないのです。それは神に委ねることです。私たちの名も/評判も/将来も

ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
ペテロの手紙 第一 5章6~7節

将来を神に委ねるとき、
私たちは今ここで低い場所を選ぶ自由を持ちます。

では、今週、次のステップとして、小さくても意識的にキリストのように生きてみましょう。

問いかけ:誰に対して、配慮を欠き、つい反発してしまうだろうか?

話す前にまず聞くことを選びましょう。問題の表面を越えて正そうとするより理解しようとする姿勢を選びましょう。
「私は勝とうとしているのか、それとも愛そうとしているのか」と自分に問いましょう。

評価や見返りを求めずに、誰かに仕えましょう。
 他の人のためにどんなふうに自分を低くすることができるのでしょうか?相手が予想していない形で祝福してみましょう。

永遠の視点を持つとき、私たちは今ここで一致と謙遜と喜びをもって生きることができます。祈りましょう

天の父よ、

私たちが一致と謙遜をもってキリストの模範を生きるよう助けてください。単に命じられているからではなく、キリストのように生きることで、より大きな喜びを体験できるからです。私たちが互いに愛し合うとき、それが世に対する神の愛のしるしとなりますように。

聖霊よ、私たちを助け導き、違いがあっても同じ心構えで愛し合えますように。私たちのために十字架さえも進んで受けられた、神の偉大なる愛に感謝します。私たちもそのような愛を人に示せますように。イエスの御名によって祈ります。