ともに歩くキリスト ルカ24:13-35
私たち人間は、自分たちだけで解決できない問題を抱えております。聖書は、これを罪と呼びます。さらに〈罪は戒めによって機会をとらえ、私を欺き、戒めによって私を殺したのです〉(ローマ7:11)と聖書は言っています。いまの聖句に従えば、罪は詐欺師であり殺人者です。まるで生き物のように、罪は人間に猛威を振るっています。
本日、私たちは「主の日」(日曜日)を覚えて集まっています。しかも本日は、実際に主イエスが復活した日曜日に季節的には近いということで集まっています。それがイースター(復活祭)の意味です。ですから私たちは今日聖書(新約聖書)からイエス・キリスト復活の記事から共に学ぼうとしています。
一言祈ります。「愛する父なる神。今日も私たちを導いてくださってありがとうございます。あなたのみことばを知ることで、この礼拝においてもあなたを心から崇めさせてください。格別に、主イエスの復活がどんなに意義深いことか、私たちに教えてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。
(目立たない二人と歩く主)
本日の箇所は、ふたりの人がエルサレムから約11㎞ほど離れたエマオという村に向かっているところです。ふたりがしゃべりながら歩いていると、復活した主イエスが現れ、三人で一緒に歩きます。ふたりは主イエスの弟子だったのですが、一緒に歩き始めたのが主イエスであることに気づかなかった。まずは、そういう内容です。
24:13-16〈ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。24:14 彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。24:15 話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。24:16 しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった〉。
13節に〈ちょうどこの日〉と書いてあります。〈ちょうどこの日〉とはどんな日かといえば、主イエスが復活した日曜日です。この日の早朝には〈ガリラヤからイエスについて来ていた〉(ルカ23:49)と思われる女の弟子たちが、主が葬られた墓を訪ねますが、主イエスのからだがなくなっており、天使のお告げを聞かされてもいます。
新約聖書には、主イエスの働きやことば、そして死と復活も記した書物(福音書)が四つあります。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの各福音書です。四つそれぞれに個性があるのですが、主イエス復活の記事には共通した特徴もあります。福音書に記された、主イエス復活の記事には、物証、告知、顕現の三本柱があると思われます。
まず物証というのは、空の墓です。主イエスが十字架でなくなった金曜日、アリマタヤのヨセフが日没までに洞穴の墓に葬りました。死体を納めた洞穴には大きな岩で蓋がされていたのですが、日曜の早朝、女の弟子たちがこの墓を訪ねるとこの岩が転がされていて、墓の中に主イエスのお身体はありませんでした。これが物証です。
女の弟子たちは「何者かが主イエスの死んだ身体を持ち去った」と考えましたが、白い衣を着た天使が現れ〈ここにはおられません。よみがえられたのです〉(ルカ24:6)と告知されます。空の墓についての説明は、死体の持ち去り以外にも、いくつか試みられていますが、実際に復活したという途方もない説明は、神から教えられなければならなかったのです。神は大切なニュースを知らせるために天使を地上に派遣します。
空の墓という物証、復活が起こったという天使による告知、しかしそれだけでは駄目で、実際に復活したイエスが現れてくださることが必要でした。それが顕現manifestationです。マルコ福音書は、空の墓と天使の告知があっても、主ご自身の顕現がなければ、主の復活は恐怖でしかないことを教えています(マルコ16:8)。
マタイ福音書では、復活した主イエスは墓を訪ねた女の弟子たちにまず現れています(マタイ28:9)。ヨハネ福音書では、女の弟子たちの代表としてでありますが、マグダラのマリアに復活の主は現れております(ヨハネ20:14-18)。もちろん復活の主は天に昇られるまで十二使徒をはじめとする多くの人たちに現れております(マタイ28:16-17、ルカ24:33-34、ヨハネ20:19&26、Ⅰコリント15:5-6)。
そして本日開いていますルカ24章では、日曜の早朝に墓を訪ねた熱心で活発な女の弟子たちではない、教会の交わりの中核にいる十二使徒でもない、エマオへの道を歩く二人組に復活した主が現れてくださったと告げるのです。ふたりのうちのひとりはクレオパ(ルカ24:18)ですが、もうひとりの名前は聖書のどこにも書かれていないのです。あるいは、多くの絵画でそう描かれているように男性だったのか、もしかしたら二人組とは夫婦者であって女性だったかもしれない、実はもうひとりは性別さえも不明です。
ルカが記録した復活の主が顕現した物語は、主の弟子たちのなかでも真ん中ではない弟子たち、それも絶望と落胆のなかでエルサレムを離れようとしている信仰者たちに、復活したイエス・キリストが近づいてくださり、共に歩んでくださった記録です。
目立たない私たちは、今日落ち込んでいるかもしれません。あるいは礼拝の帰り道も、なお混乱と憂鬱が晴れていないかもしれません。身体や心に痛みを抱えたままかもしれません。しかし、私たちの罪のために十字架にかかって死に、三日目によみがえった主イエスは、私たちが分からなくても、一緒に歩いていてくださるのです。
(祈りを聴かれる主)
それでは、私たちの人生をともに歩いてくださる復活の主イエスは、キリストとして何をしてくださるのでしょうか。
第一に、主は私たちの心や感情を心配してくださいます。ルカ24:17-24を読みましょう。曰く〈イエスは彼らに言われた。「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」すると、二人は暗い顔をして立ち止まった。24:18 そして、その一人、クレオパという人がイエスに答えた。「エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」24:19 イエスが「どんなことですか」と言われると、二人は答えた。「ナザレ人イエス様のことです。この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。24:20 それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、この方を死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいました。24:21 私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。実際、そればかりではありません。そのことがあってから三日目になりますが、24:22 仲間の女たちの何人かが、私たちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に行きましたが、24:23 イエス様のからだが見当たらず、戻って来ました。そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた、と言うのです。24:24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」〉。
主は、私たちの感情を受けとめてくださいます。主はここで二人組の嘆きを聴いていてくださいます。景気のいい話や楽しい話を私たちは好みますが、暗い話を受けとめることは苦手です。しかし主は〈自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた〉(Ⅰペテロ2:24)ように、私たちの怒りや悲しみや痛みと対話してくださいます。
これは、イエス・キリストの名のゆえに私たちの拙い祈りを神が真摯に聴いてくださることでなくて何でしょうか。私たちは祈らなければ(神に聴いていただかないと)やっていけない者であるはずです。自分の心が暗くなり、負のスパイラルに陥る。しかし、主はいま生きておられます。〈すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます〉(マタイ11:28)。主の約束です。
(聖書を説き明かすイエス)
ところで、ふたりの弟子たちの悩み、その内容とは、言語化し、はっきりと言えることでした。主が十字架にかかったことに失望し、復活のしるし(空の墓や天使の出現)に戸惑っていました。しかし、私たちの心を受けとめてくださる〈不思議な助言者〉(イザヤ9:6)は、みことばの教師でもありました。
ある種類の問題は、知的にも教えられて解決します。聖書は、誤りない神のことばとして、素朴に全部、一旦は受けとめて読み進めていくことが大事です。同時に、聖書全体が、人となられた、罪のない神のことば、イエス・キリストを証言するというテーマから離れないようにしたいものです。
24:25-27〈そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。24:26 キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」24:27 それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた〉。
復活の主は、聖書を通して、私たちを賢くしてくださいます。〈みことばの戸が開くと光が差し浅はかな者に悟りを与えます〉(詩篇119:130)。私はもちろん聖書が語っている終末論を信じていますが、終末論にも健全さが必要です。いたずらな終末論が流行ると、十字架の福音が語られなくなります。〈キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか〉。新しい使徒の預言ではなく、聖書のことばと主イエスの霊(聖霊)に導かれたいもの。十字架の福音です。
(愛着の決断と明け渡し)
祈りと聖書、心と頭脳を並べながら、感情と知性について語ってきました。復活の主は、私たちの心(感情)を受けとめてくださいます。また復活の主は、私たちに洞察を与え、聖書全体から、救いをもたらす救い主について教えてくださいます。そして復活の主は、私たちから、しなやかで強い、信仰の意志を引き出します。
24:28-30〈彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。24:29 彼らが、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。24:30 そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された〉。
創世記のヤコブが、主なる神と格闘し、神に〈汝われを祝せずばさらしめず〉〈私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ〉(創世記32:26、文語訳&)と告げたように。神とキリストは、私たちの強い意志を引き出そうとすることがあります。
来主日は教会発足30周年記念礼拝ですが、教会を閉じようかと思う試練が一度(2007年に)ありました。しかしいま振返ると、あの試練を通して、主は、私の信仰的な意志を強めてくださったと思います。信仰者の強い意志とは何でしょうか。
信仰者の強い意志とは、人の言うことを聞かない頑固さや、頭を下げて謝ることのできない弱さではありません。そうではなく、信仰者の強い意志とは、慈しみ深いイエス・キリストとその救い、三位一体の、その本質が愛である神に対する愛着です。
ふたりは強く勧めてイエスをエマオの村で泊ってもらうことに成功しました。そしていっしょに夕食をとろうとしたのです。その食事は聖餐式をも彷彿とさせますが、もっとも親しい交わりのかたちでもあります。その場所は彼らの家であったか、宿屋であったか、分かりません。分からないのですが、ふたりは強引に引き留めて主を客人にしたのですから、自分たちがパンを裂いて、もてなすべきでした。
しかし30節には〈彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された〉と書いてあります。これは、いかなる主との交わりにおいても、主がマスター(主人)とならなければならないことを教えていると思います。そうでありますから、主との交わりにおいて、私たちは明け渡すことを日々学んでいくのです。主に愛着しつつ、自分を明け渡して、日々委ねる。これぞ魂の意志。決断の連続です。
(そして教会の交わり)
魂は、感情と知性と意志の集合体です。信仰は魂に宿るものであり、魂を救います。24:31-35〈すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。24:32 二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」24:33 二人はただちに立ち上がり、エルサレムに戻った。すると、十一人とその仲間が集まって、24:34 「本当に主はよみがえって、シモンに姿を現された」と話していた。24:35 そこで二人も、道中で起こったことや、パンを裂かれたときにイエスだと分かった次第を話した〉。
ここには復活の主によって導かれた本物の教会を見ることができます。祈りも、聖書への理解も強められて、主に明け渡したときに〈目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった〉。信仰は目に見えないものを確信させるものです(ヘブル11:1)。また、見えるものではなく、見えないものに目を留めます(Ⅱコリント4:18)。
あとで思い返して感謝することも多いのですが、祈りとみことばによって信じる者の心は〈内で燃えて〉いくのです。そしてふたりは急遽エルサレムに帰るのですが、それは教会の交わりに戻っていったことを表わしています。復活の主と出会った人たちの集まり、それが教会です。私たちは復活の主によって生かされています。
(祈りは略)。
