主の十字架から救いが始まる ルカ23:32-46
本日から受難週が始まります。私たちは厳密な教会暦をそれほど持ちませんが、聖書全体のクライマックスは主イエス・キリストが十字架にかかって死んだことですので、この季節を覚えないわけにはいきません。主イエスは、受難週の金曜日に死んで葬られ、三日目の日曜日に復活をしています。
ルカの福音書23章を本日は開いております。神の子イエス・キリストは、どのようにして十字架にかかったのか。そして十字架の上で主イエスはどのように振舞ったか。そして直後、どんなことが起こったのでしょうか。
一言祈ります。「愛する神。今日から受難週です。いつも以上に今週は、主イエスの十字架を覚えさせてください。この礼拝でみことばを聴き、あなたを崇める幸いに、いよいよ導いてください。また、喜びの幸いと共に、自分の十字架を担う思いも強めてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。
(私たちとよく似たピラト)
十字架は死刑の道具です。ギロチンは一瞬で、絞首刑は10分くらい。しかし、十字架は、いかにして、もっと長時間苦しめて死なせるかという残酷なものです。ユダヤ人の指導者たちは、すでにユダヤ人議会で、主イエスを死刑にすることを決議していました。さらに、ユダヤ人の指導者たちは、主イエスを十字架刑で殺そうと企みました。
当時のユダヤは、古代ローマ帝国領の一部。要するに植民地でした。そのせいでユダヤの国内であっても、ローマ帝国の許しなしには死刑執行をすることはできませんでした。また、もっと言えば、皆が知るところで、イエスをもっとも惨めに死なせようと考えたら、ローマ帝国が行う十字架刑で殺すことが最上に思えました。
23:1から。〈集まっていた彼ら全員は立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。23:2そしてイエスを訴え始めて、こう言った。「この者はわが民を惑わし、カエサルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることが分かりました。」23:3そこでピラトはイエスに尋ねた。「あなたはユダヤ人の王なのか。」イエスは答えられた。「あなたがそう言っています。」23:4ピラトは祭司長たちや群衆に、「この人には、訴える理由が何も見つからない」と言った。23:5しかし彼らは、「この者は、ガリラヤから始めてここまで、ユダヤ全土で教えながら民衆を扇動しているのです」と言い張った〉。
ユダヤ人の指導者たちは、ローマから派遣された総督のピラトに、ローマの法律で裁いてもらうためには、宗教上の問題ではだめだと知っていました。それで主イエスを政治犯にしようとしました。民衆を扇動し、ローマへの納税をやめさせて、自分自身がユダヤの地で王になろうとしている。そんな絵をユダヤの指導者たちは描いたのですが、ピラトは〈「この人には、訴える理由が何も見つからない」〉。無罪と判断しました。
もちろん、これで引き下がるユダヤの指導者たちではありませんでした。それで、ピラトは、ガリラヤの領主ヘロデ・アンテパスに身柄を預かってもらおうと考えたり(ルカ23:6-12)、過越の祭の恩赦(マルコ15:6)で釈放しようとしたり、もちろんユダヤ人指導者たちへの説得にこれ努めました(ルカ23:13-22)。
あるいは総督ピラトには妻がいたのですが、その妻が「彼と関わらないでください」と伝言をしています。妻は、夢のなかで苦しい目に遭ったと夫に伝えました(マタイ27:19)。しかしピラトは妻に言われるまでもありませんでした。ピラトは、ユダヤ人の指導者たちが〈ねたみからイエスを引き渡したことを知っていた〉のです(マタイ27:18)。
ピラトは、主イエスを、死刑にあたる罪のない人(正しい人)として釈放することもできました。また罪の有無を曖昧にしたまま、祭りの慣習を利用してイエスを赦免することもできました。しかし実際、ピラトが、イエスを十字架刑に定めました。
どうしてでしょう。ユダヤ人の指導者たちより、ローマ総督ピラトのほうが立場が上であったはずです。しかし当時、最高法院のユダヤ人指導者たちがユダヤを治める総督や領主をローマ皇帝に訴えて、辞めさせてしまうということができました。現代にハラスメント(嫌がらせ)の問題があって、ふつう、パワハラは、立場が上の上司から、立場が下の部下へのハラスメントです。
でも、逆パワハラもあるんです。テレビのドラマにも出てきて、実際にある職場の話でもあって、部下にあたる人が不従順で責任者を苦しめるということがありました。もう一度言いますが、当時のユダヤ社会で人に死刑を執行できるのは、占領者であるローマしかありませんでした。ポンテオ・ピラトが正しいと思うことを実行すれば、主イエスは釈放されたんです。
しかしピラトは、信じる正義を貫くことよりも、自分の身を守ることを選びました。どうしてですか。ユダヤ人の指導者たちから、次のように脅されたからです。ヨハネ19:12にこう記されています。曰く〈ピラトはイエスを釈放しようと努力したが、ユダヤ人たちは激しく叫んだ。「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています。」〉。〈カエサル〉というのはローマ皇帝のことです。ユダヤ人の王であることを否定しないイエスは、ローマ皇帝に背いており、ローマ皇帝に背く反逆者イエスを釈放するなら、ローマ人の総督ピラトといえども〈カエサルの友ではありません〉という理屈になります。
主イエスに対する憎しみや殺意は、ピラトにはなく、ユダヤの祭司長や律法学者(派閥でいえばサドカイ人やパリサイ人)の側に大いにありました。しかし最終的に主イエスを裁いて、十字架の刑に定めたのはだれかと言えば、ピラトなのです。ほんとうは願っていなかった。しかし自分を守るために仕方がなかった。言い訳はできます。
しかし自分の身を守るために救い主を殺したのは、ユダヤ人だけではなく、異邦人のピラトでもありました。使徒信条が「(主は)ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と告白されるように、主を十字架につけた地上の責任者は、当時の大祭司のアンナスやカヤパではなく、ローマから派遣された官僚のピラトでした。
(十字架上の三言)
ルカ23:24-25〈それでピラトは、彼らの要求どおりにすることに決めた。23:25すなわち、暴動と人殺しのかどで牢に入れられていた男を願いどおりに釈放し、他方イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた〉。ピラトの決断は、自分を守って、主イエスを死なせることでした。主イエスではなく、別の人物が恩赦を受けました。
ルカ福音書は裁判前後の鞭や平手打ちなどの物理的虐待や侮辱は書かずに、主イエスが十字架についたあとの、様々な人の罵りのことばを次のように記します。曰く。
23:35〈民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」〉。
23:36-37〈兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った〉。
23:39〈十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った〉。
35節にでてくる〈議員たち〉というのは、ユダヤの最高法院(サンヘドリン)の議員たちで、いわゆる、祭司長、律法学者、長老のどれかにあたるユダヤの実力者です。
36-37節に出てくる〈兵士たち〉は十字架刑を執行したローマの下級軍人でしょう。
39節では、主の十字架の両側にいる〈犯罪人の一人〉です。この人は死ぬまで主を罵り続けたようです。
35節の〈議員たち〉も、次の〈兵士たち〉も、そして主の側で十字架にかかった〈犯罪人の一人〉も主に対して同じメッセージを投げかけています。それは何でしょうか。議員も兵士も犯罪人も十字架上のイエスに向かって〈自分を救え〉と言っています。先ほど共に考えたローマ総督ピラトがそうであったように、ふだんは公の立場を持ち、周囲に尽くすような人でも、追い詰められると自分のことしか考えなくなる。
主イエスもいま十字架に架けられて他の人々を救うどころではない、救い主なら自分を救って十字架から降りてみてはどうか、というのです。私の郷里の先輩牧師は、小さいときから聖書のお話を聞く環境にありました。そしてキリストの十字架の話を聞くたびに(男の子だからでしょうか)十字架につけられたキリストが「馬鹿め」と言って降りてきて敵をやっつけたら信じると思っていたそうです。
昔もそうだったかもしれませんが、現在も、ただ威勢がいいだけのキリスト教が局所的に流行っています。間違いなく言えるのは、私たちの救い主は「他者は救っても自分を救わなかった」お方で、十字架につけられていのちを捨てたお方だということです。
自分を救えない(あるいは救わなかった)キリストを、私たちは信じることができないでしょうか。このお方は十字架上で発言をされています。福音書に遺された、主のことばは7つあり「十字架の七言」と言われます。そのうちルカ福音書には3つあるので、次はこれを見ていきましょう。
23:34〈そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」〉。主イエスは「わたしをお救いください。十字架に架けられているのです」と祈りませんでした。また佐倉の惣五郎のように「彼らを呪ってください」とも祈りませんでした。自分を十字架につけた人たちの理由が霊的無知であることをよく見抜いて〈彼ら〉の赦しを願いました。主イエスは自分を救おうとしませんでした。
23:43〈イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」〉。先に見たように犯罪者の一人は〈自分とおれたちを救え〉と言いました。この発言に対して、もうひとりの犯罪者は〈彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」〉。三本の十字架のうち真ん中の一本だけが、救い主の十字架でした。罪もないのに、この救い主は、十字架の裁きを受けておられました。
さらにこの犯罪者はイエスに向かって〈「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」〉と言いました。私たちはいま最高に惨めで苦しい状態、そして瀕死かもしれません。しかし主は、そのうちいつかではなく、〈今日〉入れる〈パラダイス〉の約束をくださいます。〈パラダイス〉とは天国の待合所のことですが、主が十字架から降りておられたら、私たちは主と共にいることができたでしょうか。
23:46〈イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた〉。主は十字架の上で何もかもなくされました。すぐれたお話をする知恵も、奇跡を行う力も、活動を続けるための健康も、経済も、弟子たちとの人間関係も失いました。瀕死の状態から、ほんとうの臨終を迎える、神にお任せする以外にない状態になりました。
臨終、神にお任せする以外ない状態になったとき〈父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます〉と祈れることは幸いなのではないでしょうか。たとえば私たちにそれができるでしょうか。これも主が十字架にかかってくれたから、私たちも主のようにいのちの君である神の御手に信頼できるのではないでしょうか(ピリピ3:10-11参照)。
(主の死に導かれる人たち)
主は息を引き取られました。しかし死の直後もまた様々な人の様々な反応があったとルカ福音書も記します。まだ芽吹く前ですが、希望と期待のある出来事でした。
ある人たちは、主イエスの十字架の苦難と死を見ただけで信仰が現れました。23:47〈百人隊長はこの出来事を見て、神をほめたたえ、「本当にこの方は正しい人であった」と言った〉。死刑執行の責任者であるローマ人の隊長がイエスに対する信仰を告白します。自分も含めて世の中に〈正しい人〉がいない事実を知る人が、主イエスを見て驚くのです。主の隣の犯罪人もそうでした。葬りを行ったアリマタヤのヨセフもそうでした。この人たちは、復活も聖霊降臨も知らずに信仰告白に至った人たちでした。
次に、悲しみに暮れた人たちもいました。23:48〈また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、これらの出来事を見て、悲しみのあまり胸をたたきながら帰って行った〉。罪のない人が苦痛と共に死ぬことが、主の正しさ以上に受け入れられない人たちでした。ルカ23章には27-31節にも民衆とくに〈エルサレムの娘たち〉の悲しみが描かれていました。しかし、この人たちもまた53日後、聖霊を受けて回心したかもしれません。
最後に女の弟子たちが主の死後の出来事を観察した事実が述べられています。23:49〈しかし、イエスの知人たちや、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちはみな、離れたところに立ち、これらのことを見ていた〉。女の弟子たちは、主の葬りも観察し、あの日曜日の朝、墓に急いだ人たちです。彼女たちは、主の復活の出来事を通して、まことの信仰をいただきます。主の死だけで信じた者、ペンテコステを待たねばならなかった者、そして主の復活の事実で信じるに至る者がいたのです。救い主の死は絶望的でしたが、父なる神が永遠の命を携えて御子イエスを起こしたのです。神は希望の神です。
たしかに主の十字架から私たちの救いの信仰が始まったことを、今日私たちは覚えます。十字架による救いを信じつつ、受難週を歩んでまいりましょう。
(こののち祈り)。
