2026年3月22日礼拝説教「新しく生まれた人の光栄」Ⅰペテロ2:9~10

新しく生まれた人の光栄  Ⅰペテロ2:9-10

 イスラエルと組んで、アメリカがイランと戦争を始めて、3週間が経ちました。アメリカ国内でもイランとの戦争を支持する人よりも反対する人が相変わらず多いようです(ロイター19日、支持37%、反対59%)。そんななか戦争を推進するキリスト教の右派勢力を「米国の福音派」ということばで括って語られることが、しばしばあります。

 聖書を誤りない神のことばと信じ、神・罪・救い・終末論などの信仰の基本教理を信じるプロテスタントのグループを福音派と定義するならば、私たちの教会も福音派ですし、恥じることはないと思います。

 ただ福音派といっても、社会倫理面ではノータッチで個人倫理だけを問題とするグループもあります。また個人倫理だけでなく、あるいは個人倫理以上に、この世の問題にコミットしようとする社会倫理を重視するグループもあります。そして社会倫理を重視すると、同じ福音派でも政治的判断が右と左に分かれてしまいます。

 さらに社会奉仕や社会行動を実践していくなかで、クリスチャンではない方たちと対話したり協力したりすることが多くなりますから、自分たちの信仰をどういうふうに表現すればいいのだろうか。私たちは、地域、職場、学校、家庭などの公共空間で、キリストの福音をストレートに語るべきか、そうではなく、そこでの役割に徹するべきか、神からの知恵や導きをいただく必要があります。

 そういう2026年に生きる私たちですが、先週、私はSNSで驚くべき統計結果の存在を知りました。前島常郎さんという元・宣教団体スタッフの方がいるのですが、この方が、全米の「福音派」と自称する人々の53%が「聖霊は、力ではあるが人格ではない」と思っているらしい、と教えてくれています。53%といえば過半数です。(注:前島さんは他にも2つの重要な信仰理解が米国の「福音派」に欠けていることを伝えてくれていますが、この説教では集中のため省略しています)。

 日本の福音派にとって、もっとも影響力のあるのはやはりアメリカの福音派でしょう(次は韓国かもしれませんが)。そのアメリカで自分が「福音派」と思っている人たちの半分以上が「聖霊は心を持った存在である」とはっきりと信じられてはいないというのです。聖霊をエネルギーのようにしか考えられない「福音派」がかなりいるのです。

 ある人は「聖霊を人格と考えず、力とだけ認識していても、大差ない」と言うかもしれません。しかし、そうではありません。聖霊の大切な働きのひとつは、私たちを新しく生まれさせること(新生させること)です。聖霊による新生がなければ、私たちはキリストによって救われること(神の国に入ること)ができません(ヨハネ3:3-8)。

 もし聖霊が単なる力やエネルギーにしか過ぎないなら、私たちは新しく生まれたとしても、神のことが分からないはずです。生まれながらの人間は、そのままでは神の愛も救いもわからないので、新しく生まれる必要があるのです。そして、聖霊によって新しく生まれて、自分の願いではなく神の御心に向かって歩むようになります。

 ですから「聖霊は、力ではあるが人格ではない」と考えてしまうクリスチャンは、新生のほんとうの意義が分かっていないし、もしかしたら新生していない(=救われていない)かもしれない。また、たとえ新生していても聖霊を人格として意識していないので、その価値観は人間的(肉的・世的)なはずで、神の御心に従えていないはずです。

 もしほんとうに米国の「福音派」の半数以上が聖霊を人格として捉えていないのなら、それは前島さんの言うとおりこれは「聖書の伝統的な教理からの、明らかな背反」であり、「もはやアメリカの『福音派』は、キリスト教とは言いがたい」と言われても仕方ないのです。本日のタイトルの「信徒の光栄」とは、名ばかり(名目上)のクリスチャンではなくて、新しく生まれた真のクリスチャンに言えることです。

 一言祈ります。「愛する神。私たちに救いを与えてくださってありがとうございます。救われた私たちが、あなたのくださった救いを人間的な解釈で曲げたり薄めたりしないで、正しい信仰に立たせてください。本日も礼拝のなかで聖書から福音を聴きますが、私たちが共に〈みな、同じ霊的な食べ物を食べ、みな、同じ霊的な飲み物を飲みました〉(Ⅰコリント10:3-4)と言えるようにしてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。

(聖書が語る新生)

  先ほども言いましたが、真のクリスチャンとは、聖霊によって新しく生まれた人のことです。別の言い方をすれば、信じて聖霊を受けた人(=永遠の命を得た人)です。ヨハネ福音書3章では、主イエスがニコデモとの会話で新しく生まれることの必要性が語られています。

 本日、私たちは使徒ペテロが書いたと言われる第一の手紙を開いていますが、この手紙の最初にも新生(=聖霊によって新しく生まれること)が言及されています。

  Ⅰペテロ1:3〈神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました〉。神の〈大きなあわれみ〉とキリストの復活が、新生の実体験をもたらし、さらに〈生ける望み〉が付いてくるのでした。

 同1:23〈あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです〉。聖霊によって生まれるとは、たしかに神による魂の神秘です。しかし、ただ神秘なのではありません。聖霊の働きは、神のことばの働きでもあります。

 キリスト教信仰は、都度都度のご都合ではありません。臨機応変と、ご都合主義は違います。誤りなき神のことばである聖書、なかでも、その中心に、イエス・キリストの十字架の福音があります。1:23の〈生きた、いつまでも残る、神のことば〉を受けて、続いて24-25節にこうあります。1:24-25〈「人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。1:25 しかし、主のことばは永遠に立つ」とあるからです。これが、あなたがたに福音として宣べ伝えられたことばです〉。

 私たちは、聖書を尊び、聖書を信ずるプロテスタントです。そのなかでも、聖書信仰に立つ福音派です。そのような聖書観あってこそ新生の教理に立つことができます。〈人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません〉(ヨハネ3:3)と書いてあるとおりです。

 今でこそアメリカの福音派といえば右派勢力の代名詞ですが、福音派が最初に米国の主要メディアから注目されたのは、今からちょうど50年前の1976年。その年の大統領選で、民主党候補ジミー・カーターが、自らを「ボーン・アゲイン」(新生した者)と公言したことがきっかけでした。

 そのときから米国福音派の社会参加・政治関与が大きく進むのですが、50年経って、多くの信徒がほんとうに守るべき信仰の要諦を失ったのではないでしょうか。聖霊は御心を持ったご人格であって、エネルギーなどではなく、私たちの心を支配し、私たちの歩みを聖なる生活にするのです(Ⅰペテロ1:15-16)。

(新生は大きな変化)

 本日の箇所2:9-10に入ります。〈しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です〉。これは、聖霊によって生まれ変わったクリスチャン一人一人のアイデンティティです。生まれ変わりの大きな変化は、2:10に記されています。2:10〈あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています〉。

 2:10は旧約聖書のホセア書1-2章が反映されているところです。ホセア書は、預言者ホセアの預言のことば集であると共に、ホセアの家庭の生活が描かれます。専門的には行為預言といいますが、個人的なふるまいが神からのメッセージとして機能します。ホセアには子どもが3人いたのですが、ホセアは今でいう毒親のようなふるまいを強いられます。とんでもない名前を長女と次男に付けるようホセアは言われました。

 長女の名前は「あわれまれない」。次男の名前は「私の民でない」。これは主なる神が、イスラエルをあわれまないし、自分の民(神の民)とみなさない、という宣言でした。

 しかし神は、そのあとに〈わたしは、わたしのために地に彼女を蒔き、あわれまれない者をあわれむ。わたしは、わたしの民ではない者に『あなたはわたしの民』と言い、彼は『あなたは私の神』と応える〉(ホセア2:23)。

 神の回復とは、不名誉をなくすだけでなく栄誉を与える。病をなくすだけでなく健康を、罪過をなくすだけでなく義の報いを、呪いをなくすだけでなく祝福を与えます。聖霊によって生まれるとは、大きな大きな変化です。

(新生した者の光栄と使命)

 新生とは何でしょうか。新生した信徒は、悪から離れ、神のことばを生まれたばかりの乳飲み子のように慕い求めます。聖書に親しもうとしない信徒は成長がなく、救いがぼんやりとしてきます(Ⅰペテロ2:1-2)。しかし新生した信徒は、キリストのいのちと愛の恵みにたしかに与り、また、与っていることがわかるのです(同2:3)。

 それで、新生した信徒は、キリストとつながるために、教会の礼拝と交わりを求め、一員となろうとします(同2:4-6)。クリスチャンとは、イエス・キリストに絶対的な価値を置く者です。クリスチャンがキリストのためにいのちをかけるとき、クリスチャンとそうでない人との違いが明らかになるのです(同2:7-8)。

 2:9では、新しく生まれたクリスチャンが、①〈選ばれた種族〉、②〈王である祭司〉、③〈聖なる国民〉、④〈神のものとされた民〉になると書いてあります。実は、このⅠペテロ2:9こそ、私たちの教会が始まって間もない黎明期に「招きのことば」として主日ごとに読まれた聖句なのです。

 この教会を練馬バプテスト教会の衛星教会として開始した兄弟が、どんな考えをもってこのⅠペテロ2:9を選んだのか聞いたことはありません。どこの教会でもしているような選択ではないことは分かります。そしてこのⅠペテロ2:9がはっきりと主張していることは、すべての信徒が神と人との前に祭司の役割を果たす万人祭司の教えです。

 新約聖書が書かれた当時、ユダヤ人ではないクリスチャンは、傍流であり、引け目を感じていました。ユダヤ人は旧約聖書も学んでいて、幼いときから聖なる唯一の神を知っていました。育ちがよければ、ユダヤ人の信徒は、良心的で、敬虔で、教会でも役に立つように見えました。

 しかしこの〈選ばれた種族〉はユダヤ人のことではないのです。そうではなく民族も人種も超えて、もっと言えば性別も社会的身分も超えて、すべてイエス・キリストを信じて新生(=新しく生まれた)人は〈王である祭司〉なのです。〈聖なる国民〉〈神のものとされた民〉なのです。

 もとよりこのⅠペテロ2:9は、とくに旧約聖書、出エジプト記19:6を反映しています。出エジプト記19:4-6を読みます。曰く〈あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。19:5今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。19:6あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる〉。

 民族としてのイスラエルにとって救いの原点とは、エジプトで400年奴隷であったけれど、モーセを遣わした神によって解放された、その出来事でした。それは民族至上主義にもなるけれど、普遍的な救いの模範でもあります。長年の奴隷、虐げられた者であったけれど自由になる(救われる)というドキュメントです。

 すでにⅠペテロは2:5では教会生活への招きとして、こう語られていました。〈あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります〉。バプテスマも受けて新生の恵みを証しした各々は〈聖なる祭司〉です。説明は省きますが、クリスチャンがイエス・キリストを通してささげる〈神に喜ばれる霊のいけにえ〉とは各々の人生です。

 イエス・キリストの十字架による神の救いに与って、お互いの人生は明るく強く聖なるものとなりました。私たちはそれぞれ、召され方も、与えられている賜物も痛みも、ユニークです。しかしキリストによって罪赦されて、自分の人生を〈神に喜ばれる霊のいけにえ〉として献げることができます。これが万人祭司です。

 そして祭司となった私たちは、王でもあります。エジプト国家の奴隷であったイスラエルが〈祭司の王国、聖なる国民〉となったように、イエス・キリストを信じて新生したクリスチャンは、もはや罪の奴隷ではありません(ローマ6:6他)。それは、神の導きに従って自分を治める王であり、世界と教会に仕える王なのです。

 万人祭司、万人王。さらに私たちは万人預言者、万人伝道者です。2:9の後半にこうあります。〈それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです〉。世から贖い出された私たちは、私たちの身に起こった〈栄誉〉を世に知らせます。私たちは新しい人です。

 祈りましょう。「主よ、私たちは聖霊によって新しい人に生まれました。導きを信じて今週も明るく強く聖なる歩みができますように。イエスの御名によって。アーメン」。