2026年4月12日記念礼拝説教「愛によって建てあげる」(片山信彦先生)エペソ4:16

愛によって建てあげる(説教者:片山信彦先生)  エペソ4:16

Ⅰ.はじめに

教会創立30周年、おめでとうございます。

この教会の歴史を振り返ると色々なことが有ったと思います。ご苦労もあったでしょう。でもそこに神様の導きと恵みがあり30周年を迎えることができたのは感謝ですね。

木森先生との出会いは彼がまだ大学生の時だったと思います。東京に出て来た彼がまだ若々しく意気揚々と学生時代を過ごしていました。少し内気に見えた半面、負けず嫌いの反骨精神もある青年という記憶があります。そのころに比べると木森先生も私も大分年を取りましたね。

Ⅱ.過去の感謝

 1996年、当時練馬バプテスト教会の会員で、TCUの教師の伊藤先生と奥様がご家庭を開放して印西で礼拝をスタートしました。それは練馬バプテスト教会の衛星教会でした。確か、木森先生と伊藤先生は同年配ですよね。木森先生は大学卒業後、神学校に進まれ、和歌山県の田舎で牧師としての働きの後、アメリカのミネソタで一年過ごされ、2001年9月にこちらに来られ、2002年の4月からこの教会での奉仕も始まりました。

2005年4月からは13年間駅前のホテルのホールを借りて礼拝を続けたあと、2018年7月にこの礼拝堂が建てられたのですね。

この礼拝堂の開所式に参列したことを懐かしく思います。

家庭集会から始まったこの教会が30年の歩みを重ねてこられたのは本当に素晴らしいことです。

「30」という数字は聖書ではイエスが公生涯を始めた年齢ですし、ダビデが王になった年齢でもあります。一つの区切りをつけて新しい働きの始まりとして位置づけることができます。

今までの歩みを感謝すると同時にこれからの新たな歩みを主に期待する時ですね。

Ⅲ.教会の本質

1. 教会とは何でしょうか?

教会と言えば、会堂と言う建物を指すこともあるかとは思いますが、教会の本質は建物と言うよりも、神を信じる人々の集まりを指します。教会と訳されるギリシャ語のEkklesia(エクレシア)の“ek”は(~から)と言う言葉と”Kaleo”(呼ぶ)と言う言葉から来ています。奴隷状態から自由へ、罪から救いへ、絶望から希望へ、闇から光へと呼び出され、召し出された人々の集まりが教会だと言えるのです。聖書では、信仰を持つ人々が共に集い、祈り、支え合う共同体として描かれていますね。

また、使徒パウロは教会を「体」にたとえています。そして、その頭(かしら)はイエス・キリストです。これはつまり、教会が、一人ひとりが異なる役割を持ち、互いに支え合いながら全体として一つのいのちを生きる、そのような有機的なつながりを持つものだということでしょう。

先ほど読んでいただいた、エペソ人への手紙4章16節には、「キリストによって、身体全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。」とある通りです。

ここで大切なことの一つは、一人ひとりが異なる部分を持っている事、つまり違いがあるということです。そしてその違いを否定することなく、むしろ互いに違いを尊重しながら支え合うことです。それを可能にするのは愛であり、愛によって互いに支え合う時に各自が成長するだけでなく、身体全体も成長するのだと語らえています。

2.ですから、ここで大切なキーワードは、「違い」と「愛」と言う言葉です。

では、まずは「違いがある」、と言うことを考えてみましょう。違いがあるということは素敵なことですし、豊かなことだということに気付きたいのです。

この教会には多くの異なった国の方がおられる、と聞きました。

先月、私は埼玉の国際教会で説教したのですが、そこでは日本語と英語の両方でお話ししました。まず日本語で話して、その後自分で英語で話す、という忙しい説教でした。時々、日本語で話した後「あれ、なんて言ったのか」と分からなくなったり、日本語の前に英語で話したりしてこんがらがることが有ります。でも、まだ二カ国語で済むのですがこの教会は説教を多くの言葉に訳していますよね。何か国語に翻訳しているのですか? 素晴らしいですね。

でも、言葉の問題だけでなく、文化や習慣、表現方法や感覚の違いがあると大変なことも多いですね。誤解や対立が生まれ、深く分かり合えないということもあるでしょう。そこでは赦しと寛容、忍耐が求められます。更には時間も必要になるでしょう。しかし、それらの違いを超えて、キリストによる一致があるならば、それらの違いは豊かさになるのです。

私はワールド・ビジョン・ジャパンという国際NGOで働いて来て、多くの国を訪問する機会があり、色々な文化や伝統、物事の考え方や進め方に接してきました。

(スライドでいくつか紹介する)

ルワンダに行った時、そこの教会の礼拝に参加しました。そこでびっくりしたことが有りました。礼拝開始の時間になる前から会衆が賛美をしています。賛美だけでなく、手拍子やダンス、です。いつの間にか礼拝が始まったと思ったら、更に賛美が続きます。歌って、歌って・・・、みんなが一斉に祈ったり、自由にあかしをする人が前に出てきたり、説教中も、「アーメン!」「ハレルヤ!」声がしたりで、今まで私が知っている礼拝とは全く違った自由な礼拝でした。最初は戸惑いましたが、「あ、これがキリストにある自由なんだ」と実感できて、心が豊かに満たされる経験でした。

キリストにあるならば違いは豊かさになるということです。

3.では、「愛」とはどういうことでしょうか?

 「愛」について多くの人々が色々な面から語っていますが、誰でもが思うことは、自分は愛されたい、ということではないでしょうか。自分の存在を認めてくれて、愛してほしい、というのは人類が共通に求めるものです。でも多くの人は、自分は愛されていない、大切にされていないとも感じています。愛されていない自分だから人を愛することもできない、とも思うのです。愛されていることが分かっている人が他者を愛することができるのだと思います。ですから、まずは愛されていることを知ることが最初であり、大切です。

愛されるのには外見や能力、才能は関係ありません。ましてや国や文化、年齢や社会的な地位も関係ありません。

私はキングス・ガーデン東京という高齢者のための施設の責任も持っています。

KG東京では、「心の時間」という聖書のお話を聞く時間があります。近隣の教会の先生に来ていただいて、聖書のお話をしていただいています。

練馬KGに入居された方で、聖書に関心が湧いて「心の時間」に参加されたご婦人がおられます。その方は脳梗塞の後遺症などがあり右手がご不自由ですし普段は車いすでの生活です。この方が「心の時間」に参加される中で、こんな私でも愛されていることが分かったのでキリストを救い主として受け入れ、バプテスマを受けたいとおっしゃいましたので、相談して練馬KG内で昨年バプテスマ式を行いました。

実はバプテスマを受けられたご本人だけでなく、お世話をしている職員が大喜びでした。愛されることが分かると自分が喜びに満たされるだけではなくて、他者に喜びを与え、豊かにすることもできるのではないでしょうか。

障害の有無、年を取っているかいないかに関係なく、一人ひとりが神様から愛されている大切な存在なのだということを覚えたいと思います。

 皆さん一人ひとりが神に愛され、召された大切な存在です。

国や文化、言語や人格が異なっても大切な存在なのです。

何もできなくても大切な存在です。皆さんの存在自体が人を励まし、喜びを与えることができるのです。

 私の義理の母は4か月前に103歳で天に召されました。彼女の晩年はベッドに寝ているか起きて車椅子に座っているかの生活でした。自分では何もできない存在だった、と言っても良いでしょう。でもその義母の存在は私たち夫婦にとって大きな喜びと励ましを与えてくれました。

愛することは難しいことです。自分の力で愛そうと思っても愛せないことがあります。

でもまずは一人ひとりが愛されていることを知ることから、愛すること、赦すことが始まることを覚えたいと思います。そして、愛は人を通して伝わっていくものです。

このことは、イエス・キリストが私たち一人ひとりを愛され、その愛の故に私たちの罪を赦し、新しい命の道に導いてくださった、ということに基づいています。

(ヨハネの手紙第一4:10)「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

4.「違い」と言うことと「愛」について考えてきました。

 異なっているからこそ、そこに発見や喜びや豊かさがあるのです。

愛されている存在として、互いの違いを大切にしながら成長するのです。そして、一人ひとりが成長するだけでなく教会全体が愛によって互いに支え合い、一致する時に教会は成長し、神様に喜ばれる共同体になっていくのではないでしょうか。

Ⅳ.未来へのチャレンジ

  使徒パウロはピリピ書3:13~14でこう語っています。「兄弟たち。私は自分が既に捕えたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち後ろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。」

30周年を迎えたこの教会はこれから何を目指して走るべきなのでしょうか?

皆さん自身は何を目指して走るのでしょうか?

 私たちの信仰は、神が過去に私たちのためにしてくださったこと、という歴史的な経験の中で生まれ、育まれます。ですから教会と個人の歴史を感謝と共に受け止めることが大切です。しかし、それは常に私たちを未来へと導くものです。今までの歴史を未来への歩みの一部として捉えることが大切です。

主イエスはこの教会に使命を与え、今まで導かれて来られました。その歴史を受けとめた上で、この教会のこれからの使命は何かを考える必要があります。

また、どのようにその使命を果たすのかも祈り、求めるべきですね。

教会は若い世代に対して、彼らが人生で直面するであろうことに備えさせる必要があるでしょう。高齢の世代に対して、変化する世界の中で彼らの必要を満たすよう助ける責任があるかもしれません。周囲の地域社会に対して、救いの良い知らせを宣べ伝え、キリストの愛の模範となる責任があります。

この教会の歴史の中で語られる信仰、献身、そして奉仕の物語が、皆さんを強め、備えさせ、「千葉ニュータウンをキリストが崇められる街々に」というビジョン実現のために、この地における次の30年、50年へと突き動かす力となりますように願います。

Ⅴ.まとめ

  教会は、神の国の初穂であり、世界における神の臨在の始まりです。ですから教会は、今日までの歴史を通して示された神の忠実さ、優しさ、憐れみを語り続け、共同体としてそれを現実のものとして表して、神様の御旨と御心を実現させていく使命があります。

今までこの教会を導き、支え、祝してこられた神様に「主は素晴らしい!」と感謝しつつ、栄光を神様にささげて前に進みましょう。

これからも主に期待しつつ、「愛によって建てられる」教会になってゆくことを期待しています。

祈り