神は人を信じるか ヨハネ2:23-3:21
本日は礼拝で聖餐式があります。キリストの十字架の死を覚えて、パンとぶどうの杯をいただく礼典です。私たちの教会もそうですが、多くの教会では伝統的にパンと杯に与るのは、バプテスマ(いわゆる洗礼)を受けている方に限っています。
それでは、バプテスマを受けるにはどうしたらよいのか。自分の家族や友人にクリスチャンがいる、それはすばらしいことですが、その人自身がイエス・キリストを信じているかどうかが、バプテスマを受けるためには必要なことです。
教会にとって最も大切に考えなければならないことのひとつは、それぞれの心(各人の魂)にイエス・キリストが宿っているか、すなわち聖霊を受けているか、永遠のいのちを得ているか、です。この魂の救いがあって、バプテスマや聖餐といった礼典にも、正しい意味が生じるというものです。
本日は、どんな人にもわかりやすく、この大切な魂の救いについてお話ができたらと思います。礼拝が祝されるように、ここでも、心をあわせてお祈りをいたします。一同、黙祷の姿勢をお取りください。万物を造られた聖なる神に祈ります。
「天のお父様。あなたは、この世界に、神の独り子イエス・キリストを救い主としてお与えになりました。イエス・キリストを通して、私たちは、聖なる方としてあなたを知り、罪深い自分とこの世を知り、救いの道を知らされます。どうかこの礼拝で、神のことばを聴くお一人お一人に聖霊の恵みと平安がありますように。救い主イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。
(新生というチャレンジ)
イエス・キリストは、ニコデモという人にこう言いました。〈人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません〉(3:3)。どんな人も、例外なく〈神の国を見る〉ためには新しく生まれることが条件となる、という意味です。このことばがどのように発せられたのか、2:23から読んでいきましょう。
2:23-3:3〈過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。2:24しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。すべての人を知っていたので、2:25人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。3:1さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。3:2この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」3:3イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」〉。
イエス・キリストは奇跡を行いました。とくに多くの病人に手を置いて癒しました。これは人々の健康や生活を良いものにする愛の働きでした。しかし主イエスの奇蹟は〈しるし〉とも呼ばれます。すなわちイエス・キリストの奇跡を見て、沢山の困っている人が助かると共に、奇蹟を通して主に対する信仰が人々に生まれたのです。ですから〈しるし〉とは「証拠としての奇蹟」とも言われます。
主は神の国を伝える働きを最近始めたのですが、この福音書では、ユダヤの都エルサレムでも主は活動をしておられます。イエス・キリストの奇蹟を見て多くの人々が信じました。しかし〈イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった〉と書いてあります。この「任せる」ということばは「信じる」と同じことばです。すなわち、人々は主イエスを認め、信じたのだけど、主イエスは人々を信じなかったと書いてあるのです。
どうしてでしょうか。〈イエスは、人のうちに何があるかを知っておられた〉と書いてあります。私たちは、神を信じるかもしれないけれど、神に信じてもらえているかという話です。神は、主の癒しからわかるように、私たちの健康や生活を心配してくださいます。しかし、それだけでなく、私たちの魂の状態を心配しておられます。
3:1からニコデモという人物が登場し、ここでは主イエスと重要な対話を行います。ニコデモは〈パリサイ人の一人〉で〈ユダヤ人の議員〉でした。道徳的にも立派な宗教人で、社会的にも地位のある人ということです。主イエスはこのとき30歳くらいですが、ニコデモはずっと年上だったでしょう。他の箇所からの推測ですが、ニコデモは経済的にも裕福でした。3:10に〈イスラエルの教師〉と出てくるので、聖書を人に教える学識ある人でもあったはずです。
非の打ち所のないようなこの人物が、ユダヤでは田舎のほうであるガリラヤで活動を始めたばかりの大工出身の青年に面会を求めました。夜、たぶん人目を忍んできたのです。ニコデモもまた主イエスがエルサレムでした奇蹟を目撃していました。〈神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません〉。ニコデモもまたイエスという人の名前に信仰を持ち始めたのです。
しかし主イエスは言われました。〈まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません〉。〈まことに、まことに、~言います〉は主イエスの口癖です。大切なことを話すときに使います。
そして「神が共にいる」という救いに与りたいのなら新しく生まれる必要があると説いたのです。人は儀式によって救われるのではなく、地位や名誉や教養によって救われるのでもありません。ニコデモのような道徳的な人も、新しく生まれることが求められました。キリストによる救いとは、新しく生まれることから始まります。
(風のような聖霊の働き)
ニコデモは、主イエスの言うことが分かりませんでした。〈人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか〉と尋ねました。人生は簡単にやり直せるものではないのです。私たちも、神のことばが分からなければ率直に探求すべきです。
主イエスの答えは、ある意味、同義反復、繰り返しでした。3:5〈人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません〉。3:6〈肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です〉。3:8〈御霊によって生まれた者もみな、それと同じです〉。新しく生まれる、とは、上から生まれるということであり、それは神の霊である聖霊によって生まれるということです。
主イエスはここで聖霊を風にたとえておられます。3:8〈風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです〉。風は目に見えません。しかし存在します。風は自由に吹きます。聖霊もまた、神としての主権を持って働きをなします。風は見えませんが、音を聞くことができます。また旗がはためいたり、風車が回ったりすると、風の存在と動きが見えるようになります。聖霊も同じで〈御霊によって生まれた者〉や御霊に導かれた教会をとおして、聖霊の存在と働きが視覚化します。
私たちが聖霊によって新しく生まれることを願うなら「聖霊をください」と父なる神に求めましょう(ルカ11:13)。そして信仰は、本人の主体的な決断や継続でもありますが、同時に、神のことばと聖霊の働きに委ねることでもあります。
〈生まれる〉ということ自体が、能動的なことではなく受動的(受け身)なことです。キリスト教は「信仰によって救われる」と言いますが、その信仰も含めて救いは〈神の賜物〉(エペソ2:8)、父なる神からのギフトです。この神の御霊による救いを、新しく生まれるというのです。信仰による救いは、神と人との共同作業です。
(救いの十字架を仰ぐ)
救いは神から与えられ、その信仰も神から与えられます。だとしたら私たちは何をどのように信じたらいいのでしょうか。学識のある宗教人、聖書に詳しいニコデモであっても、御霊によって新しく生まれるとは、理解に苦しむことでした。〈どうして、そのようなことがあり得るでしょうか〉。ニコデモも私たちと同じです。
神がなさろうとすることを、人は理解できないし、分かろうともしないのかもしれません。だからこそ、御霊によって新しく生まれる必要があったし、イエス・キリストが〈天から下って来る〉(3:13)必要がありました。また、主は自分のしている宣教は、父なる神と共にしている宣教だと思っていました(3:11参照)。
そして主はご自分の最後は、次のようになると語られました。3:14-15〈モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。3:15それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです〉。
旧約聖書のモーセの時代、荒野を旅するイスラエルの民が、神とモーセに逆らう罰として燃える蛇にかまれて裁きを受け、多くの者が死にました。民が反省したので、モーセは神に聞いて、青銅で蛇のレプリカを造り旗竿の上に付けました。すると蛇にかまれた人たちも、青銅でできた蛇を仰ぎ見ると死ぬのではなく生きたのです(民数記21:3-9)。
この聖書の記事をニコデモも知っていたはずです。旗竿の上に上げられた青銅の蛇を仰ぎ見ると、裁きを受けてあたりまえの民が助かった。そのように、十字架の上に上げられたイエス・キリストを仰ぎ見ると、裁きを受けてあたりまえの全人類が助かるのです。〈モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません〉。
その人が新しく生まれた人なのか、そうでないのかは、私の罪のため(罪による裁きから免れるため)に、主イエスが十字架で死んだことを認めるかどうか、信じるかどうか、です。十字架の救い主を仰ぎ見るより、私たちが助かる方法はありません。
しかし〈十字架のことばは滅びる者たちには愚か〉(Ⅰコリント1:18)です。高校生だった私が、50年前福音を聞いたとき、2000年前にイエスが十字架で死んだことと、20世紀の今を生きている自分と、何の関わりがあるかと思いました。この現代に(パソコンもスマホもまだなかった時代ですが)こんなことを信じている人がほんとうにいることが不思議でした。
しかし、どうでしょう。私は今、私の罪のために、イエス・キリストというお方が、身代わりになって、私の受けるべき神の怒りと裁きと呪いを背負って死んでくださったと信じます。もしあなたが、キリストの十字架はあなたの罪の身代わり(贖い)であったと信じられるなら、あなたは新しく生まれているのです。
(告白する信仰)
新生は、恵みであって、聖霊によるものでした。新生した根拠は、主イエスが十字架で死んだのは私のためであったと信じることができることでした。そのようにして主イエスとニコデモの対話は終わりました。この会話のあとに、ヨハネ福音書を書いた人の説明が続きます。
まずヨハネ3:16です。〈神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである〉。他の聖句が滅びても、ヨハネ3:16が残れば、キリスト教信仰は続いていくとルターに言わしめた聖句です。全世界のクリスチャンが暗唱可能であるべき聖句です。それぞれのことばでもよいので、いま暗唱してみましょう(やってみる)。
神は、私たち人類に、3つのものをくださいます。ひとつは、最初のクリスマスに生まれてくださった〈そのひとり子〉イエスご自身です。ふたつめは、この御子を信じる信仰です。信仰は私たちの主体的な決断でありつつ、神からの賜物でもあります。そして三つめは、信じて与えられる救い~罪の赦しと永遠のいのち(聖霊ご自身)~です。
信じて救われると聞かされて、読者である私たちはどうでしょうか。ではキリストを信じない者は、と問いかけたくなるでしょう。福音書は続けます。3:17-21〈神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。3:18御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。3:19そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。3:20悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。3:21しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る〉。
まず、神の第一の願いは、私たちが滅びるのではなく救われることです。私たちは、信じない者ではなく信じる者になりましょう(ヨハネ20:27)。
次に18節で、主イエスを信じない者は〈すでにさばかれている〉と記されることです。そしてその〈さばき〉とは19節によれば〈光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである〉のです。信仰という心の問題、魂の世界なのに、裁きが目に見える行動や生活にすでに現れていて、そのことが自分の心の本性を映しだしているということです。
クリスチャンも悪いことをします。明らかな罪を犯してしまうことがあります。クリスチャンでない人とそれほど変わらないかもしれません。しかしキリストの十字架を正しく一旦信じた者は、神の赦しの愛を知っていますから光を愛して光のほうに行くのです。私たちは、罪を犯さないのではなく、罪を犯しても悔い改めることによって〈真理を行う者〉(3:21)になれるのです。
ニコデモは、主イエスとの会話のあと、ヨハネ7章では仲間からのプレッシャーで信仰の告白を貫けない人物として描かれます(7:50-52)。しかしイエスが十字架で死んだ直後は、アリマタヤのヨセフと共に、主の死体を葬る者として、イエスに付く者であることを公にするのです(19:39)。主の十字架の恵みを信じる、新しく生まれた者として、このときニコデモは〈真理を行う者(信仰を告白する者)〉となったのです。
聖霊によって新しく生まれた者は、光のほうに来ます。罪を告白して、悔い改めたことを恥じることなく、信仰を公にします。
新生した者は、周りが止めても、バプテスマを受けたいと言うのです。日本には「隠れキリシタン」ということばが存在しますが、このことば自体が矛盾を孕んでいるのです。状況や信仰には個人差がありますが、私たちは主から与えられた光である真理(キリストの救い)を隠すほうが不自然だと知りましょう。
(まとめ)
新しく生まれなければ神の国に入ることはできない。主イエスはそのように宣言されました。聖霊によって生まれてこそ、魂の救いはなるのです。魂の救いは、主イエスの十字架を「私の救い」として受け入れて、信仰を公にします。主の聖餐に与るためにも、バプテスマを受けようと願います。迫害の厳しい時代や地域においても、不思議なことに、我が身を省みず、主に倣って、信仰に進む方が起こるのです。
お祈りしましょう。「愛する神さま。私たちを主の十字架を喜び、ますますイエス・キリストを愛し、救いの恵みに生きる者としてください。私たちに聖霊をくださる救い主、イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。
