2026年7月12日礼拝説教「伝道しなくてもよい人はいるのか」マタイ7:6

伝道しなくてもよい人はいるのか   マタイ7:6

(偏見から自由になる)

 先週は7章の初めから5節まで「人間同士の祝福」という題でお話をいたしました。まず先週の学びを振り返ってから、今週の箇所に入って行きたいと思うのです。

 主イエスが冒頭から〈さばいてはいけません〉(7:1a)と説きました。他の人に有罪を決めつけることを禁じています。もしかしたら「この人はこういう人だ」と価値判断する(決めつける)ことさえ禁じられているかもしれません。

 しかし実際の人間同士の生活で、他の人から注意されることがあるでしょう。耳の痛い話です。しかし「良薬は口に苦し」というように、耳の痛い、心にも刺さることばを聞いて、私たちが反省する。反省して改める。少なくとも改める努力をしたり、新しい善し悪し(基準)を学んだりしたりできます。

 そういう意味では、キリストの弟子たちが〈知恵を尽くして互いに教え、忠告し合う〉(コロサイ3:16)ことは大切なはずです。しかし、しばしば私たちは、他の人を誤って裁くことがあります。主イエスが〈さばいてはいけません〉のあとに〈自分がさばかれないためです〉とあるのは、裁く側の人が間違ったときのことかもしれません。誤って裁いた人は、逆に裁かれる側になります。〈自分がさばかれないため〉に、簡単に人を裁こうとしないほうがいいのです。

 しかし私たちが人を裁くのはどんなときでしょうか。それは裁かれる人が何か悪いことをしたときです。そして裁く側としては、自分は裁かれる人のように、こんな悪いことはしていないと思っています。でも、もしかしたら自分を測る物差しと相手を測っている物差しが違っているかもしれません。私たちは自分に甘く、他人に厳しくなりがちです。そうであるので、主は〈あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられる〉(7:2)と言われたのかもしれません。

 私たちは無罪の人を有罪にするだけでなく、有罪であっても量刑において情状酌量をするどころか、自分のことを棚に上げて相手を重罪人にしてしまうのです。

 また、そのように、人を正しく裁けない私たちは、その思考や判断において、大きな偏見を持っているのかもしれません。これを主イエスは〈ちり〉と〈梁〉で表わしました。相手の持っている偏見を小さな〈ちり〉とし、自分の持っている大きな偏見を〈梁〉にたとえています。

 7:3-4です。〈あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。7:4 兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか〉。

 私たちは、相手にこそ「偏見がある」と考えやすい。しかし、その前に自分自身こそ偏見はないのか。私たちの裁こうとする相手にも偏見はあるだろう。しかし、私たちの持っている偏見こそ、相手の偏見に比べれば、よほど大きいのである。それこそ〈ちり〉と〈梁〉。〈おが屑〉と〈丸太〉ほどの違いである。

 人を裁いたりする行政官や裁判官、人を矯正する教師やカウンセラーこそ、自らを把握する必要がある。自分にはどんな偏見があって、どんなことに眼が曇りやすいのか、傾向を掴み、対策を講じる必要がある。これはヤコブ書3:1に云う〈私たち教師は、より厳しい裁きを受けます〉に通じる視点です。

 皆さんの半分以上は、私がかつて近くの東京基督教大学で男子寮主事をしていたことをご存知と思います。2001年の9月から2013年の3月まで、11年と7ヶ月。その男子寮主事を始めて間もないころ、ひとりの男子寮生に自分の眼から〈梁〉を取ってもらうような経験をしました。

 名前を言ってもいいと思うので言いますと面昇(ほおつき・のぼる)さんという方です。2002年の春くらいの話ですが、私より10歳くらい年上で、公務員を辞めて牧師になるべく献身してTCUに入学したばかりでした。早天祈祷会での私の説教や別の発言などを聞いて、気がついたと思うのです。

 ほんとうに優しく、1対1の状態で言われました。実は年輩の面さんもクリスチャンホームの出身者だったのですが、「先生は~私のことですが~クリスチャンホーム出身者に思うところがあるのではないか」。

 男子寮主事になったばかりの私ですが、ご存知のようにTCUの学生たちはクリスチャンホームの学生たちが多い。また、そのなかでも牧師家庭出身者の率が高い。そういう人が多いところは、家庭環境が私に信仰を持たせたと言う傾向が強い。しかしどんな家庭出身だろうと、各人が自分の救い主として主イエスと個人的に出会う必要があります。そうしたことを強調すべきと考えながら発言したことと、それ以外の感情も働いたようでした。クリスチャンの家庭で育たなかったという僻み根性だったかもしれません。

 そんなことを年上の、人生経験豊かな男子寮生に教えられて、気をつけるようになったということがありました。やはり人を導いたり、教えたりする者は、教えることだけでなく自分自身によく気をつけるべきです(Ⅰテモテ4:16)です。

 マタイ7:5にはこうありました。〈偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます〉。自分ができる限り偏見から自由になっていないと、他の人を育てたり、正したりできないことを主は知っておられ、ここで分かち合っておられるのではないでしょうか。

(人を判断する真逆)

 以上、おさらいをしました。しかし語った私自身、先週よりトーンが落ちているか、ニュアンスが違っていると気づいております。なぜか。それは本日の箇所のためです。ある意味、先週とは真逆のことを主が語っていると思える教えが7:6です。真逆なことを語ってバランスを取っていると説明する人(中澤啓介)もいます。

 もう一度読みます。〈聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります〉。

 7:1の〈さばいてはいけません〉は、他の人への価値判断を禁じているか、少なくとも慎重さを促している箇所です。しかし7:6の箇所は、人への大胆な価値判断を前提としています。〈犬〉とは本物の犬ではありません。〈豚〉も本物の豚ではないのです。ある種類の人たちを、犬呼ばわりし、豚呼ばわりをしています。

 まず、犬についてと豚について、です。ここでは、犬ということばも、豚ということばも、揶揄的に(つまり悪口として)使われています。豚はユダヤの掟では食用にもならず、汚れた生き物です。犬は飼い犬というより野犬か野良犬。人の血を舐め、死人の肉を食らう。あるいは路傍の病人のおできを舐めます(ルカ16:21)。

 ペテロ第二の手紙では次の言い方も出てきます。背教者についての描写です。〈「犬は自分が吐いた物に戻る」、「豚は身を洗って、また泥の中を転がる」という、ことわざどおりのことが、彼らに起こっているのです〉。碌でもない動物の典型として犬や豚が扱われています。

 あと7:6について次のことも言えます。私たちの2017バージョンは、それが見えにくい訳になっていますが、交錯配列法(キアスムス)という修辞技法が用いられています。それはまず確実で、協会共同訳という新しい訳では次のように訳されています。

 〈聖なるものを犬に与えてはならない。また、豚の前に真珠を投げてはならない。豚はそれを足で踏みつけ、犬は向き直って、あなたがたを引き裂くであろう〉(マタイ7:6協会共同訳)。おわかりでしょうか。7:6を四つの部分に分けて、犬、豚、豚、犬の順番になっています。A、B、B、Aの配列です。要素が展開し、中央に折り返し(核)を持つのが、交錯配列法です。裏返し構造という言い方もあります。2017のように〈犬や豚は〉と訳すこともできるのですが、文章としては〈豚は〉〈犬は〉とするほうが面白いし、豚は嚙んで引き裂いたりしないということがあります。

 また、皆さんは「豚に真珠」という諺を聞いたことがあると思います。「貴重なものをその価値が分からない者に与えても無意味だ」という意味です。非キリスト教国の日本にも、聖書発祥のことわざが多く用いられています。「豚に真珠」はそのなかの有名なもののひとつです。

 私は7:6のことばは、犬と豚に役割分担させたほうが面白い解釈が生まれると思います。犬は聖なる者を与えられますが、向き直って与えた人に噛みつきますし、豚は真珠を足で踏みつけるのです。

(犬や豚とはだれか)

 いよいよ7:6。核心を考えます。犬や豚とはだれのことと考えたらよいのか。

 その前に〈聖なるもの〉とは何か。〈真珠〉とは何を指すのでしょうか。〈聖なるもの〉とは、神に属するもの、と考えればいいでしょう。

 では〈真珠〉とは。聖書を二箇所開きます。

 ヨブ記28:18〈珊瑚や水晶は言うに及ばず、知恵の価値は真珠にもまさる〉。このあたりは、珊瑚や水晶だけでなく、金も銀も、めのう、サファイア、トパーズも出てくるのですが、知恵の価値を謳っているところです。そして神が知恵の道をご存知なのです。主を恐れることが知恵であるとも書いてあります(ヨブ28:23&28)。

 そしてマタイ13:45-46〈天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。13:46高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います〉。何にも増して値打ちのあるのが〈天の御国(=神の国)〉。それは他の真珠も含めて売り払うほどの別格の値打ちです。

  こうしたことから、この〈聖なるもの〉や〈真珠〉を、神の知恵である十字架にかかったキリスト(Ⅰコリント1:23-24)と捉えましょう。キリストの弟子たちが信じない人たちに福音を伝えることのはずです。

 してみると、どうでしょうか。福音を伝える必要のない〈犬〉や〈豚〉のような人たちがいるのでしょうか。これを異教徒や異邦人と考える人たちもいたようです。あるいは異端の信仰者。または信仰から離れてしまった背教者と考える向きもあるようです。

 しかし、どうでしょうか。福音は全世界に宣べ伝えられ、すべての民族に証しされるのではないでしょうか(マタイ24:14)。また異端の人たちや背教者たちを完全に見捨てることは聖書の教えるところではないでしょう(ヤコブ5:19-20)。

 いまから50年前、私は高校生で、教会の案内を校門の前でもらい、クラスメイトのひとりが行くというので、自分はその高校生伝道集会に出席しました。案の定、私は福音を聞いたけれど、すぐに信じることはなかったのですが、私の一学年先輩の男子でOさんもその集会に来ていました。

 集会後、その教会の牧師先生は、O先輩に個人伝道をしました。ところがO先輩はのらりくらりとしてその先生のいうことを信じようとしませんでした。その教会の先生はO先輩のことを神に選ばれた人ではないと思ったそうです。ところが教会の別の人が続けてO先輩は心を開いてキリストを求め始めました。

 自分は駄目でも(あるいは神の時ではなかったとしても)、別の人によって神の時が訪れるかもしれないと、その牧師先生は学んだそうです。そういえば、私たちは〈みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい〉(Ⅱテモテ4:2)と教えられています。私たちは相手がどんな態度でも諦めず伝道する先輩たちを知っています。見倣いたいものです。

 してみると〈犬〉や〈豚〉の(ような人たち)の見分け方は、こうです。あなたが福音を伝えて拒否されたとき、拒否だけでなく伝道したので攻撃されたとき。少なくともこの人たちはこのとき〈犬〉や〈豚〉のようになってしまったのです。そのようなときはインターバルが必要です。Noと言われたら引き下がるのが、神の知恵です。祈っていれば捲土重来があるかもしれません。またその間、静まって充電期間を持つべきなのかもしれないし、別の人に証しするよう導かれていたのかもしれません。

 だれでもしやすい伝道に、文書のポスティングがあります。しかし立ち入りのできないマンションがありますし、ポストに「チラシお断り」と書かれているときがあります。そんなときこそ今日のみことばを思い出しましょう。パウロがユダヤ人に伝道したけれど拒まれました。するとパウロは、異邦人に伝道するようになりました。

 私たちは、どんな人にも福音を聞いてほしいと願いますが、私ではなく他の人が受け持つ地域や人やタイミングがあることも信じましょう。また絶対いまは駄目だと分かったらチラシやトラクトを無駄にする必要はありません。渡しても受け取らない人にはインターバルが必要です。また豚が真珠を踏みつけるだけでなく、犬が噛みつくようにあなたに噛みつく人がいるかもしれません。そのときは距離を置きましょう。私たちも人並みにダメージを受けるのです。犬には「お預け」があっていいのです。

 私たちは、神に愛されてキリストの弟子になったのですから、キリストの御霊に導かれて伝道の奉仕を続けましょう。〈神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました〉(Ⅱテモテ1:7)。伝道には勇気と力と愛が大切ですが、同時に〈慎み〉も大切な要素です。祈りましょう。