求めるというチャレンジ マタイ7:7-11
聖書という書物が、教会に通わない人にとってどんなふうに映っているのか。キリスト教の本だから、自分とは関係ないと考える方もあるでしょう。最近はサブカルチャーが全盛なので、聖書をエンタメの材料として見る人もいるでしょう。しかし50年くらい前の平均的な日本人にとっては、聖書は教養のひとつでした。とくに欧米の文化や芸術を理解するための教養のひとつとして、聖書を貴重な本として見ていたと思います。
そんな時代だったからでしょうか。私の記憶が確かならば、高校を受験する中学生の参考書に、哲学者のことばと並んで、聖書のことばが書かれたりしました。
先週「豚に真珠」という諺は聖書に由来するということも話しましたが、どうもマタイ7章には聖書のことばだけれど一般教養のことばとしても広まったことばが多いようです。「狭い門」(マタイ7:13)とか「羊の衣をまとった狼」(マタイ7:15)とか「砂上の楼閣」(マタイ7:26-27)が散見されます。
そして本日の箇所の最初の節であり、最初であるだけでなく印象も強い7:7は、受験参考書の裏表紙に、受験生を鼓舞することばとして書かれていたような気がするのです。もしそれが文語訳聖書であれば、次のことばです。〈求めよ、さらば與へられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん〉。口語訳聖書ですと〈求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう〉となるでしょう。
今日もここに私たちは、神のことばを聴く礼拝のために集まっていますが、その聖句があまりにも有名で、私たちの頭や心に、言ってみれば「手垢の付いた」状態であるとき、どうすればよいのでしょうか。
私たちは、その聖書がもともと書かれた状況や、出来事そのものが起こったときのことを考えたり想像したりしつつ、今を生きる私たちに、聖書を通して、今日も、神が語ってくださると信じて、神を礼拝してまいりましょう。〈神のことばは生きていて、力があり〉ます(ヘブル4:12)。
祈ります。「愛するイエス・キリストの父なる神。今日も私たちは山上の説教を開いていますが、ほんとうに今日知るべき福音の恵みを聴き取ることができるように祝福してください。私たちへの恵みは、お互いへの分ち合いとなり、またそれぞれが遣わされる場所であなたを栄光を現わす宣教となりますように。イエス・キリストの聖なるお名前で祈ります。アーメン」。
(求めるというチャレンジ)
まずは7:7を読みましょう。〈求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます〉。もし私たちが受験勉強中の中学生だったら、「志望校の合格を求めて、努力しなさい」と理解したかもしれません。これらの奨めは力強いものです。
ロイドジョーンズという説教者は、説教の冒頭で「この地上の生涯に起こってくるあらゆる不確かさや危険性に立ち向かおうとするとき、この7-11節で語っていることば以上に、すばらしい、明るい、慰めに満ちたことばを私は考えることができない」と言っています。
主イエスはこの7:7で、誰に求めるのか、そして何を求めるのかを語ってはいません。それは、続けて明らかになると共に「言わずもがな」のことであったに違いありません。
主はまず、求めること、探すこと、戸を叩くことの3つを命令したのであって、それぞれに〈与えられます〉〈見出します〉〈開かれます〉と言って結果を約束されたのです。私たちは人生経験が長ければ長いほど、求めても得られなかった、探しても見つからなかった、扉を強くノックしたけれども開けてもらえなかった、そうした経験をたくさんしているのではないでしょうか。
自分の知性や才能に自信を持った中学生ならともかく、私たちは、もっと自分を弁えるべきだと考えるのではないでしょうか。前向きになったほうが多少は人に好かれるので、私たちはすでに左足を地面から浮かしているし、右腕を前に突きだしているかもしれません。しかし、それでも恐る恐るです。すぐにでも足を地面につけて、進むのを止めたいと考えます。それは結果が恐いからです。
聖書で奨められていることは分かる。しかし、神に従い、キリストに倣って、どんな結果が与えられるのか。人生の結果は、運とか偶然に左右される。キリストの弟子であるクリスチャンであっても、迷ったら占い師のところへ行く異教徒とあまり変わらない人生観を持っている人がいます。
あるいは自分は与えられなくてあたりまえだと信じている。発見できなくて当然だ、扉は閉ざされてこそ私の人生、と思いこんでしまう人がいます。もしかしたら、自分も気づいていない過去の記憶があって、その過去の記憶がこの人にいつも「だめだ、だめだ」と言わせているのかもしれません。
しかし主は続けて言われました。〈だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます〉(7:8)。
主は反復をなさっています。求めよと言うだけでなく、探せとも言い、探せと言うだけでなく、叩けとも言われました。そして与えられる、見出す、開かれるという結果の約束も3連続の反復ですが、その3連続が7:8で反復されます。〈だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます〉。
主は何とこのことを強調されているのでしょうか。しかもこの7:8には何と書かれているでしょうか。すなわち山の頂で主は何と言われたでしょうか。〈だれでも〉です。〈だれでも〉。あなたも例外ではないのです。100%の人間が、求めれば受けるし、探せば見出すし、扉をたたけば開かれる、と言ったのです。
キリスト・イエス。主のことばを割り引いて「利いた風な口をきく」のは誰でしょうか。私や皆さんなのではないでしょうか。100%の人間が、例外なく、求めれば受けるし、探せば見出すし、扉をたたけば開かれる、と、主が言ったのに、私たちは間違いなく、みことばを割り引こうとするアダムとエバの末裔なのです(創世記3:2-3)。
(神の子の父は神である)
主は、そんな頑なな私たちに、優しく畳み掛けてくださいました。7:9-10〈あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。7:10 魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか〉。
この9-10節には、求める者と与え主が、どんな人間関係で描かれているでしょうか。〈自分の子〉と書かれています。さらに11節には〈天におられるあなたがたの父〉とも書かれています。そうです。父と子どもの親子関係になぞらえています。
まず、主が〈求めなさい〉と言ってくださった対象は、どなたかということです。主イエスに対してでも、他のどんな人たちでも、ありません。それはイエス・キリストが〈わたしの父〉(ルカ2:49、ヨハネ20:17)と呼んだ方です。私たちが7:7-8の主の約束を得心できるのは、私たちは父なる神の子となって始めてできることです。
皆さんのなかで、まだ神をお父さんと呼べない方はおられるでしょうか。イエス・キリストは神の独り子である方なので、救い主としてイエス・キリストを心のなかにお迎えしたときに、私たちは神の養子(養子とはいえ神の子たち)とされるのです(ヨハネ1:12)。すなわち、私たちが本日の約束を真心から信じるためには、イエス・キリストを信じて、神をお父さんと呼べる救いをいただいていることが必要です。
神の独り子イエスは、神である方なのに人としてこの世に生まれてくださいました。そして私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださり、3日目によみがえってくださいました。このイエスを信じるゆえに、私たちは天地万物を造った方を、イエスの御霊によって〈アバ、父〉と叫ぶことができるようになったのです(ローマ8:15)。
(神の正しさと優しさを信じる)
天と地を造られた聖なる方は、私たちクリスチャンの、天におられるお父さんとなられました。そしてこのお父さんは正しく優しいお方です。
私たちが、イエス・キリストによって神に求めることを奨められたのなら、祈ること(それもまことの神に祈ること)を奨められたに他なりません。祈りについてなら、私たちはすでにこの山の上で教えられています。〈祈るとき偽善者たちのようであってはいけません〉。〈あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい〉。〈また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです〉。〈あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ』〉(以上、マタイ6:5-9)。
主はすでに神との距離の近さを語られましたが、今日の箇所では神の善意(言い換えれば、神がほんとうに正しく優しいお父さんであることを)語っています。〈あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか〉。
石もパンもかたちは似ているかもしれませんが、石を囓ることはできず、お腹の足しにもなりません。魚も蛇も鱗はありますが、好ましさが違います。似て非なるものを欲しがったり売りつけられたりすることが、現代には何と多いことでしょう。
しかし聖書は言っています。ローマ8:32〈私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか〉。
私たちは救い主としてイエス・キリストをいただきました。イエス・キリストを標準に神の賜物(祈りの答え)を考えましょう。
(「良いもの」を思い巡らす)
本日の箇所は、神からの祈りの応答について教えられる箇所です。最後の7:11ですが、こうあります。〈このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか〉。
人間の親という者は(もちろん例外はあるかもしれませんが)、他の多くの人々には薄情であっても〈自分の子どもたちには良いものを与える〉のです。そして人間の親以上に〈天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか〉と主は言われました。主イエスの父は私たちの父でもあって、祈りに応えて、良いものを与えてくださいます。
ここで私たちは主を信頼して〈良いもの〉とは何だろうかと考えることができます。これはたいへん重要なイメージトレーニングです。
ルカ福音書にある並行箇所では、〈良いもの〉の代わりに、〈聖霊〉(ルカ11:13)と記されています。たしかに〈聖霊〉は救いに必要であり、救いそのもの(永遠のいのち)であります。〈聖霊〉は救いそのものであるので、人間にとっての万能薬であるという人もいるくらいです。
しかし本日のマタイ7:11では複数の〈良いもの〉が記されています。ある人(河野勇一)は、この7章は人間関係の秘訣を教えているので《愛》ではないかとしています。そうかもしれません。しかし、このテキストで主はまるでカタログギフトで好きなものを注文するように何でもあなたの願う〈良いもの〉を考えなさいと言っておられるのではないでしょうか。
私たちは間違えやすく誤りだらけのものです。パンと魚を与えようとする父に対して石と蛇がほしかったと言いかねない者です。ですが、私たちは、イエス・キリストをこの世に送ってくださり私たちの心に住まわせてくださった神の善意(父の正しさと優しさ)を信じて、ほんとうに良いものは何かが分かる者となりたいと思います。クリスチャンは、善の目利きになれるはずなのです。
祈りましょう。
「愛する神。幼子は何も知らず、さわったら火傷したり、大けがをするようなものに平気で手を伸ばします。そんな幼子の愚かさを心に秘める私たちですが、その愚かさを百も承知で〈求めなさい〉と言ってくださるあなたの御名を賛美します。どうぞ、私たちが、祈ることによってますますあなたの正しい善意に触れて、私たちも正しく優しい人へと変えられていきますように。実際の生活、長い人生のなかで、あなたからいただく〈良いもの〉を証しさせてください。祈りの答えを通して、あなたの愛を感謝し、世に伝えることのできる者にしてください。主イエスの御名で祈ります。アーメン」。
