2026年7月26日礼拝説教「黄金律というけれど」マタイ7:12

黄金律というけれど  マタイ7:12

 〈ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です〉(マタイ7:12)。

 この聖句は黄金律golden ruleと呼ばれています。聖書の中で「黄金律」ということばがあるわけではありません。1750年(18世紀の中頃)に、かの有名なジョン・ウェスレーが、本日の聖書箇所から「黄金律」と題して説教をしました。それ以来、この聖句は「黄金律」と呼ばれるようになりました。

 それではなぜウェスレーは、この聖句を「黄金律」と呼んだのか。ウェスレーの時代からさらに遡ること1500年、紀元3世紀の古代ローマ皇帝にアレクサンデル・セウェルスという人物がおりました。209年生れで、222年(13歳)、今でいう中学生になったばかりの年でローマ皇帝に即位。そしてその13年後の235年、皇帝でありながら、反乱を企てた下級軍人によって暗殺され、26年の生涯を閉じます。

 この皇帝は、自身がクリスチャンであったとは言えませんが、教父オリゲネスの影響を受けた母のもとで育ち、キリスト教徒に好意的でした。そして、これはマタイ7:12ではなく並行箇所のルカ6:31ですが、キリストの有名な言葉〈人からしてもらいたいと望むとおりに、人にしなさい〉を皇帝の宮殿の壁に黄金で刻ませました。

 アレクサンデル・セウェルスという若すぎる皇帝の時代は、キリスト教が非公認の時代であって、帝国でキリスト教が公認されるまで100年を待たねばなりませんでした。しかしこの皇帝が頑固な異教徒ではなく、ユダヤ教やキリスト教に心を開いた折衷主義者であったことは確実で、それが彼に黄金律の信奉者たらしめることとなりました。

 ローマ帝国の24代皇帝アレクサンデル・セウェルスの故事、そして、それをもとに18世紀の伝道者ジョン・ウェスレーがマタイ7:12を黄金律と名づけ、本日、私たちがこの聖句から学ぼうと思っております。なぜこの聖句が、黄金律という名にふさわしいかを考えつつ、ここにも響いていくキリストの恵みの福音を聴き取ってまいりましょう。

 お祈りします。「〈人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい〉。このことばが3世紀の若いローマ皇帝の心に刺さり、その故事がきっかけで私たちの時代にも特別な聖句のひとつとなりました。聖書のことばに感動して、そのことばを掲げたり、そのことばに生きようとするとき、その聖句は自分にとってのことばであるばかりか、周りの人にも伝わって、時に大きく広がり、長く伝わる証となります。何より〈神のことばは生きていて力がある〉(ヘブル4:12)のです。どうか私たちに、今朝もあなたのいのちと力に満たしてくださり、あなたのお名前を崇め、あなたのお名前を知らせる者として歩ませてください。私たちの人生を意味あるものにしてくださる救い主イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。

(積極性がユニークか)

 本日の聖句でもっとも指摘されることから、まず紹介します。字数に制限があるなかで福音的な碩学がコンパクトに書かれた注解を読んでみます。《この箇所の結びの黄金律(12)に似たものは他の宗教にも見出されるが,たいていは「他の人からされたくないことは自分もするな」という消極的な形である.イエスは積極的に表現し,天の父から良いものを受ける者として,自分も他の人に良いものを与えるよう命じる.その命令こそ旧約聖書全体を要約するものである》(内田和彦)。

 黄金律に似たものは他の宗教にも見出される、と書いてあります。他の宗教の例がいちばん多く挙げられていたのは、何とwikipediaでした。儒教やユダヤ教の例を挙げている文献は複数ありましたが、ネットのwikipediaにはイスラム教やヒンズー教の例まで書かれていました。

 「人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも他人にしてはいけない」ということばが、ヒンズー教の『マハーバーラタ』には書かれているそうです。

 また「自分が人から危害を受けたくなければ、誰にも危害を加えないことである」とはムハンマドの遺言にはあるそうです。昔はマホメットといいましたが、いまイスラムの開祖はムハンマドというのが日本でも普通です。

 それから儒教では孔子の教えに「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」とあります。これは孔子の弟子のひとり(子貢)が尋ねます。「ひとことだけで一生行なっていけるということがありましょうか」。すると孔子が「まあ、恕(思いやり)だね。自分の望まないことは人にもしむけないことだ」と答えました。

 そしてユダヤ教では、モーセの律法の要約の問題として語られます。ユダヤ人ではないひとりの人が、ユダヤ教に改宗することを条件に質問をしました。自分が片足で立っている間に律法の全体を教えよというのです。シャンマイというラビは、手に持っていた物差しを振り回して、この失礼な質問者を追い返しました。

 しかしヒレルというラビは、この人をユダヤ教に改宗する人として受け入れました。ヒレルの答えはこうでした。「あなたがいやなことを他人にしてはならない。これが律法のすべてであり他のものはその説明である。行って教えなさい」。

 ヒンズー教、イスラム教、儒教、ユダヤ教と並べましたが、たしかに「してもらいたくないことはするな」と書いてあります。たしかに、消極的な形です。

 そしてマタイ7:12は〈人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい〉と積極的な形です。並行箇所のルカ6:31も〈人からしてもらいたいと望むとおりに、人にしなさい〉と同じく積極的。してもらいたくないことを禁止するのではなく、してもらいたいことをするようにと実行を促しています。

 消極的勧めと積極的勧め。これはどう違うのでしょうか。私たちは、たとえば罪について考えるとき、罪とは悪いことをすることで、悪いことは止めなければいけないと考えます。しかし聖書で罪というのは悪いことをするだけではなく、なすべき正しいことを行なわないことも罪だと教えています(ヤコブ4:17)。

 人の嫌がることをしないというなら、何もしない、何も行なわなければ、その人は正しい人で、罪がないのでしょうか。やはり主が言われたように〈人にしなさい〉という積極的な面が必要なはずです。当時のユダヤ教の文献を調べると、主イエスが来られて以降は〈人にしなさい〉型の積極的な形が出てくるけれど、それ以前は黄金律とよく似ていても〈人にするな〉型の消極的な形しか出てこないというのです。

 一般論として、キリスト教は愛の信仰なので、もっと言えばイエス・キリストがそういうお方なので、積極的な奨めになっていると言えるかもしれません。

(黄金律は何でないか)

 ただ、どうでしょうか。〈人にしなさい〉という積極性が裏目に出ることはないでしょうか。しばらく前に「小さな親切、大きなお世話」という言い方が流行ったことがあります。よかれと思ってしたことが相手を怒らせてしまった。相手は喜ばなかったという経験を私たちはしがちです。

 もちろん私たちは〈人がひとりでいるのは良くない〉(創世記2:18)ことを覚えるべきです。〈人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい〉という奨めは、私たち人間は独立した存在であっても、他の人からしてもらうことはあるだろうし、自分も他の人に何かするべきだということも教えています。

 伝道者の書4:7-12は、人が孤立して生きるのではなく、複数で助け合って生きるべきだと説いています。〈二人は一人よりもまさっている。二人の労苦には、良い報いがあるからだ〉(伝道者4:9)。これは、家庭を持つ持たないではなく、人間は互いに助け合ってこそ大きな問題にも立ち向かえるということです。

 このように私たちは複数で生きるのですが、支配する者と支配される者との上下関係だけが、人の営みではありません。もし自分が封建的な専制君主(王様)あるいは現代的な独裁者なら、こう思うかもしれません。「人からしてもらいたいことは何でも、人にさせなさい。これが支配者の生きる道です」と。

 しかし本日のテキストは、たとえこの戒めを聴く者が王や皇帝であろうと〈人にしなさい〉と説くのです。それは3世紀の若き皇帝アレクサンデル・セウェルスにとってもそうだったかもしれません。彼は黄金で宮殿の壁や他の建物にも主イエスが語った黄金律を書き刻んだのです。

 そして、それは「世間で知られているように」〈人にしなさい〉でもないのです。私たちの親切は、世の中でこうすることがだいたい親切とされているから、親切に振舞うのではないでしょうか。しかし黄金律の違うところは、物差しを世間ではなく親切に振舞うことを考える自分自身にしています。

 たしかに世間の評価や基準は、時代と共に変わることがあります。そして、世間の物差しは最大公約数的には機能しますが、少数派の価値観を切り捨てる傾向があります。そうではないことを願う人にとって世間の評価どおりの「親切」をなすことは、世間の物差しを押しつける危険があります。

 もちろん評価の基準を、この黄金律のようにその人自身に当てはめるのは、危険かもしれません。〈同じように人にする〉のは、自分が〈人からしてもらいたいこと〉です。自分が物差しになっています。ちなみに20世紀前半に活躍した戯曲家のバーナード・ショーが、こんなことばを残しています。《「黄金律というのはない」というのが黄金律だ。別の人にしてもらいたいと思うことは人にしてはならない。人の好みというのは同じではないからである》。

 たしかに箴言19:2には〈熱心だけで知識のないのはよくない〉(新改訳第3版)とあります。2017版では〈たましいに知識がないことは良くない〉となります。このようなときにこそ「小さな親切、大きなお世話」ということばがあてはまることでしょう。

 しかし黄金律は言います。〈人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい〉。やはり自分を物差しにして、人に親切にしなさいと教えています。どうしてでしょうか。3つ理由があると思います。

 ひとつは、自分がやってもらいたいという実感が、ほんとうの感情(親切心)の発露(現れ)になるからだと思います。私たちは本心を偽って相手に親切にするときがあります。それはそれで社会人として大切な生き方ですが、自分をあまりにも放り出すと、自分を失ってしまい、感情として生じる自分の心が分からなくなります。

 第二は、それゆえ、この戒め(黄金律)は自分の心を見つめる習慣をつけます。ある人は、大願が成就されれば自分の心なんてどうなってもいいと考えます。しかし、そうではありません。イエス・キリストは、人々がただ掟を守ればいいと考えたのではなく、喜んで掟を守る、自発的に神の御心を行なうことを願ったのです。

 第三に、自分の心を見つめることは、他者の気持ちを理解することに繋がります。

 たしかにバーナード・ショーが言うように、相手が願わないことを相手の願うことだと誤解して親切心を発揮することがあるでしょう。しかし親切が大きなお世話になることもあるはずです。結果が伴わず善意しか伝わらない、あるいは善意すら伝わらないかもしれません。

 しかし、おそらくだれもが、飢えたときには食物を求めるし、渇いたときには水を求めるし、旅行中であれば宿を求め、裸であれば衣服を求めるのです。さらに病の床にあったり、収監されていれば、見舞ってくれる人はありがたいはずです。これらはマタイ25:31-46で主が言われたことです。

 さらに私たちは、高次元に、自分の願望を理解することもできます。これは、今日的かもしれません。「私は他者から自分の願いを聞いてもらった上で、親切にしてもらいたい」。援助する対象はこう願っているだろうと予測して動くだけではなく、親切にしようと考えている相手から希望を聞きだした上で行動する。もちろん聞き出してほしくなかったという人もいるかもしれませんが、多くは願いを知られたいはずです。

 私たちは間違うかもしれません。しかし偽善やアリバイ証明ではなく、また自分の心を見つめ、人を深く知るための手立てとして、自らが〈人からしてもらいたいこと〉を探るのです。〈ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です〉。

 そして、このルールは無私が生み出すものであって、相互主義ではないのです。すなわち「人からしてもらったことは何でも」ではなく〈人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい〉と書いてあるのです。この人はまだ私に良いことをしてくれていない。挨拶もしないし、名前も覚えていてくれない。しかし私は先回りして、挨拶をするし、相手の名前を覚える、良いことをする、先手主義です。

 人と関わることは、時に誤解され、攻撃の対象とされるかもしれません。しかしイエス・キリストこそが、そのように深い人間理解のなか十字架の道に進まれ、神の御心を信じて十字架に架けられたのです。私たちはみことばと聖霊をいただいて、イエス・キリストに倣う者になれるのです。

 本日の箇所は思いの外、豊かで深いので、来主日もこの箇所マタイ7:12から学びます。黄金律と呼ばれるだけのことはあります。共に祈りましょう。「天のお父さん。どうぞ私たちに、イエス・キリストに倣って、ほんとうの意味で相手の必要に届く愛の働きを喜んでなさせてください。イエス・キリストの名によって。アーメン」。