2026年8月2日礼拝説教「これが聖書です」マタイ7:12 [2]

これが聖書です   マタイ7:12[2]

 本日の説教は、先週と同じです。もう少しだけ語るべきと思いました。本日もマタイ7:12です。なぜここを丁寧にやるかと言いますと、この箇所が黄金律と呼ばれるほどの注目の箇所だからです。この箇所が黄金律と呼ばれるようになった経緯については、先週お話をしました。

 そしてもうひとつ、山上の説教を順番に学んでおりますが、本日44回目です。長々とやっておりますが、あと少しです。そしてこの7:12が「山上の説教のまとめの聖句です」という意見もあります。5:3の〈心の貧しい者は幸いです〉で始まったシリーズがクライマックスに入っているのかもしれません。

  〈ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です〉。接続詞の〈ですから〉があります。〈だから〉とか〈それゆえ〉とか〈それで〉と同じ意味です。何なら文語訳聖書では〈さらば〉という古語の接続詞です。〈ですから〉は、前に書かれてあることを受けて、結果や結論を言うときに使う接続詞です。

 7:12の〈ですから〉は、何を受けて〈ですから〉なのか。

 近いところでは7:7-11の祈りの勧めを受けて〈ですから〉と考えます。天の父は祈る私たちに良いものをくださるので、私たちも〈人にしなさい〉と、主は言われるのでしょうか。そうかもしれません。

 あるいは7-11節を飛ばして、7:12の〈ですから〉は7:1-6あたりを受けて〈ですから〉と考えます。自分の基準ではなく、偏見から自由になってはじめて、人は他の人を正しく教え導けます。そのように人との関わりにおいて、私たちは自分を棚に上げて裁きやすいので〈人からしてもらいたいことは何でも〉というのかもしれません。

 あるいは、もっと遡って山上の説教の序論が終り本論に入った5:17以下からを受けて7:12の〈ですから〉がある、と言う人もいます。たしかに5:17-18にはこうあります。〈わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します〉。

 山上の説教で主は何を伝えたかったのか。それはご自身につく弟子たちがほんとうは何者で、どうあらねばならないか、それを説きたかったのは事実です。しかし別の角度からいえば、主は記された神のことばである聖書について論じておられたのではなかったでしょうか。

 つまり7:12の〈ですから〉は、何を受けて〈ですから〉なのか。シンプルに5:3(山上の説教の出出し)からだと解する人がいます。また7:7-11、それはまさに神との関係を説いていますが、そこから人と人との黄金律に進んだと考える人もいます。他に、人と人との関係(人間関係)にフォーカスを当てた7:1-6のさらなる結論として7:12の〈ですから〉を位置づける人もいます。

 しかし私は、いまようやく山上の説教の構造について合点がいきました。山上の説教は、弟子とは何かを語る5:1-16の序論があります。そして〈律法と預言者〉(すなわち聖書)について語る本論があるのです。本論は5:17から本日の7:12までです。7:13以下はこの説教の結論部分です。

 〈ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です〉(マタイ7:12)。

 〈律法と預言者〉、これは当時の聖書、すなわち私たちにとっての旧約聖書ですが、なぜ、主はこのことばを山上の説教の締めとされたのか、お話ししたいと思います。

 ひとこと祈りましょう。「『生命(いのち)のみことば/たえにくすし/見えざる御神の/むねをしめし』(讃美歌501番)。愛する神様。イエス・キリストの天の父。私たちには聖書の御言がありますことを感謝します。〈律法と預言者〉と呼ばれる旧約聖書。キリストの福音を証しする新約聖書。共にあなたからのラブレターであり、私たちを救う内容であることを感謝します。あなたの独り子、救い主である方は〈人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい〉をひとつの大きな教えの締めとなさいました。そして〈これが律法と預言者です〉とはっきり言われました。御言は、あなたの御思いであるゆえに深遠ですが、浅薄な私たちにも届くほどに明瞭でもあります。主よ。願わくば、今日も聖霊のお働きがあって、私たちに悟りを与えてください。〈みことばの戸が開くと光が差し浅はかな者に悟りを与えます〉(詩編119:130)。主よ、力強く導いてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。

(聖書の要約として)

 先週のお話では、よく似た教えということで、ヒンズー教、イスラム教、儒教のお話もいたしましたが、明らかなキリスト教のルーツであるユダヤ教のエピソードも話しました。ヒレルというラビのことばです。「あなたが嫌だと思うことを、隣人にもしてはならない。これがトーラーのすべてである。残りはその説明にすぎない」と語った人物のことです。

 彼は、孔子やムハンマドと同じように、否定的な表現になっている黄金律を語ったわけですが、他の話と違うのは聖書の要約としてこの奨めを伝えました。「あなたが嫌だと思うことを、隣人にもしてはならない。これがトーラーのすべてである」。

 ヒレルが活躍した、主イエスの一世代前の時代にも、そして主イエスの時代にも、ユダヤ人のなかにはこういう問いかけがありました。「私たちには聖書が与えられているが、聖書が全巻を通して言おうとしていることは何か。聖書は要するに何を伝えようとしているのか」という話です。

 これは今を生きる私たちにとっても共通する課題ではないでしょうか。現代は特に効率を重視する時代です。経済効率cost performanceだけでなく時間効率time performanceも求められます。

 そしてすぐれた要約があると助かるのは、私たちは横着したいからだけではありません。自分の勉強の不熱心さや、理解力の乏しさもあるのですが、宣教の視点からも重要です。多くの様々な人に、神の教えを伝えようとすれば、教えの要約が必要になるのはあたりまえです。問題は、その教えの要約が正確で適切かどうか、です。

 マタイ22:34-40に次のような対話があります。〈22:34 パリサイ人たちはイエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、一緒に集まった。22:35 そして彼らのうちの一人、律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねた。22:36 「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」22:37 イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』22:38 これが、重要な第一の戒めです。22:39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。22:40 この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」〉。

 22:40にも〈律法と預言者〉ということばが出てきます。並行箇所のマルコでは〈これらよりも重要な命令は、ほかにありません〉(マルコ12:31)と記されていて、それゆえに、全力で神を愛することと自分と同じように隣人を愛することの3つの愛の教えは「大いなる戒めgreat commandment」と呼ばれます。

 さらにこの二つの戒めは相互関係があります。自分を愛すると同じように隣人を愛する戒めに生きようとすると、実は神を愛する必要があることに気がつきます。それも生半可な愛し方ではなくて〈心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして〉のような徹底した神への愛です。神への愛は、神を礼拝することに現れます。そして神を礼拝するとは、神のことばを聴くこと、あるいは神のことばを聴いて生きることです。

 それでこの二つの戒め(3つの愛の教え)は、パウロによって後者のほうに集約されます。パウロの手紙のなかに次のようなことばがあります。〈律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです〉(ガラテヤ5:14)。

 〈あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい〉。ここまでいえば分かるでしょうか。黄金律の〈人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい〉は、大いなる戒めの〈あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい〉と通底しています。底のところで繋がっているのです。

 ですからマタイ7:12は、旧約聖書の別の要約である隣人愛の教えとほぼ同じです。自分自身に置き換えて、他の人のためになることをする。聖書の信仰とは、そうした当たり前のことを当たり前にしましょうという実践でもあります。

(聖書の救いとして)

 マタイ7:12は、聖書全体の要約でもあり、その主張の本質でもありました。その上で言いますと、主イエスが黄金律を説いて〈これが律法と預言者です〉と語られましたが、そのとき、主は、聖書の内容をまとめただけではなく、聖書の救いについても集約して語られたと、私は考えます。

 すなわち〈これが律法と預言者です〉という主のことばは《これこそ神の御心です》というお気持ちで言われたに違いありません。どういうことでしょうか。

 第一に、主は、天の父の願っていることとして〈人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい〉と語ったのです。キリストの弟子である私たちは、人間関係の中で生きるのです。

 神学校や修道院に入ったら、ややこしい人間関係から逃れられると考え違いをする人がいます。違います。ややこしい人間関係のなかで、主を証しするために神学校や修道院は建てられています。聖書の学びや、祈りの修練も、このためにあります。

 第二に、主は、私たちを一度は絶望させようと考えておられます。〈人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい〉。できません。ある人は、自分を見つめるのが恐くなっています。自分が他人からしてもらいたいことが上手く言語化できません。時には、奉仕が承認欲求の表れにしか過ぎないことがあるのです。

 (ここで自分の証詞を短くする)

 さらに私たちは自分のほんとうの必要に気づいたとしても、それを同じように他の人にすることの何と難しいことか。自分が生きるので精一杯、あるいは自分に人を愛する愛(思いやりとか同情心)が欠けていることに気がつきます。

 あるいは、人を愛することの重要性に気づいても、そんなふうに生きてこなかったのでその愛をどういうふうに現わすかが分からない。正しいふるまいや適切なことばを考えるだけで疲れてしまう人もいるのです。愛の重要性が分かっても、上手く表わせない自分です。絶望するしかありません。

 そして〈律法と預言者〉の第三は、旧約聖書も含めて、聖書がイエス・キリストを指し示していることです。イエス・キリストは、家族も含めて他者を満足に愛せない私たちのために十字架にかかって死なれました。黄金律は知っていても、そのように生きることのできない罪人のために身代わりに死んでくださいました。聖書の大切な働きは、私たちが正しい絶望をした後に、イエス・キリストの十字架を見上げて、この神の子を救い主として信じさせるためです。そこに救いはあります。

 第四に、不十分な私たちですが、それでも神の御心に沿う生き方(隣人愛や黄金律の人生)が可能だということです。ローマ8:4は言います。〈それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです〉。

 キリストの弟子としての人生は、聖霊に導かれて歩む人生です。自分を喜ばせるのではなく、それでも神の栄光を現わそうとするのです。Ⅰコリント10:31にこうあります。〈こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい〉。

 日常生活において、少しでも神様のすばらしさが現れるように。私たちは聖霊の助けによって隣人愛の黄金律から逃げないで、そして主に明け渡して歩むとき、いささかでも主の御心に適うことができたと言って、神を讃えることができるのです。これがキリストの弟子の人生、クリスチャンライフのはずです。

 ひとこと祈りましょう。「〈ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です〉。神様。あなたの願うとおりに生き得ない者ですが、まずそのことを教えてくださり、キリストの福音の必要性を知らせてくださいました。あなたはキリストを信じる者に聖霊をくださいます。日々、注いでくださいます。今週も私たちを世にお遣わしください。自分自身にも悩みや疑いがあり、家族にも肉体や様々な試練があります。そして地球規模の気候変動のなかで、先週熊本で起こった地震の被災者、また様々な自然災害でいまも傷跡の残る地域の方々、世界のあちこち(ウクライナや中東)でいつ終わるともしれない戦争状態もあります。単独ではもちろん、たとえ世界中の人々が結集しても解決できない諸問題のように思いますが、あなたの真実に触れた者として今週もキリストの弟子たちを生かし、宣教という隣人愛、そして隣人愛という宣教の励むことができますよう、私たちを試練や困難のなかでも生かしてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。