自然から学ぼう マタイ6:26~30
いま民放テレビのドラマで『銀河の一票』というのがあります。主演は黒木華さんで、野呂佳代さん扮する40歳のスナックのママが東京都知事選に出馬して当選しそうになるという、少しあり得ないドラマなのですが、脚本と演出がいいせいか、毎週見逃し配信で視聴するのを楽しみにしています。
そのドラマで、都知事選の対抗馬(というか本命候補)が公約で強調するのが「前進」と「成長」です。うちの教会もどっちかと言えば「前進」と「成長」を大事にしている気がするのですが、それに対して選挙参謀の主人公(黒木華さん)が推している市井の女性候補は「安心」と「希望」を掲げます。
先週、ドラマのなかですけれど、公約が発表されました。「不完全な私たちが安心して希望を持てる社会」「明日を楽しみに安心して眠れる社会」「自分のことで精一杯にならなくていい、安心してだれかを思える社会」「躓いて人生を失敗したと思えても、安心して休めて、安心してまた歩き出せる社会」「ライフステージに関わらず、安心して挑戦できる社会」。きちんとした社会批評や分析を持ちつつ、同時に愉快なドラマですので、テレビドラマのお好きな方は今からでもぜひご覧ください。
なぜ、この話が枕なのか(イントロなのか)というと、安心の反対は心配だと思うからです。6月からマタイ福音書に戻りまして、先週は6:25でした。今日は6:26-30ですが、6:25から6:34まで〈心配する〉ということばが六回も出てきます。主イエスの時代と私たちの時代、何が心配しているかについては少し見かけが違うかもしれませんが、大きなところでは同じだと思います。
〈何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか〉と、この時代の私たちも心配しているのではないでしょうか。そして衣食住が中心の生活であったとしても、それだけで不安になって悩むのではなく、安心しながら生きていたい(希望をもって歩みたい)と、現代の生活者である私たちも、実は切に願っているのではないでしょうか。
安心の生活を得るためにも、今日も私たちは救い主イエス・キリストのことばに耳を傾けていきましょう。一言お祈りいたします。「愛する主よ。今日も私たちはみことばの前に出ています。空しく聴くだけのものではなく、よく聴いて内省し、100倍、60倍、30倍の実を結ぶ者にしてください。私たちに神の国をくださるイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン」。
(空の鳥を見よ)
主イエスが、3年間、神の国を伝えて弟子たちと旅をしていました。いくつかの町や村では大人数を泊らせるホームスティ先はあった気がしますが、はっきりとした拠点を持っていたわけではなく、ましてや本部のような根城があったはずもありません。〈人の子には枕するところもありません〉(ルカ9:58)と主が言われたとおりです。
そんな主イエスです。土曜日には礼拝をしている地域の会堂に入ったでしょう。家庭集会もあったと思います。しかし、町の通りや四つ角、このような山の上や、湖の畔(ルカ5:1-3)での野外説教も多かったと思います。自然に囲まれたその場所、屋根も壁も床もないのです。そこで主は、1羽の鳥を実際に指差したかもしれません。
6:26a〈空の鳥を見なさい〉。すでに主イエスは〈何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したりするのはやめなさい〉と語っていました。〈いのちは食べ物以上のもの〉ですと、理由も述べ始めていました。しかし、弟子たちも含め、聴衆は、ぴんと来ていない(心には届いていない)と思ったに違いありません。
私の若いころに、自然豊かなところに行って、聖書を読んだり祈ったりすることが大好きな友人がいました。また教会によっては、年に一度、行事として、空気のきれいな野外に出かけ、主日礼拝をすることをしている教会もありました。花鳥風月といいますが、自然は第二の聖書であるとして、多くのことを示される方も少なくありません。
主は何を言おうとされたのでしょうか。6:26〈空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか〉。
種蒔き、刈り入れ、倉に納める、は、当時の平均的な労働の表現でしょう。もちろん魚を捕る漁師だったら、網を降ろすとか、洗うとか、魚を売りに行く、になったかもしれません。空を飛ぶ鳥が何もしないわけではありません。羽ばたいて浮かび続けること、巣を作ること、餌を探すことが、鳥の生態であり、仕事のようなものです。
しかし、種蒔き、刈り入れ、倉への保管は、鳥にはできない、人間さまの仕事です。そして他の動物にはできない高度な労働に従事しているから、人間は鳥よりも〈ずっと価値がある〉と主は言われているのでしょうか。そうではないと思います。人間の価値というのは、賢くて、食物連鎖の頂点に立っているからではありません。
人間の価値は、神の特別な愛です。ローマ5:8には〈私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます〉とあります。なぜ神が人を特別に愛したかといえば、逆説的ですが、人間が罪深いからです。
神がキリストの死によって人類を救おうと決断されたのは、人が神に背くことを、神が予知されたからです(エペソ1:4-5)。人が、神に背く罪深い者だからこそ、救いのために、独り子を犠牲にするほどの大きな愛で、神は愛しました。そしてこの救いの愛のゆえに、人間は神の養子となり、神は私たちの〈天の父〉となられています。
空飛ぶ鳥は〈種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることも〉しないけれど、イエスを信じる弟子たちの〈天の父〉は〈養っていてくださいます〉。これは何を意味するでしょうか。主は、父なる神の、野鳥に対する優しさを伝えたいわけではなかったはずです。そうではなく、父なる神の、第一義的には弟子たちに対する優しさ、第二義的にはあらゆる人たちに対する優しさを伝えたかったのではないでしょうか。
まずペテロたち、漁師出身の弟子たちは、主イエスから招かれると、魚を捕るための網を捨て、舟と身内を故郷に残して、主の伝道の手伝いをするようになりました。ペテロたちもまた〈種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることも〉ないのです。それでも、ペテロたち献身者を〈天の父〉は養ってくださいます。
(言ってみればダブルワークなのですが)他の仕事をしながら教会の仕事をする人をテントメーカーと言います。天幕づくりの職人をしながら伝道者であったパウロ先輩をリスペクトしてテントメーカーなのでしょう。逆にペテロ先輩のように他の仕事をしないでどうにか生活している(家族も養っている)献身者は、信仰のない親族から「空の鳥」さんなどと言われるのです。
さて第二義的なことを考えましょう。21世紀は、ここまで踏み込んで聖書を読むべきだと思うのです。元気に何十年も働いてきましたが、年を取って、蒔くことも刈ることもできなくなることがあります。また年齢の問題だけでなく、他の理由で働けない人がいます。生まれつきのハンディもありますし、途中の病気や事故もあります。
構造的な経済格差で、種を蒔いても刈り取れなかったり、自分の倉に納めるような余地やゆとりが生まれない世代があったりします。
また戦争中の(特に攻め込まれている)国民は、平時のような生産も安全もなく、将来のための種蒔きさえ絶望的です。〈主は地の果てまでも戦いをやめさせる〉お方なので(詩篇46:9)平和のために祈り続けましょう。
そしてどんな状況の人であっても、空の鳥がそうであるように主は〈養っていてくださいます〉。鳥よりも人には価値があります。人間がすぐれているからではなく、罪深いから、キリストの贖いをとおして救おうと神がされているので、神が人間を価値づけているのです。〈わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している〉と主は言われます(イザヤ43:4)。神の最善の養いを、私たちは終末論的に捉える必要があります。
(刹那主義に抗して)
先週の箇所6:25に大切なことが書かれていました。〈いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか〉。いのちは食べ物以上に重要でした。いいえ〈全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか〉ということです(マルコ8:36)。地上のいのちはいつか終わります。いつなのかは分かりませんが、いつか終わることははっきりしています。
空の鳥や、他の生き物が優秀なのは、自分の存在が、神の御心とずれていないところです。ただ人間(人類)だけが、アダムとエバ以来、神の期待や目的からずれてしまった存在です。それゆえに、私たちは悩み、心配もするのです。悩まなくてもいいことまで悩み、心配を募らせます。6:27に〈あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか〉とあるとおりです。
そして〈からだ〉と〈着る物〉の関係もあります。〈着る物〉は朽ちても取り替えが利きますが、地上の〈からだ〉は取り替えが利きません。そして私たちは〈からだ〉を寒さや痛みから皮膚を守るために服を着ているわけですが、また人類の最初から裸の恥を隠すためでもあるようです(創世記3:7,10,21)。
しかし〈着る物〉といえば、美でもあります。おしゃれであり、ファッションです。〈人はうわべを見る〉(Ⅰサムエル16:7)のです。男性も女性も「人は見た目が9割」なのでしょうか。創世記には二人の姉妹の外見が書かれています。創世記29:16-17〈ラバンには二人の娘がいた。姉の名はレア、妹の名はラケルであった。29:17 レアは目が弱々しかったが、ラケルは姿も美しく、顔だちも美しかった〉。けっこう残酷で、少々残念な描写です。容姿や容貌で差別するルッキズムは、今日の問題となっています。
また男性であっても、イスラエルの最初の王サウルについて、こういう描写もあります。Ⅰサムエル9:2〈キシュには一人の息子がいて、その名をサウルといった。彼は美しい若者で、イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかった。彼は民のだれよりも、肩から上だけ高かった〉。誰よりもハンサムで、抜きん出て高身長。しかしサウルはやがて王位から退けられます。外見はよくても、内的な決断で失敗をしてしまいました。
またダビデの息子で反逆児となったアブサロムも、容姿端麗であったようです。Ⅱサムエル14:25-26〈さて、イスラエルのどこにも、アブサロムほど、その美しさをほめそやされた者はいなかった。足の裏から頭の頂まで、彼には非の打ちどころがなかった。14:26 彼は毎年、年の終わりに、頭が重いので髪の毛を刈っていたが、刈るときに髪の毛を量ると、王の秤で二百シェケルもあった〉。アブサロムは、ふだんは長髪で、しかも髪の毛の量が豊かな人であったようです。そして何よりも美青年でした。内面がこれで分かるわけではありません。しかし、人を引きつける魅力があったことはたしかです。
そうです。今日、私たちは後半の学びとして「人は見た目が9割」としても、そこが最重要ではないことを確認したいのです。〈人はうわべを見る〉と先ほど申しましたが、これは聖句であってⅠサムエル16:7です。この聖句の全体はこうです。〈【主】はサムエルに言われた。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、【主】は心を見る。」〉。
神である主は、心を見るのです。すでに週報で告知されたように、教会員の阿部共助兄が日本時間の本日早朝カナダで結婚式を挙げられました。結婚に関わる聖句には様々ありますが、容姿については次のような聖句があります。箴言31:30〈麗しさは偽り。美しさは空しい。しかし、【主】を恐れる女はほめたたえられる〉。
またⅠペテロ3:3-4にはこうあります。〈あなたがたの飾りは、髪を編んだり金の飾りを付けたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。3:4 むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです〉。これは化粧やおしゃれを禁じるものではありません。しかし外側は衰えたり飽きられたりするものなので、妻である女性は内面で勝負しなさいという意味です。それが真の装いです。生活にも現れます。
最後に6:28-30を読みます。〈なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。6:30 今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ〉。
主が示された〈野の花〉の品種について議論があります。しかし結論は出ませんし、一種不毛です。ユリでもアネモネでもよいし、雑草に分類されるような花かもしれません。しかし雑草という名の花はないのです。襤褸は着てても心は錦。見かけではなく内面。そして内面とは、知恵や勤勉、心遣いや親切、そして貞淑などに現れます。
最後の30節はむしろ27節に呼応すると私は思います。野の草も明日は炉に投げ込まれますが、私たちの身体もいつか白骨となります。ソロモンはおろか、花の装い以上に、私たちは主イエス・キリストを着ています(ローマ13:14)。いつまでも残るのは信仰と希望と愛だと申します(Ⅰコリント13:13)。〈柔和で穏やかな霊〉こそ〈朽ちることのないものを持つ〉のです。空の鳥や、野の花からも、私たちは慰めを知るのです。
祈りましょう。
