2026年5月24日聖霊降臨日礼拝説教「聖霊が人を変え、教会が生まれる」使徒2:1~21

聖霊は人を変え、教会が生まれる   使徒2:1-21

 教会とは何でしょうか。教会とは《聖霊によって生み出されたキリストのからだ》ということができます。

 とくに本日はペンテコステ(聖霊降臨日)ですので、《聖霊によって生み出された》というところを読んでいきたいと思います。

 一言祈ります。「天の父なる神様。主イエス復活を祝うイースターから7週間が過ぎ、2026年のこの年もペンテコステの日曜日を迎えました。この一年を振返ると、私たちの教会では3名もの兄弟姉妹があなたのみもとに召されました。痛みや悲しみと共に、大きな喪失感があり、教会もこれからどうなるのかと思うほどでした。そんななか本日、私たちは聖霊について学びます。復活した主イエスは〈わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます〉(マタイ28:20)と言われました。それもあって〈イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません〉(ヘブル13:8)とヘブル書の記者も言っています。そうです。私たちは、イエス・キリストに繋がる、いのちの連続を見たいのです(いのちの連続を知りたいし、味わいたいのです)。それが生きた教会だと思うからです。天に昇って聖霊を送られた救い主、イエスのお名前で祈ります。アーメン」。

(聖霊が降った日)

 教会の誕生は、使徒の働き(使徒行伝)に記されております。1章には復活したイエスが天に上げられた記事に始まり、エルサレムでの祈祷会、十二使徒の補欠選抜が描かれます。これは教会が始まるための直前の準備でした。使徒たちや、女の弟子たち、主の母マリアや、主の兄弟たちが加わっていましたが、120人ほどの集団でした。

 祈り求めることが聖霊をいただく秘訣ですが(ルカ11:13)、祈り、待ち望むこともまたキリストのことばによるのです(ルカ24:49、使徒1:4-5)。十二使徒の補欠選抜をしたことも、聖書から神の御心を知り(使徒1:20)、神の御心に従って生きようとしたからです。何にせよ、イエスの弟子たちは、エルサレムで集団を形成していました。

 2:1-3〈五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。2:2 すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。2:3 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった〉。

 聖霊は、霊ですから、ふつうは見えないはずです。しかし激しい風のような音(烈風吹きすさぶがごとき音響[岩波訳])と共に〈炎のような舌が分かれて現れ〉〈一人ひとりの上にとどまった〉のです。視覚化された聖霊は、燃える炎(火)のように見えました。しかして、その実体は舌(べろ)であったのです。何と不思議なことでしょうか。

 聖霊は風にたとえられます(ヨハネ3:8)。しかも、この日は微風ではなく大風でした。弟子たちが集まっていた〈家全体に響き渡った〉ほど激しい音でした。

 この3年ほど前、主イエスが先駆者ヨハネからバプテスマを受けたとき、主イエスに聖霊は〈鳩のような形をして〉降りましたが(ルカ3:22)、ペンテコステの日は〈炎のような舌〉でした。主イエスには全く罪がなく、父なる神と平和な関係。鳩がそれを表わしているのかもしれません。一方、主の弟子たちと言えども罪人であって、聖霊と火で罪の性質(外側の殻)を焼いてもらう必要があったのです(ルカ3:16-17)。

(聖霊と人間)

 聖霊が、弟子たちに降りました。主イエスが語った〈父の約束〉(使徒1:4)が与えられ、2:4にはこう書いてあります。曰く〈すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた〉。この2:4に、人間に対する、神の聖霊のすばらしい働きかけがまとめられている、と思います。

 第一に強調すべきは、皆が〈聖霊に満たされ〉たことです。

 人の心というものは、何かを入れる器とか、人間が住む家屋に似ているのかもしれません。主イエスのミニストリーのひとつは、悪霊の追い出しでした。しかし、その人の心から悪霊が追い出されても、器が空っぽのまま(家が空家のまま)であれば、出ていった悪霊が仲間を連れて戻ってきて、もっと悪くなるというのです(ルカ11:21-26)。 たとえば自分が罪の行いや悪い思いから離れて、イエス・キリストを宿そうとしない者は、一時的によくなっても、その人の救いにはなりません。イエス・キリストがこう言われています。〈見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする〉(黙示録3:20)。

  聖霊に満たされるというのは、十字架で死んだキリストを自分の救い主として自分の心にお迎えし、自分自身が神の御心に適った状態に100%なることです。ペテロも、ヤコブも、ヨハネも、マグダラのマリアも、イエス・キリストを通して、すでに聖霊の感化を受けていました。しかし聖霊の満たしという経験は初めてだったと思います。

 最初の聖霊の満たしは、御霊を受けるともいいますが、罪の赦しの祝福として、神からキリストによって永遠のいのちをいただくことです。私たちは、まず信じた瞬間、神の御心に100%かなった者として聖霊に満たされることができます。

 第二に強調すべきは、皆が〈御霊が語らせるままに〉明け渡したことです。私たちは主イエスを信じ受け入れて、イエスの治める王国が心に樹立いたしました。私たちは王を迎えると同時に、王の心を知って、王に従うことが始まります。

 王である主イエスの願いは、私たちの計画と異なるかもしれません。日々私たちが聖書を読んだり祈ったりすることは、私たちの趣味ではなくて、神に従う喜びの表れです。また、このように礼拝に集うのは、神とキリストの招きに従って、祝福に与り続けようという献身の表れです。

 〈神の命令は重荷とはなりません〉(Ⅰヨハネ5:3)と聖書は言っています。信じたときに聖霊に満たされるだけではなく、そのあとも満たされ続けようとすることが大事です。その秘訣は、神の御心に敏感になって、都度都度に自分を明け渡すことです。〈御霊が語らせるままに〉。〈神の命令は重荷とはなりません〉。

 第三に強調すべきは、皆が〈他国のいろいろなことばで話し始めた〉ことです。

 これは、ペンテコステの日だけに限定した《聖霊による言語奇跡》として理解すべきです。創世記11章にはバベルの塔の記事があり、主の裁きとして、民族単位で、人類のことばが互いに通じなくなった事件が記されています。聖霊降臨日の言語奇蹟は、このバベルの塔の事件の逆で、しかし言語が再統一されたわけでもないのです。

 すなわち言語の多様性は、話者の多様性で対応したというのが、聖霊降臨日の出来事です。使徒たちはそのとき自分の国言葉を使いませんでした。

 同じユダヤ人同士ですが、多くは五旬節の祭りのためにエルサレムにやってきた巡礼者たちでした。すでに第一言語がアラム語でもヘブライ語でもなくなってしまった、いわゆるディアスポラ(離散の)ユダヤ人たち。その人たちにも、よく分かるように〈他国のいろいろなことばで〉語ったのです。

 2:5から読みます。13節までです。〈さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいたが、2:6 この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、呆気にとられてしまった。2:7 彼らは驚き、不思議に思って言った。「見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。2:8 それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか。2:9 私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、2:10 フリュギアとパンフィリア、エジプト、クレネに近いリビア地方などに住む者、また滞在中のローマ人で、2:11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレタ人とアラビア人もいる。それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」2:12 人々はみな驚き当惑して、「いったい、これはどうしたことか」と言い合った。2:13 だが、「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲る者たちもいた〉。

 〈他国のいろいろなことばで話し始めた〉!。これを、相手を思いやり、相手の身になって語った、というような比喩的な解釈は許されません。こんな奇蹟が、今日でも起こればすばらしいと思います。しかし主イエスの、処女マリアからの誕生や、3日目での復活が一回性(このとき限り)であるように、この言語奇跡もそうなのです。

 〈パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア〉の4つは、ローマ帝国の版図を超えた東側です。〈エジプト、クレネに近いリビア地方〉は北アフリカです。当時のユダヤ人もまた広く移り住んでいました。

  〈滞在中のローマ人〉は、帝国の首都であるローマから祭りのためにやってきたユダヤ人でしょう。この日ここエルサレムで回心したので、使徒パウロの伝道旅行(ローマ到着)より先にローマにはクリスチャンの群れ、つまり教会があったと考えられます。〈改宗者〉とは民族としては違うけれどユダヤ人の信仰を持つようになった人たちです。

 教会は与えられた時と場所と機会を生かしながら、人々を集めました。           

(言語奇跡から宣教へ)

 初代の教会は、そのように聖霊の言語奇跡から誕生しました。ちょうど主イエスが聖霊による処女マリアの妊娠によって生まれたように、また復活の奇蹟のように、これは神の明確なイニシアチブ(主導権)を示す奇蹟でした。教会をつくったのは「ペテロさんです」「十二使徒です」と言わせないためにも、この奇蹟は大切です。この世に教会を生み出したのは、神なのです。

 しかし、このように言うこともできます。聖霊による言語奇跡によってだけ、初代教会が生まれたわけではありません。2:14以下も学びますが、教会を誕生させたのは、言語奇跡に続く、ペテロをはじめとする使徒たちの福音宣教と、それに伴う大勢の人々の悔い改めにもよるのです。使徒2章に記されているのは、①聖霊による言語奇跡、②ペテロたちの福音の説教、③そして人々の回心(悔い改め)です。

 さてせっかくの言語奇跡ですが、聖霊に満たされ、明け渡した弟子たちが、何を諸国からの巡礼ユダヤ人に話したかといえば、おそらく込み入ったことではなかったのです。2:11にあるように〈神の大きなみわざ〉ということばでまとめられる、大づかみなメッセージ、あるいは、多言語のシンプルな賛美歌だったかもしれません。

 それでもすごいことであり、多くの人たちが集まって注目するには十分な奇蹟だったのですが〈「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲る者たちもいた〉のです。そうです、救いの福音は明確な説教として語られなければなりません。

 2:14-21〈ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々に語りかけた。「ユダヤの皆さん、ならびにエルサレムに住むすべての皆さん、あなたがたにこのことを知っていただきたい。私のことばに耳を傾けていただきたい。2:15 今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが思っているように酔っているのではありません。2:16 これは、預言者ヨエルによって語られたことです。2:17 『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。2:18 その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。2:19 また、わたしは上は天に不思議を、下は地にしるしを現れさせる。それは血と火と立ち上る煙。2:20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。2:21 しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる。』〉。

 説教で大切なことのひとつは、聞く人たちが持っている偏見を分かりやすく取り除く作業です。ペテロはまずそのように語りました。〈今は朝の九時です、この人たちは、あなたがたが思っているように酔っているのではありません〉。しかしそれだけでなく、この奇蹟は聖霊が降ったしるしであり、旧約聖書に記された預言の成就(実現)だと説きました。こうした説教のことばも聖霊が教えてくださったに違いありません。

 このヨエルが伝えた預言の成就で大事なことは、少なくとも2つあります。聖霊は、神が信仰に選んだすべての人(皆)に与えられます。〈息子や娘〉とあるように男女の別なく。〈青年は幻を見、老人は夢を見る〉とあるように年齢や世代の別なく。〈しもべにも、はしためにも〉とあるように身分や社会的立場の別なく。さらにやがては民族にも差別されないで聖霊が与えられることも分かります(使徒8:14-17、10:44-48)。

 そしてもうひとつは、ここでの初代教会がそうであったように、聖霊に満たされた者は、神のメッセージを受けとり、他の人に伝えるということです。〈預言する〉とか〈幻〉や〈夢〉とは、そういうことです。この教会で大切にしているDNAのことば(週報表紙参照)の一節は《聖霊によって福音を伝え》です。あるとき私は、この一節を目に留めた別の教会の人から「(この教会は)聖霊派かと思った」と言われました。

 20世紀に始まる聖霊派の貢献は、聖霊の働きを、福音を信じさせる回心の働き、明け渡しを続けていく聖化の働きと共に、宣教のための力の付与と意義づけたことです。初代教会がそうであったように、私たちも聖霊をいただいて福音のあかしを語り出しましょう。「主よ。私たちに聖霊を豊かにお与えください。主の御名で。アーメン」。