「No」と言える教会 使徒4:19-20
事は、初代教会が生まれて間もないころ。イエスの直弟子であった使徒ペテロと使徒ヨハネが、エルサレムの神殿の門の前で(美しの門といいます)奇跡を行ないました。門の前で乞食をしていた、足の不自由な男が、主イエスの御名によって立ち上がり、歩き出しました。ペテロはこの奇蹟のときにこう言いました。
〈金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい〉(使徒3:6)。生まれつき足が不自由であったのに、歩けるようになった、この人は、神を賛美しながら、使徒たちと、神殿の目立つ場所に移動したので評判になります。
ペテロはすかさず人々に語ります。〈どうして、私たちが自分の力や敬虔さによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました〉(使徒3:12,16)。ペテロは、自分に栄光を帰すことはありませんでした。
その上で、ペテロは神殿に集まる人たちに主イエスの復活と救い、福音を語りました。すると、神殿の当局者たちはペテロとヨハネを逮捕し、一晩留置したあと、次の日、ユダヤの最高会議サンヘドリンが開かれ、二人を尋問されます。主イエスを逮捕し、裁判にもかけたサンヘドリンは、主イエスの弟子たちにも迫害の手を伸ばしました。
〈この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです〉(使徒4:12)。ユダヤの支配者である大祭司の一族、民の指導者である長老や律法学者たちに囲まれて、ペテロもヨハネもひるむことはありませんでした。〈彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた〉(同4:13a)とも書いてあります。
来週の日曜日はペンテコステで、聖霊の降臨によって教会が生まれたことをお祝いする日です。それは同時に、主イエスの弟子たちが聖霊に満たされて大胆に福音を宣教し始めた日曜日でもあります。史上最初の教会は、逮捕されても、尋問されても、そして脅かされても、福音を伝えることを止めなかった教会です。
4:18にはこうあります。〈そこで、彼ら(民の指導者たちや大祭司の一族)は二人を呼んで、イエスの名によって語ることも教えることも、いっさいしてはならないと命じた〉。足の不自由な男が主イエスの名によって、立てるようになり、歩き出して、神を賛美し始めたことは、否定できない事実でした。その事実を否定できないので、当局は福音を言い広めることを抑制しようと図ったのです。
しかし本日の箇所はこう言っています。使徒4:19-20〈しかし、ペテロとヨハネは彼らに答えた。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。4:20 私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。」〉。
大祭司の一族や、民の指導者たちは、ペテロやヨハネに、福音を広めないように命じました。サンヘドリンのエリートたちは、ユダヤの地域で、世俗的な政治権力も、宗教的な権威も持っていました。しかし、国家や民族が、お寺や神社やモスクや、あるいは教会が何を言おうと、神の御心に反することはできない。とくに福音を伝えることは、自分たちの実存に関わることだ(生命線だ)と表明したのです。
(連合の信仰告白#7)
本日の説教題は「Noと言える教会」です。こういうタイトル、こういうテーマで、礼拝のお話(説教といいますが)をするのは初めてです。しかし個人的に私と話したり、とくに入会クラスをとられると、冗談のように「この教会はNoと言える教会です」とか「Noと言える教会を目指しています」と言ったのを覚えておられるかもしれません。
特にどんなときに私は「Noと言える教会」と言ったのでしょうか。それは私たちの教会が加入している日本バプテスト教会連合(以下、連合)の信仰告白を学んだときです。信仰告白というのは、自分たちが信じているキリスト教信仰を公にアナウンスしたものです。聖書について、三位一体の神について、人間について、救いについて、教会について、世の終りについて、など項目別に告白されることが多いです。
連合の信仰告白は8項目あるのですが、第7番目の告白には「負うべき責任」という見出しが付けられています。この告白文そのものを読んでみましょう。《私たちは、教会及びキリスト者が、信仰にかかわるあらゆる事柄において、ただ神にのみ責任を負う者であることを信じます。このゆえに、私たちは互いに平等であり、政治的、宗教的などのような権力からも、独立と自治を犯されない自由を持っています》。
連合の『信徒手帳』には、こうした信仰告白そのものだけでなく、信仰告白についての解説も載っているので学んでいただきたいのですが、その解説の冒頭には「この告白は、バプテストの信仰の優れた特色を示しており」と書いてあります。また「信仰の独立と自由と平等をダイナミックに表現している」と続きます。
私もまだまだバプテストという伝統や教派について知らないことが多いのですが、その特徴を一言でいえば《個の尊重》ということです。たとえば旧約聖書の世界だと、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫はイスラエル民族であって、神の民です。男子は生まれて8日目に割礼を受けます。
しかしバプテストの伝統は、信じて受けるバプテスマを旧約時代からの割礼の延長とは考えません。バプテスマは、ひとりひとりが主イエスを信じ、神に悔い改めた証として受けます。キリスト教徒の多い国に生まれたから受けるとか、キリスト教徒の親の子として誕生したから受けるのは、バプテスマの正しい理解ではないと考えます。
これを信仰者のバプテスマbeliever’s baptismといいます。十字架で死んだ主イエスに対する信仰によって、聖霊が与えられ、ひとりひとりが天地万物を創造した聖なる神の養子となって、神とつながることになります。ですからイエス・キリストのことを〈私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった神の御子〉(ガラテヤ2:20)と言うことができます。その流れのなかで、世界で滅ぶべき罪人が私だけだったとしても、神の子キリストは私のために死んでくださったと思うこと(三浦綾子)ができます。
そういうふうに、主キリスト・イエスへの信仰を、個人をベースにして理解する傾向が強いのです。それは預言者エレミヤの預言(エレミヤ31:33-34)の成就であり、聖霊がすべての人[ひとりひとり]に与えられること(ヨエル2:28-29、使徒2:17-18)とも関わっていきます。
そのようにバプテストの特徴が《個の尊重》であるというのは、個人の魂の救い、また、そうした個人の信仰告白としてバプテスマを考えることがそうなのです。そして、それと同時に《個の尊重》とは、教派や教団といった大きな教会組織ではなく、それぞれの地域に存在する地域教会local churchを尊重することもそうです。
つまりトップに法王や監督がいて、その下に枢機卿や教区長などの幹部がいる、またその下に小幹部といった、ピラミッド式の組織ではありません。会社でいうと重役会がいちばん権限を持つといったあり方でもありません。一個一個の地域教会が教会として独立しており、大小の別なく平等であり、自由な存在という理解です。
ひとりひとりの信仰者は独立した自由で平等な存在、一個一個の地域教会も独立した自由で平等な存在。ですからバプテストという教派は、事務局はあっても本部はありません。教団という言い方はなくて、連盟とか同盟とか教会連合といった言い方をするのです。私たちは信仰と生活の唯一の規範として旧新両約聖書を信じていますが、教会の形成においては新約聖書のみを規範にするという特徴を有しているようです。
そして、この信仰告白文のなかに《信仰にかかわるあらゆる事柄において、ただ神にのみ責任を負う者である》と書いてあります。《ただ神にのみ責任を負う者》というのは、どういうことでしょうか。
私たちは、そのとき国家や教会に従うことが神に従うこと(神の御心に適うこと)であればよいけれど、神の御心に反することだと思えば従わなくてもよい、とするのです。
たとえその命令が、国家などの大きな政治勢力、教団などの大きな宗教勢力であって、それによって迫害などの不利益を蒙るとしても、私たちは《ただ神にのみ責任を負う者》なので神の命じるところでなければ造反有理(反乱は正当化される)のです。
以上のようなことから、私たちの信仰の伝統は、民主主義や政教分離や自由教会の考えを推し進めるエートスとなりました。バプテストとは、ローマカトリックから分離した宗教改革の教えをさらに徹底しようとしたピューリタン運動がさらに行き着いたところのひとつでもあります。それゆえに、教会形成についての考えは、ひとりひとりの信仰者の独立と平等と自由を互いに尊重するという不文律を持っています。
(カルト化しない教会)
最後に、今日的な問題から、短く論じたいと思います。先ほど、バプテストの特徴は《個の尊重》であると申しました。信仰者のバプテスマbeliever’s baptismを今も強調してよいと思いますが、現代は良い意味でも悪い意味でも個人主義の時代になっているようです。またアメリカや韓国で毎週何千人もの人たちが集うメガチャーチがいくつも存在するように、地域教会が強調されるのはトレンドでもあると思います。
さらに、世俗的な会社企業でも、異端的な宗教団体でも、人々の心を捉えるために、マーケティングや心理学の考えが導入されています。それ自体は良くも悪くもない中間的な方法かもしれませんが、情報や印象を操作して、人々を支配したり欺いたりする技術は、今日大いに進んでいるに違いありません。
カルトということばは、日本語では不健全な集団を指します。健全な集団が不健全なカルトに変質することがあります。多くの場合、それはリーダーが不健全になってしまったことが原因です。教会ですと、牧師が他の信徒の方々より卓越した存在であると強調され、もっと進むとその牧師は他の教会の牧師と同じではなく並外れた存在であると本人も思い込み、周囲もそのように思い込みます。
今回私はいのちのことば社から出ている坂本兵部著『新使徒運動の危険なパン種』という本を参考にしていますが、集団がカルトになってしまうカルト化について以下のように定義されています。曰く「カルト化とは、支配的・操縦的な関係の中で、構成員の人間性を破壊するような組織と化すること」とあります。
そしてその本ではバイブルカルトということばも紹介されています。バイブルカルトとは「標榜する教理は正統的だが共同体形成の手法を用いる団体」のことです。今までだったら、このグループの教会ならば安心だと思われていても、そうでなくなるときがあります。
教会は今年発足30周年を迎えました。私もそうですし、この教会をもともと始めたご夫妻も、「○○教会とは違う教会」を目指してきました。
プロテスタント教会において、礼拝で聖書を説き明かし、みことばを語るゆえに、牧師の役割は小さくありません。また今日YouTubeなどで世界的に有名で優秀な牧師の説教をたくさん聴ける環境にあります。そんななかで、地域教会の牧師の役割は、教会全体とおひとりおひとりに仕えながら、神がその教会に願っておられる御心をだれよりも知って分かち合うことだと思います。
私は、皆さんに信用されて、牧師の言うことだから聴いてみよう、信じてみよう、従ってみようとしてくださると嬉しいと思います。しかし牧師の言うことだろうと何だろうと、神の御心とは思えないことには、誠実にNoと言っていただきたいのです。おひとりおひとりが主イエスを信じているのですから聖霊をいただいています。
〈御霊を消してはいけません。5:20 預言を軽んじてはいけません。5:21 ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。5:22 あらゆる形の悪から離れなさい〉(Ⅰテサロニケ5:19-22)と聖書は言っています。自分の頭と心と生活で聖書を丁寧に読もうとすることは、騙されないで生きるために大切な習慣です。私たちは、どんな牧師にも、どんな教師にも、そして自分自身にも欺かれてはなりません。
主は言われました。〈あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです〉(マタイ5:37)。
30年ほど前にフィリピンのセブ島で、日本の牧師とフィリピンの牧師とアメリカからの宣教師との合同集会に参加しました。その集会で若い姉妹がMCをしていて「21世紀のYes」を教えてくれました。なぜか今でもそれを忘れることができないのですが、今回私たちは「21世紀のYes」だけではなく「21世紀のNo」も身につけなければならないと思いました。今回、思いついたのでご披露します。
何にしても、結論として、私たちの教会は、教会員であれ、客員であれ、求道中の方であれ、yesだけではなくnoと言える教会であり続けたいと願います。それでこそ私たちは「神にのみ責任を負う者」になれるのです。ペテロのように、大いなる奇蹟をなしても主イエスのお名前に栄光を帰し、さらに宣教については〈神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください〉ということができるのです。祈りましょう。
「〈私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません〉。健全な「私」が健全な教会やコミュニティを造ることを信じます。主のお名前でアーメン」。
