食べ物以上のいのち マタイ6:25
山上の説教の連続講解を再開します。もっと言えば、マタイ福音書のシリーズでもあります。前回は3月8日でした。ほぼ3ヶ月のブランクです。イースターもありましたし、ペンテコステもありました。しかし、それと共に、教会について考えるテーマメッセージ(主題説教)をしてきました。
教会を構成するのは、聖霊によって新しく創造された人たち(新生を経験した人たち)です。その人たちは、福音のことばと聖霊によって、個人的に神を知るようになりました。個人的に神を知る人というのは、神がその人を個人的に知ってくださっている(自分が神に知られている)ことを知っている人のことでもあります。
そういうなかで3週間前に「Noと言える教会」というお話をさせていただきました。イエス・キリストによって、神と個人的な再会を果たしたのに(神の養子とされたのに)、私たちは、神の願っていないことを外から命じられることがあります。もちろん私たちは内的な罪の性質(肉)によって罪を犯すこともあるのですが、そうではなく、私たちは国家や宗教団体から宣教あるいは信仰そのものを禁じられることもあるのです。
「Noと言える教会」というのは、近代において、そうした信教の自由を守ろうとした教会の戦いでもあります。しかし、同時に、たとえば一個の教会がカルト化したときにひとりの信仰者としてNoと言えるかどうかという話でもあります。人は間違えます。牧師も、信徒も、教会も、その極端さのゆえに、間違えやすいものです。
Noと言うほうが間違っている場合もありますが、Yesとしか言えない場所はとても危険です。同じ信仰に立っているのですが、それは議論や相談のないことではありません。〈あなたは正しすぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない。なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか〉(伝道者7:16)と聖書も言っています。
先週スライドや字幕を付けて「Noと言える教会」の説教動画を教会のYoutubeチャンネルにアップしました。その礼拝説教を実際に聴いた方も、まだ聴いてない方も、ぜひご視聴ください。そのことで、私たちの教会の姿勢がもっと分かると思いますし、今日から再開するシリーズの理解にも少しは役に立つかもしれません。
一言祈ります。「恵みの神様。あなたは私たちひとりひとりをそれぞれユニークに造られました。いがみあったり、争ったりするためではありません。けれど、それぞれの違いを尊重しながら、歩む難しさも思うのです。とはいえ、主よ。救い主は、あのガリラヤ地方で心の定まらない弟子たちを教えられました。それは訓練して世に遣わすためでしたが、たいへんなことであったはずです。同様に、教会はあなたの御旨を聴いて、それを世に顕わすという大きな使命があります。その使命を果たすためにも、私たちは頭と共に、心の深いところにおいて、また、その現れである生活において、御心を覚え、御心を顕わしていきたいと願います。どうぞイエス・キリストが慈しみの心で弟子たちを導いたように、この礼拝においてもあなたの慈しみが顕われ、真理を私たちが悟れますように導いてください。御霊をくださるキリストのお名前で祈ります。アーメン」。
(地上に宝のない者も)
山上の説教。もとより、主は、この説教を、弟子たちに向けて語っています。群衆も周りにはいたでしょう。しかし、群衆を見て山に登った主イエスが、その山のどこかに座ったとき、周りに集まったのは弟子たちでした。〈その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。そこでイエスは口を開き、彼らに教え始められた〉(5:1-2)。
弟子とはどんな人たちでしょう。群衆とはどこが違うのでしょう。マタイの福音書に〈弟子〉ということばが出てくるのは5:1が初めですが、その前に注目すべき記事が書かれています。それは4:18-22です。
読みましょう。マタイ4:18-22〈イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。4:19 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」4:20 彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。4:21 イエスはそこから進んで行き、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイと一緒に舟の中で網を繕っているのを見ると、二人をお呼びになった。4:22 彼らはすぐに舟と父親を残してイエスに従った〉。
ここで「漁師たちは弟子になった」と書いてありませんが、4人は明らかに主の弟子になったのです。シモン・ペテロとアンデレの兄弟も、ヤコブとヨハネの兄弟も、主イエスの声を直接に聴きました。そしてペテロたちは網を捨てて、ゼベダイの子たちは舟と親を残しました。仕事を捨て、関係を振り切って、主に従うように導かれたのです。
主イエスに導かれたばかりの漁師たちは、それこそ捨て身の覚悟で、主イエスと共にガリラヤの町々村々を回り始めました。そしてこのとき、主からの説教を聴いています。主の弟子は、主のことばを聴く礼拝をし、神の国のための奉仕をするのです。しかし〈人間をとる漁師〉にしてもらった彼らは、決して裕福ではありませんでした。
今日の箇所で、主イエスは何と言われているでしょう。6:25の最初の文で、主はこう言われています。〈ですから、わたしはあなたがたに言います〉。
主は、施しや祈りや断食などの宗教行為について述べたあと、一転、経済活動について語り始めていました。6:19〈自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい〉。続く6:20〈自分のために、天に宝を蓄えなさい〉。もとよりペテロたちは〈すべてを捨ててイエスに従った〉(ルカ5:11)ので、地上に蓄えるだけの宝もないようでした。
しかし主は、人が富んでいようと貧しかろうと、今風にいえば富裕層だろうと中間層だろうと貧困層だろうと関係なく〈神と富とに仕えることはできません〉(6:24)と伝えたかったと思います。そして〈私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました〉(マタイ19:27)と言い得るペテロたちも、例外ではありませんでした。
(飲食を心配することの問題)
どこかペテロたち(やがて使徒と呼ばれるようになる弟子たち)も念頭に置きながら、主は〈ですから、わたしはあなたがたに言います〉と確認したのだと思います。
そしてこう言われました。〈何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい〉。
《心配する》と訳されている動詞は、他に《思い煩う》とか《思い悩む》と訳されています。他に、人に対して《心を配る》とか《いたわる》と訳すこともあります。
ですから、ここで主が言われているのは、心の状態です。いのちを維持するために食べ物や飲み物が必要ですが、食べ物や飲み物があってもいのちが取り去られる場合もあります。主イエスは、ルカ福音書のほうでも多くのたとえ話をしていますが、畑も倉も所有している、ひとりの金持ちの話を語っています。
ルカ福音書12:16-21〈それからイエスは人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。12:17 彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』12:18 そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』12:20 しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』12:21 自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」〉。
この金持ちは、その日の食べ物だけでなく、何年分もの穀物を蓄えました。倉庫を大きく建て直すほどの財力もあり、その大きな倉庫には穀物だけでなく金銀財宝を仕舞っておくこともできました。今日と明日、栄養を摂るための食物があるかという心配ではなく、今日と明日、どんなごちそうを食べるかという心配がありました。金持ちのこの蓄えは豊作がもたらしたものでしたが、しばらく凶作が続いても個人は困らないだけの蓄えでした。おまけに、この金持ちは〈さあ休め〉と言っていますから、労働からも解放されています。「悠悠自適」の毎日。「毎日が日曜日」という連想も働きます。
しかし神はこの金持ちを〈愚か者〉と呼びました。この金持ちは、急病で亡くなるのか、事故や事件に巻き込まれるのか、分かりません。しかし不意に召されるということはある確率で起こります。人は遅かれ早かれ地上の人生を終えるので、いつ天に召されてもいいつもりで、毎日を生きるべきではないでしょうか。
〈自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです〉と主は言われました。〈神に対して富む〉とはどういうことなのでしょうか。
主は今日の箇所の最後でこう言われました。〈いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか〉。
健康に気をつけることは大事ですが、そのことを主が言いたいのではありません。
ほんとうは(特に状況によっては)食べ物や飲み物や衣服も人間の自由にはならなくて、ただ神にすがるしかない場合もあるのです。豊作であるとか、バブル景気であるとか、大きな遺産を相続する場合もあるでしょう。そうでなくても、真面目にこつこつ働いて、多くの人が中間層となり、生活に余裕のできた時代もあるでしょう。
そんな時代に、多くの人が、見えないいのちやからだではなく、見えるグルメやファッションに心を奪われやすくなります。全体の景気が良いと、キリストの弟子たちも、世間から浮いてしまうことに恐怖します。私たちは〈地の塩〉(マタイ5:13)なのに塩気を恥じてキリスト者らしさを隠そうとする誘惑に晒されます。
先週、私たちは、ペンテコステの日にできたばかりのエルサレム教会の様子を学びました。使徒2:44-45にはこう書かれていました。〈信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、2:45 財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた〉。
本日のマタイの箇所のために多くの注解者が言っています。「これは労働そのものの禁止ではない」と。物質的必要のために、責任ある配慮と備えをすることが禁止されているのではないのです。
また自分の生活のためにだけ働いていると本人が思ったとしても、大概の仕事は、社会という宇宙のなかで何らかの光彩を放っています。働くという日本語は、端を楽にすることだ(周りを楽にすることだ)とも言われています。たとえ自分は歯車に過ぎないと悲観したとしても、歯車が回らなければ伝わらない動力もあるのです。
(いのちやからだから神を想う)
〈何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか〉。
飲食がいのちと対比されていて、服飾がからだと対比されています。〈いのちは食べ物以上のもの〉とされ、〈からだは着る物以上のもの〉とされます。何がそれ以上かといえば、いのちが食べ物より重要なのは、言うまでもないほどです。しかし重要性だけではありません。いのちは、食べ物以上に人間の力でコントロールしにくいものです。
あの金持ちのたとえがそうだったように、食べ物があっても、いのちを失っては元も子もありません。それどころか主イエスは〈人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか〉(マルコ8:36)と言われました。たとえ、人が全世界を得ても、自分のいのちを制御できない無力な現実があります。
からだもまた、そうです。衣服は綻びたり、虫に食われたりするでしょう。しかし衣服は繕ったり、思い切って新調(新しく)すればいいのです。衣服は取り替えられますが、身体(からだ)は取り替えられません。
全世界を得ても保てないいのち。衣服のように取り替えられないからだ。自分たちの力では、どうにもならないものの双璧でしょう。私たちは人生のなかでどうにもならない現実にぶつかって、右往左往し、悩みもします。しかし〈神にはどんなことでもできます〉(マタイ19:26)ので、感謝です。困難は神を想う契機になるのです。
主は言われました。〈ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか〉。
祈りましょう。「愛する神様。あなたは私たちをお造りになり、いのちと身体を持つものとされました。いのちを保つには食物が要りますし、からだには衣服が欠かせません。しかし、それにも関わらず、食べ物以上に見えないいのちが大事ですし、洋服以上にからだは掛け替えのないものです。どうぞ、私たちに限界を悟らせてくださり、あなたの臨在と救いの愛を少しでも悟らせてください。イエス・キリストの十字架による罪の贖い、その恵みを感謝します。どうぞ私たちに平安を与えてください。何がほんとうに大切なのかを弟子たちに教えてくださった、私たちの師でもある救い主、イエス・キリストの尊いお名前で祈ります。アーメン」。
