神は人と論じ合う イザヤ1:10-23
2026年度「教会を愛する」ことが、私たちのテーマです。先月17日、私たちは「神と人との共同作業」というタイトルでヘブル13:20-21を読みました。また先週3日の礼拝は「神は人を信じるか」というタイトルでヨハネ2:23-3:21を学びました。そして今日は「神は人と論じ合う」というタイトルでイザヤ書から学びます。
一言祈りましょう。「《イエスを愛し、教会を愛する》。2026年度、私たちの教会が取り組むテーマです。また今日は礼拝後、教会の決算総会を持ちますが、顔を見合わせ、ことばを交わすこと、異なる意見を調整していくことは、神であるあなたも願っておられる大切なことだと信じます。私たち人間にたえざる更新が必要であることを、主よ、どうか、あなたのことばから教えてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。
(ソドムとゴモラになった都市)
旧約聖書のなかでも、イザヤに始まりマラキに終わる預言書は、読んだだけで分からない箇所が大半です。創世記に始まる歴史物語や、詩篇などの文学とは違うジャンルで、預言者が語った預言の歴史的な背景を知る必要が高いからです。
ジャーナルjournalということばがあります。日本語のジャーナルは、日刊新聞と、定期刊行物(雑誌や新聞)の二つの意味しかありませんが、英語のjournalはそれ以外にひとりひとりが記録する日記の意味があります。預言書は、文書の形式でいえばジャーナルに近いと自分では思っています。
新聞や雑誌は発行されたタイミングの読者だけが理解できればよいのであるし、日記などは書いている本人だけが分かればよい。もっといえば預言書は、預言した預言者自身もよく分からなくて語っていて、語らせた神ご自身だけが知っているような部分(特に将来への言及)もある。これが旧約聖書の預言書の読解が難しい理由です。
ですのでイザヤ書の歴史的背景については少しだけでも言う必要があります。1:1には〈アモツの子イザヤの幻。これは彼がユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである〉と書かれています。大雑把にいえば紀元前8世紀。預言の舞台は〈ユダとエルサレム〉。南ユダ王国とその都エルサレムです。北イスラエル王国は、この時代に大国アッシリアに滅ぼされています。
そんな時代ですが、今日私たちが開いているイザヤ書の箇所1:10にはこうあります。〈聞け。ソドムの首領たちよ、【主】のことばを。耳を傾けよ。ゴモラの民よ、私たちの神のみおしえに〉。イザヤは自分の預言をこれから聴く人たちのことを〈ソドムの首領たちよ〉とか〈ゴモラの民よ〉と呼びかけています。ソドムとゴモラは、イザヤの時代より1,200年くらいは遡った時代にあったとされる二つの町で、〈ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、彼らの罪はきわめて重い〉(創世記18:20)と神に見做されました。そして、天の主のもとから降ってきた硫黄と火によって滅びたのです。
イザヤは紀元前8世紀の人でありながら、もっと昔のソドムの王やゴモラの民に預言したのでしょうか。そうではありません。その前のイザヤ1:9で〈もしも、万軍の【主】が私たちに生き残りの者をわずかでも残されなかったなら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じになっていたであろう〉と書かれています。主への信仰と服従を貫く少数派がいなかったら、自分たちもソドムやゴモラのように滅ぼされた。
つまり神の民イスラエル。ダビデ王によって都として築かれ、ソロモン王によってそこに神殿が建てられたエルサレム。エルサレムの王も民衆も、神に裁かれ滅ぼされたソドムやゴモラの人たちと同じだと、イザヤのことばは告げているのです。
過去にどんな栄光があって素晴らしい記憶として残されていたとしても、信仰の遺産を帳消しや台無しにしてしまうことがあるのです。エルサレムも、ソドムやゴモラと変わらなくなってしまう。過去にあぐらをかかないように、気をつけましょう。
(鼻をつまむ[?]神)
そのようにソドムやゴモラと同じように見做されたエルサレム。その祭儀(礼拝)はどんなだったでしょう。とくに神殿においてです。
イスラエルの王国の歴史において、アハブの妻であったイゼベルの影響があった時代を除けば、先祖たちをエジプトの奴隷の身分から解放してくださったまことの神をイスラエルは拝み続けていました。また、その儀式も南ユダ王国では小さな変更でしかありませんでした。
ところがイザヤは次のように預言するのです。イザヤ1:11-15〈「あなたがたの多くのいけにえは、わたしにとって何になろう。──【主】は言われる──わたしは、雄羊の全焼のささげ物や、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。1:12 あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、だれが、わたしの庭を踏みつけよとあなたがたに求めたのか。1:13 もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙、それはわたしの忌み嫌うもの。新月の祭り、安息日、会合の召集──わたしは、不義と、きよめの集会に耐えられない。1:14 あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。それはわたしの重荷となり、それを担うのに疲れ果てた。1:15 あなたがたが手を伸べ広げて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを多くしても聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ〉。
神のための祭儀を、神自らが嫌い、拒否しています。犠牲を焼いて献げる煙だけではなく、香を焚いて天の神への祈りとしていましたが、〈香の煙、それはわたしの忌み嫌うもの〉と言うのです。もし神が身体的なパフォーマンスをするなら、神は鼻をつまんで香の煙を嗅ごうとしていないのです。
また〈新月の祭り、安息日、会合の召集〉に耐えられないというのですが、これは毎月の集会、毎週の集会、年ごとの集会のすべてを拒絶することを意味しています。これは儀式そのものが拒絶されたのでしょうか。いいえ、キリストが来てすべてを変えるまではこの儀式にも意味があったのです。
そうではなくて儀式そのものではなく、儀式を行う人に問題がありました。社会生活、日常生活に問題があったのです。1:16-17〈洗え。身を清めよ。わたしの目の前から、あなたがたの悪い行いを取り除け。悪事を働くのをやめよ。1:17 善をなすことを習い、公正を求め、虐げる者を正し、みなしごを正しくさばき、やもめを弁護せよ〉。
宗教行事についてルターのすぐれた考察があると鍋谷堯爾先生が紹介しておられました(『イザヤ書注解 上』pp146-47)。以下はルターのことばです。「神はわれわれのわざを要求される。同時に、われわれのわざを要求されない。これはいったいどういう意味であろうか。それは、これらのわざ(宗教的行事)が、あたかも必要とされることはなく、神が喜ばれることがないかのようにして、要求されているということである。」。
これは、もしかしたら、宗教行事だけでなく、あらゆる良い行いについて言えるかもしれません。ルターのそれは、噛みしめて、考察すべき発言です。
(罪の色を消す福音)
神に近づくはずの犠牲の礼拝(神殿祭儀)が神に嫌悪されるものとなったことを知らされて、イザヤの預言を無視するのでなければ、イスラエルは立ち尽くすしかなかったはずです。踞るか、引き籠もるしかなかったはずです。しかし、そのとき、主である神の側が力強く呼びかけるのです。
1:18〈さあ、来たれ。論じ合おう。──【主】は言われる──たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる〉。
神は、来たれ、留まれ、行けと言われるお方です。新約時代の今も、イエス・キリストが〈わたしのもとに来なさい〉(マタイ11:28)と言われ、〈わたしにとどまりなさい〉(ヨハネ15:4)と言われ、〈父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします〉(ヨハネ20:21)と言われます。世に棲む私たちはそのように、主ご自身から招きを受け、礼拝と交わりに与り、訓練され、再びこの世に派遣されるのです。
神は、神が定めた宗教儀式によってさえ、神に近づくことのできない私たちを恵みによって招いてくださるのです。これは理屈を超えたことです。どうしようもないものをどうにかしてくださる、神の秘義であり神秘、主イエスの十字架なのです。だから神さまはここで〈論じ合おう〉と言われています。
今日は教会総会もあるので少し脱線しますが、私たちの主は私たちに、話し合おう、相談しよう、議論しよう、と誘ってくださるときがあります。私なりの観察と理解ですが、私たちの父なる神は、合議制をしばしば好まれます。唯おひとりの、至高の聖なる方、間違えるはずのない方なのに、ヨブ記1章・2章で、神は御前で会議を開いておられ、サタンにさえ発言が許されています。神が単独制ではなく合議制をしばしば好まれるのは、この方が三位一体の神であることと関係あるかもしれません。
さてそのようにして、神が私たちを招いておられます。ただ呼び出すだけではなく、〈論じ合おう〉と呼びかけるのは、私たちの理解や感情や意志を整えるためです。何のためでしょうか。私たちが最優先に取り組まなければならないことを示すためです。そして、もっと父である方を知るようになるためです。
主はイザヤを通して言われました。〈たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる〉。これは、まるで旧約聖書に先取りされた主イエス・キリストの十字架の福音です。真っ黒な罪と言いますが、真っ赤な罪もあるのでしょう。しかしどんなに濃くて暗い罪も、神の恵みの福音は、私たちの魂を〈雪のように〉〈羊の毛のように〉白くしてくださいます。
〈御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます〉(Ⅰヨハネ1:7)。〈もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます〉(Ⅰヨハネ1:9)。
こうした福音の招きはあだや疎かに聴くべきではありません。御子イエス・キリストの十字架の福音には、神の完全な深い愛に裏打ちされた真剣さがあるからです。
それゆえイザヤも続けてこう言っています。1:19-20〈あなたがたは、もし喜んで聞こうとするなら、この地の良い物を食べることができる。1:20 しかし、もし拒んで背くなら、剣に食い尽くされる。──【主】の御口がそう語られる〉。
(シオンの哀歌~どうして遊女に)
ここでお話を終わるべきかもしれません。とくに浅はかな人間を育てたいと願うならそうすべきです。
神の力強い救いの招きがありました。真っ赤な罪が雪のように白くされました。羊の毛のようでもあります。それで私たちは天国に行けるのだから、地上のことを放置してよいのだ。そうではありません。イザヤは1:18で、あるいは続く第6章の召命記事からも分かるように、神に心をきよめていただいて、さらにこの世に派遣されるのです。
1:21から23までが今日のテキストです。イザヤ1:21-23〈どうして遊女になったのか、忠実な都が。公正があふれて、義がそこに宿っていたのに。今は人殺しばかりだ。1:22 おまえの銀は金かすになった。おまえの良い酒も水で薄められている。1:23 おまえの君主たちは強情者、盗人の仲間。みな賄賂を愛し、報酬を追い求める。みなしごを正しくさばかず、やもめの訴えも彼らには届かない〉。
ソドムやゴモラにたとえられたエルサレムが、ここでは〈どうして遊女になったのか〉と言われます。イスラエルは、神の花嫁であって、遊女ではなかったはずです。戦いは続きます。とくに1:23と、先の1:17を比較すれば、当時の社会的助けを必要とする代表であった〈みなしご〉と〈やもめ〉を決して放置してはならないのでした。
約48年前、私は大学に進学するため上京しました。そこは左翼の学生運動を嫌って、神学部を廃止し、異端である統一教会の学生たちに文化系のサークルを支配させていた、ミッションスクールの名に値しない大学でした。クリスチャンになったばかりで田舎から出てきたぽっと出の若者にもわかる悲惨な状態がそこにありました。
イザヤ1:21は、そういう青年の心に届いた聖句でした。〈どうして遊女になったのか、忠実な都が。公正があふれて、義がそこに宿っていたのに。今は人殺しばかりだ〉。私たちは主に贖われた者として、この世から脱走する者ではなく、この世で〈地の塩〉(マタイ5:13)〈世の光〉(マタイ5:16)を目指す者です。
一言祈ります。「主よ。あたりまえのことですが、神であるあなたと、人である私たちは違います。また人間同士の違いも、またしばしば論じ合うことを困難にします。しかしあなたが光の君であることを信じます。御子の血潮によってきよめられた者として、私たちに御国を世において証しさせてください。集った私たちを強め、聖霊に満たし、お遣わしください。何よりも素晴らしいお方、主イエスのお名前で祈ります。アーメン」。
