信仰はどうしたら大きくなるか マタイ6:31-34
「愛する天の父なる神。今日も私たちはあなたの家族である兄弟姉妹と共に、あなたの御前に集められ、みことばを聴く礼拝をささげております。私たちは孤独のなかで、あなたを礼拝し、また、証をするときもありますが、ほとんどの場合、共に救いの恵みに与った『善き力』に私たちは囲まれています。実際にひとりと思っても、私たちの知らないところで、私のためにとりなしの祈りがささげられていますから、感謝します。また、私たちだけがキリストの弟子ではなく、あなたは、あらゆる時代のあらゆる民族、あらゆる背景の人々から、キリストの弟子を召してくださり、共に信仰に励むよう導いておられます。主よ、導いてください。私たちを助けてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。
(弟子たちの信仰は薄かった)
先週の祈祷会をお休みにさせていただきました。ある伝道団体主催の3日間のセミナーに出席するためでした。近くの東京基督教大学TCUの小さいほうのチャペルで開かれました。そこで、聖書に根ざした魂のケアとしての聖書カウンセリングについて学んできました。
教会のため、あるいは伝道や弟子訓練のためのカウンセリングとはいえ、カウンセリングの学びですから、相談を受ける人が相談者を親身になって受け入れることが、まずあります。しかし、その上で聖句を用いますから、相手を100%肯定するとは限りません。悔い改めてほしくて、結果的に否定的なことを告げることもあります。
「否定的」。といえば。私たちは、先週マタイ6:26-30を学びましたが、最後のことばを取り上げませんでした。それは主イエスが、空の鳥に続いて野の花の話をしたあとでした。6:30〈今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ〉。
私たちは、たとえわずかでもいのちの長さ(寿命)を延ばせるかといえば、延ばせないのです。そして野の草のように一日のうちに火で焼かれるかもしれません。私たちの地上の人生は儚いものです。それなのに天と地を造られた神に信頼しきれない弟子たちに向けて〈信仰の薄い人たちよ〉と言ったのです。
〈信仰の薄い人たちよ〉。弟子たちは、主からそう言われました。どんな気持ちだったでしょうか。〈信仰の薄い人〉とは、信仰がない人ではありません。信仰はあるけれど、その信仰が、小さかったり薄っぺらな人です。もちろん私たちの救い主はあわれみ深い方ですから〈信仰の薄い人たちよ〉と優しく言ったのかもしれません。
しかし、プライドが高く、そのくせ、傷つきやすい、私のような弟子が混じっていたとしたらどうでしょうか。〈信仰の薄い人たちよ〉は決して誉め言葉ではありません。「自分は信仰薄い者ではなく信仰に篤い者だ」と心の中で反発をしたかもしれません。しかし主のことばは続きます。
6:31〈ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです〉。先の6:25で言われたことが、主によってもう一度繰り返されます。大事なことです。すべてを捨てて、主の弟子として従っていくためには、たいへん大事なことです。大事なことだからこそ〈信仰の薄い人たちよ〉と主は言われています。
後に使徒パウロがこう言っています。〈兵役についている人はだれも、日常生活のことに煩わされることはありません。ただ、兵を募った人を喜ばせようとします〉(Ⅱテモテ2:4)。あるいは〈はたして、自分の費用で兵役に服す人がいるでしょうか〉(Ⅰコリント9:7)ともパウロは言っています。
シンプルな生活スタイルそのものがいちばん大事なのではなく、このような生活スタイルに導いた方がどんな方なのかがいちばん大事です。
日本の諺に「冷や酒と親の意見は後できく」というのがあります。日本酒は温めて飲む(お燗する)のがふつうですが、夏の暑い日など温めないで飲む日本酒を「冷や酒」といいます。私はお酒を飲まないので分からないのですが、「冷や酒」は後から酔いがまわるそうです。「冷や酒」の酔いが遅いように、親からの意見もその時はすぐにわからなくても、時間が経てばしみじみわかってくるものだ、という戒めです。
主イエスのことばも、聞いたときは分からなかったけれど、後でしみじみわかるとことがあります。「良薬口に苦し」ともいいます。マタイ福音書では、これ以降、あと3回(8:26、14:31、16:8)、弟子たちに向かって〈信仰の薄い人たちよ〉と言います。主が弟子たちに放ったことばとして、私たちも覚えておきましょう。
(なぜ信仰が小さくなるのか)
私たちも信仰が小さくなります。信じたばかりのときは、最大限の信仰だったのに、いつの間にか、しぼんでしまいます。
なぜでしょう。何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと考えるからでしょうか。違います。飲食や服装のことを考えなくなったら、私たちは人生をやめているのに等しいでしょう。
そんなことではありません。何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと考えながら、これが心配にまでなってしまっていることが問題です。深刻な思い煩いにさえなってしまっていることが問題です。明るく楽しく生きたいと願っているのに、生活が魂を殺すような重荷になってしまっています。
第一に、主は〈何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです〉と言っておられます。飲食も服装も大事ですが、その他にも考えるべきことがあります。もっと大切で、もっと注意する必要のある事柄は、飲食をして喜び、服を着て楽しむ、私たちひとりひとりの魂の状態です。
第二に、この魂の状態に関連するのですが、天と地を造られ、あなたの人生をも造られた方を思うことです。聖書の神を信じる人は、その方を思うことができます。キリストの弟子であるならば、イエス・キリストを思うことによって、もっとはっきりとその造り主(人生の導き手)を思うことができます。
何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか、こうしたことを軽んじていいと聖書が言っているのではありません。何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかは、ある意味、生活そのものです。
しかし主は言われました。6:31-32a〈ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです〉。
〈異邦人〉とは、この場合、ユダヤ人以外の外国人のことです。しかし言わんとすることは民族や国籍のことではありません。〈異邦人〉ということばで、主が伝えたかったのは、まことの神を知らない人、という意味です。人生は、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかだけで終るものではありません。
まことの人生は、神を知り、神に知られていることを知って〈どうすれば主に喜ばれるか〉(Ⅰコリント7:32)を意識することです。私たちの信仰(いわゆるキリスト教信仰)は、ただ神の存在を信じている有神論者以上のものです。神の存在だけでなく、神のご人格を知っています。神のご人格を知っているとは、個人的(personal)な関係をこの方と持っているということです。
この方を父と呼び、自らを愛児と認識する、親子関係。キリストを夫とし、自らを配偶者と認識する夫婦関係。あるいは神を羊飼いと考え、自らを迷っていたけれど見出された一匹の羊と見做すこともできます。
このような神との霊的な関係を持たない人を、ここで主は〈異邦人〉と呼んでいます。本質は民族的な排他性ではありません。私たちも、神との霊的な関係(個人的な関係、生きた祈り)を持たない人の実情をよく斟酌して、福音宣教(魂を救いに導く伝道の働き)に取り組んでまいりましょう。
第三に、私たちを造り、私たちの人生を導くそのお方(イエス・キリストの父なる神)は、私たちを愛しておられることを意識しましょう。主は6:32の残りの部分で言われました。〈あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます〉。あるいは32節の頭から読んでみましょう(読む)。
神が、聖なる方、罪のない方、義なる方であるので、神が愛であることを認めづらい方がおられます。しかし〈神は愛です〉(Ⅰヨハネ4:16)というのは、この聖なる方、義なる方、罪も汚れもないお方であるのです。
また神は何でもご存知な全知のお方、何でもおできになる全能のお方。あなたは神に知られています。神はあなたを養おうとされています。神は様々な属性を持っておられますが、ばらばらにそのご性質(属性)があるのではなく、均等なバランスを持ち、そして総和的でもあるのです。
それはひとりの父(お父さん)と呼ばれる人物が、清廉潔白な正しい方であるけれど、同時に慈しみ深く思いやりがあって、勉強を怠らず、家族のために何でもしてあげようという意志を持つのに似ています。神は愛であり、全知全能の方で、そのことは先ほどのことばにも表れています。〈あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます〉。
(信仰が大きくなるために)
私はすでに、それぞれの生活も大切であるけれど、それぞれの魂の状態がもっと大切であると申しました。また、この魂のために〈あなたの造り主(創造者)を覚える〉(伝道者12:1)ことが重要であるとお話ししました。そして創造者であるお方は、私たちの魂を救うと共に、私たちの人生を具体的に導いてくださる愛なるお方です。
あと残りは、私たちの信仰を薄く小さなものにしないだけでなく、積極的に篤く大きなものにするためには、どうしたらよいかをお話しします。
第四に、私たち信仰者は信仰者らしく、優先順位を明確に持つべきです。主は言われました。6:33〈まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます〉。
今回の説教の準備で、私はもっと大胆にならなければならないと思わされました。本人の意志や自由を大切にするのはあたりまえですが、その意志や自由の尊重が、神の御心において妥協することではありません。
先週のセミナーで大切なことばを改めて聴きました。すなわち、こうです。「神に従うことの報酬は何かと言えば、それは従うことそのものである」。
信仰と服従。神を信じて信頼することと、神の御心に生きようとする従順。信じることと従うこと、これを私たちは切り離しやすいのです。しかし信頼と従順を切り離すことは危険です。それは、私たちの信仰を小さなものにし、また私たちを偽善者にします。
マタイ6:33で〈まず神の国と神の義を求めなさい〉と書いてあります。並行箇所のルカ12:31では〈御国を求めなさい〉と書いてあるので、義の話より先に御国の話をします。〈御国〉とは王が治める王国のことです。御国の王は、イエス・キリストの父なる神であり、キリストが共に治めておられます。御国を求めるとは、御国を「見て」、御国に「入る」という言い換えもできますが、それはキリストの支配に服することです。
その国を意識して、その国のなかで生活しているのに、その国の王を認めず、その国の王に従わないというのはおかしいでしょう。その国王に従うというのは、その王が定めて法律に従うことでもあります。その法律に従いつつ、その法律の意図や精神を理解しようとします。言ってみればそれが〈神の義を求める〉ことです。そして〈神の義〉とは、突き詰めれば、神の国の福音であり、イエス・キリストの十字架です。
私たちは、神の国の民らしく、法律を読むように聖書を読み、理解すると共に守っていくべきです。また神の国に御心が行き渡ることを願って、主に祈りましょう。今日、葛藤や誘惑を覚えながら礼拝を勝ち取った方も多いでしょう。それが御国を求める第一歩かもしれません。神に従うことをとおして、私たちは従うことを勝ち取るのです。
そして従うことをとおして、人生が正しい意味で戦いであり、信仰とは明るく楽しい冒険であることを知るのです。
第五に、私たちは、主が天に導いてくれるときまで、地上の人生を続けていくのです。今の快楽だけを追い求めて、将来のことを少しも考えないのは刹那主義と言って、信仰者の道ではありません。
しかし私たちは弱いので6:34でこう言われました。〈ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります〉。神の国と神の義をまず求めていくときに、必ず次の展開があります。明日の冒険は、今日の冒険とは違うかもしれません。しかし神との交わりを第一とする従順によって何かが開けていくことが多いです。
ですから私たちは良い意味で信仰を止めることができません。〈苦労〉と訳されていることばは、実はシンプルに〈悪〉という意味です。一日、一日取り組んで、私たちは御国の完成を期待しつつ、地上で悔いのない人生を勝ち取るのです。祈りましょう。
