人間同士の祝福 マタイ7:1-5
とある国の専制君主がこう言ったとしましょう。仮の話です。「汝ら国民は余を悪く言ったり批判してはならない。聖書にも『裁いてはいけない』と書いてある。余を批判する者は投獄し、後に極刑とする」。どんな法律もねじ曲げて、権力が暴走することがあります。権力に制限をかける憲法さえ、国民の人権を守るためではなく別の理解のなかで解釈したり、改変しようとする動きがあります。
私たち人間は、自分には甘く、他人にはきびしいという面があります。主イエスの弟子たちも例外ではありませんでした。そんな弟子たちに、主イエスは神の御心を伝えようとしました。山上の説教の学びも、本日から第7章です。第5章ではキリストに従う弟子とはどんな者なのか。そして聖書と聖書のことばに対して、主の考えが伝えられました。第6章では、宗教行為と経済活動の要諦について、語られました。
本日の説教は〈さばいてはいけません〉と書いてあるところです。3-5節には〈兄弟〉と書いてありますから、主の念頭にあるのは弟子たちの人間関係なのかもしれません。しかし、どんな人間関係においても人は人を裁く傾向にあるのではないでしょうか。そもそも人を裁くと、どんな問題が生じるのでしょうか。
一言祈ります。「愛する主なる神。私たちは毎日の生活で様々な人と出会っています。家族、友人、また近所や職場や習い事で会うすべての人たち。電話やネットで繋がる人たち。たまにしか会えない故郷の親族。私たちは、関係を壊さないように汲汲としていることもありますし、傷つけたり傷ついたりの応酬を繰り返すこともあります。そんな私たち人間にあなたは〈人がひとりでいるのは良くない〉(創世記2:18)と仰せられました。主よ、あなたが求めておられる人間関係の機微を、どうか私たちに少しでもお示しください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン」。
(「裁き」の二通りの意味)
本日の箇所を読むにあたって、まず考えなければならないのは、私たちの救い主がほんとうは何を禁止したのか、です。〈さばいてはいけません〉とは、一体どんな行為を禁じていることなのでしょう。
私たちの聖書で〈裁く〉と訳されていることばはκρίνωということばです。これには「分析する」「評価する」「価値判断を下す」といった肯定的な意味があります。そして「見下げる」「批判する」「有罪判決を下す」「非難する」「中傷する」といった否定的な意味とがあります。聖書の他の箇所で、価値判断を下す肯定的な意味で使われていることを見ることができます(Ⅰコリント5:3、Ⅰヨハネ4:1)。
昔、教会の青年会で次のようなことを言う仲間がいました。彼は司法試験合格を目指していて法曹界に入ろうとしていました。裁判官になりたかったのです。彼は実際に合格して長く裁判官をし、いまは弁護士の仕事をしています。そんな彼ですが、今日の箇所に影響を受けたと思いますが、自分は「裁かない裁判官になる」と言っていました。
クリスチャンにも二通りあるのだと思います。理想から現実を変えると信じることが上手なタイプ。そして現実は簡単に変わらないので理想を早めに投げ出す傾向を持ったタイプ。私は、どっちかと言えば後者でしたが、彼は理想から現実を変えると信じるタイプ。人を裁かない裁判官などあり得ないだろうと、私はすぐに思いました。
ただ彼も私も聖書をこつこつと毎日読むタイプでもありました。理想派も現実派も聖書をこつこつ読んだり聞いたりするタイプであっていただきたい。しばらくして彼がこう言いました。「ヨハネの福音書にこう書いてある。〈うわべで人をさばかないで、正しいさばきを行いなさい〉(ヨハネ7:24)」。そうですね、という落ちです。
もちろん今日の7:1で〈さばいてはいけません〉というのは、大きく言えば「見下げる」「批判する」「有罪判決を下す」「非難する」「中傷する」といった否定的な意味に違いありません。
ただ次のような考察もさらにあるのです。「ギリシア語(κρίνω)には『有罪判決を下す』ことと『価値判断をする』ことの区別がない。前提とされているのは、人間のいかなる判断もその底に『有罪判決を下す』契機を含んでいるということである。終末論的要求が無条件に発せられている」(G・シュトレッカー)。
これはどういうことでしょうか。私たちは、その人を分析したり評価したりして価値判断をするときに、相手は決して完全無欠な神様ではないので、否定的な面を見ずにはいられない、ということではないでしょうか。もしこれが小さな幼子だったら正義のヒーローや無垢のプリンセスをいつも想像できるかもしれません。
しかし実際のところ非難せざるを得ない出来事は存在します。教会だったら、その人にまことの悔い改めを求めるべきことです。そして社会だったらその人に有罪判決を下すべきことです。そのときそのことで〈自分がさばかれ〉てもいいから、相手に対して〈正しいさばきを行う〉ことが、主からも求められるに違いありません。
(「裁き」の三種類の型)
次に、私たちは混乱を最小限に抑えるために、ロイドジョーンズに倣って「裁き」について整理してみたい。それは私たちそれぞれの人生が、福音の恵みに感謝しながら、同時に、主への畏れや純潔な心を失わないために必要な考察だと思われます。ロイドジョーンズは「聖書は三つの型(種類)の裁きを教えている」と述べています。
第一の種類の裁きは、最終の永遠の裁きです。イエス・キリストが語ったことばでもあるヨハネ5:24を開きましょう。〈まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています〉。
このことばの近くに、こういうことばもあります。ヨハネ5:28-29〈このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。5:29 そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます〉。
私たち人間には二つの進路があります。永遠のいのちか、永遠の裁きかの二つです。そして〈すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず〉(ローマ3:23)と書いてあります。私たちは本来永遠のいのちに歩む者でした。しかし人類史早々、私たちは、もうひとつのトラック(滅びの道)を進む者となりました。
もし私たちの進路に神の独り子が立たなければ、私たちには進路選択さえ不可能でした。いのちを捨てて~すなわち十字架において主が私たちの身代わりに死んでくださり、贖いを成し遂げてくださいました。私たちは、このキリストの死と復活によって永遠の滅びから救われております。私たちは〈永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移って〉います。
裁きというのは、そのような究極の裁き、地獄行の結末、それを考えるだけで十分なのではないでしょうか。そうではありません。神は、キリストの十字架によって救われて神の子となった者に、言ってみれば、究極ではない裁き、相対的には小さな裁きを下されることがあるのです。
第二の種類の裁きは、私たちの地上の生涯において、訓練として与えられる裁きです。それは病気であったり、思いもかけない事故であったり、経済的な困難、あるいは、些細なことから生じた争いであるかもしれません。それは、私たちが落第をしないだけではなく模範生となるために必要なことでした。
ヘブル人への手紙12:4-7をお読みいたします。〈あなたがたは、罪と戦って、まだ血を流すまで抵抗したことがありません。12:5 そして、あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れています。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。12:6 主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」12:7 訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか〉。
私たちはイエス・キリストの十字架によって一切の罪を赦された者、言ってみれば、すべての借金を棒引きにされた債務者です。しかし残る地上生涯を歩む私たちに〈もろもろの悪霊〉(エペソ6:12)との戦いがあります。誘惑されて罪を犯してはならないし、犯したならその罪を認めてキリストの十字架を仰いで悔い改めるべきです。
しかし私たちの現実はどうか。〈あなたがたは、罪と戦って、まだ血を流すまで抵抗したことがありません〉。これが現実であって、信仰者は皆、神の子どもとして訓練を受ける必要があるのです。そして私たちは〈義という平安の実〉(ヘブル12:11)を結ぶのです。私たちは天国に行けるからこそ、地上の試練に耐えるのです。その試練に耐える力も、その試練から脱出する道も、主は用意してくれています(Ⅰコリント10:13)。
第三の種類の「裁き」について。ロイドジョーンズは、これに「報いの裁き」という言い方があることを伝えています。ローマ14:10に以下のようなことばがあります。〈それなのに、あなたはどうして、自分の兄弟をさばくのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです〉。
私たちが他の兄弟姉妹を裁いたり見下したりしない根拠として、この大切なことがここで言われています。〈私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです〉。これはいったい何なのでしょうか。私たちは、ある意味、他の人を裁いている余裕も時間もないのかもしれません。私たちは、何を見張るよりも自分の心を見守らなければなりません。自分の心を見張ってこそ、いのちの泉が心から湧くのです(箴言4:23参照)。
そしてすべての信仰者が立つことになる〈神のさばきの座〉ではどんなことが待っているのでしょうか。Ⅰコリント3章にそれは描かれています。Ⅰコリント3:10-15を読みましょう。〈私は、自分に与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えました。ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。3:11 だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。3:12 だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、3:13 それぞれの働きは明らかになります。「その日」がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。3:14 だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。3:15 だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります〉。
これが言ってみれば「報いの裁き」です。恵みにより、信仰によって、永遠の滅びには行かないのですが、神にとって価値のない悪事を繰り返す者には報いを受けることがないのです。有限な私たちの地上の人生が、無為に過ごされるばかりならば、それは残念なこと、もったいないこと、口惜しいことではないでしょうか。キリストを信じた人生とは、天命を知って人事を尽くす、悔いのない人生であってほしいと思います。
そして、地上の生涯の終わりといえば、葬儀で読むことの多い、次の聖句があります。ヨハネの黙示録14:13です。曰く〈また私は、天からの声がこう言うのを聞いた。「書き記せ、『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである』と。」御霊も言われる。「しかり。その人たちは、その労苦から解き放たれて安らぐことができる。彼らの行いが、彼らとともについて行くからである。」〉。
地上の人生は、苦労の歩み、戦いの連続ですが、主にある死者の幸いとは、労苦からの解放です。そして戦う緊張からも自由になって平安です。そして忍耐のなかでなされた善い働きの報いが待っています。〈彼らの行いが、彼らとともについて行くからである〉とは、そのような意味です。
(まとめ)
神による裁きが以上のようなことであるなら、〈さばいてはいけません〉と言われたその理由は次のようなことでしょう。
おおよそ裁きとは、神がなさることなのです。そして人は確かに神の代行をするときがあります。良きにつけ悪しきにつけ、です。
私たちが人を裁くとき、自分もだれかに裁かれるだろう者であることを覚えましょう。少なくとも、天の父は私たちを三重の種類で裁くことをなす方です。
また、その裁きの物差しは、神のことばに基づくものですが、私たちに納得させるため私たちが使った基準を神は用いなさいます。〈あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです〉と書いてあります。
そして私たちは人を正しく見るためには、自分自身を正しく見ていなければなりません。私たちが人に関わろうとするなら自己批判をやめてはいけません。〈私たち教師は、より厳しいさばきを受けます〉とヤコブも言っています(ヤコブ3:1)。自分も〈神のさばきの座に立つことになる〉のですから、自分をよくよく吟味しましょう。
そうすれば偽善者でなく、ほんとうの兄弟(神の家族)として、相手の目に入った〈ちりを取り除く〉ことができて、その人の、真の兄弟となることができるかもしれません(マタイ18:15)。人への忠告自体が試練なのですが、神の赦しで生かされている者として、いつも親切で塩味の効いたことばを用いましょう(コロサイ4:6)。
真理は愛をもって語ります(エペソ4:15)。愛をもって嘘をつく人もいますが、真理こそ愛をもって語らなければ伝わりにくいわけです。プロのカウンセラーにスーパーバイザーが付くように、私たちの眼差しから梁を取りのける工夫や習慣が大事です。祈りましょう。
