良い実を結ぶ良い木 マタイ7:15-23[2]
先週に続いてマタイ7:15-23を開いています。考えれば考えるほど難しい箇所です。それで、前回学んだことをおさらいします。
まず〈偽預言者たちに用心しなさい〉と書いてあります。前回、尊いもの、価値あるものには、偽物がつきまとうと、お話しました。尊い御言、神のことばを伝えるゆえに、預言者も、教会の教師も、尊い存在なのです。そこで本物の預言者に対して偽預言者。本物の教師に対して偽教師が現れるのです。
偽預言者が、もし神のことばを正しく語っていれば、それはもはや偽預言者ではなく、本物の預言者でしょう。逆に本物であったはずの預言者が、神のことばのように、あるいは、神のことばとして語ったとしても、実現しなければ、神のことばを語っていなかったのであって、偽預言者です。〈彼におびえることはない〉(申命記18:22)のです。
そして神のことばの正しさとは、私たちにとっては聖書ですが、神のことば全体に照らして正しいかどうか。そういうことも基準になります。こうした基準を教理といいます。教理は、聖書そのものに比べれば絶対的なものではありませんが、聖書そのもの(聖書論)も含めて、そのことばの正しさを教理的に確かめることができるはずです。
さらに、神のことばの検証を行なう主体はだれかということです。それは教会です。神のことばに導かれた信仰の共同体が、そのことばが実現したか、教理的に正しいかの判定をします(Ⅰヨハネ4:6)。教会には何と大きな責任があるのでしょうか。
そんな大きな責任を、人間の集団に負わせていいのでしょうか。教会のことを罪赦された罪人の集まりと言ったりいたします。人間は、アダムとエバ以来、悪魔に欺かれてばかりなのではないでしょうか。偽預言者、偽教師、偽キリストさえ現れて、できれば救いに選ばれた人(選民)さえ惑わそうとするのです(マタイ24:24、マルコ13:22)。
イエス・キリストは、この世界に、人としておいでくださいました。それは人を救うためです。人を救って、世界を救うためです。その方法は十字架です。罪の代償として人が受ける、神からの怒りや裁きや呪いを、身代わりに受けていのちを捨てたのが、イエス・キリストの十字架。それが十字架の目的であり、意味なのです。
山上の説教は、主イエスの教えです。しかし主イエスの十字架抜きで、私たちは、その教えも、十分な理解ができないと思うのです。今回は、15-23節の主イエスの教えに十字架の贖いを重ねたいと願います。
一言お祈りいたします。「愛する天の父なる神。私たちは終りの日に向っております。神のことばを語らない偽預言者や偽教師が横行する現代において、今日の学びも大きな益(祝福)となりますように。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。
(実によって見分ける)
私たちは偽預言者に警戒しなければならないのですが、厄介なことは、見た目では偽預言者かどうか分からないことです。15節の後半にこうあります。〈彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です〉。偽預言者は聴衆を食い物にし、そのためにいのちを奪う存在ですが、〈羊の衣を着て〉とあるように見かけは普通の人、普通の信者、普通の伝道者と変わらなかったりするのです。
そのように、その場の見かけで判断できないので、主は見分ける原則を教えてくださいました。7:16a〈あなたがたは彼らを実によって見分けることになります〉。主はここで、産み出されたもの(現象)が産み出したものの正体(本質)を明らかにすると言われたのです。
主は〈茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか〉(7:16b)とも言われました。〈茨〉や〈あざみ〉は良くない植物の代表とされています。良くない植物から、良い植物の〈ぶどう〉や〈いちじく〉の実はならないのです。これは小さい子どもでも、朝顔の種を蒔くなど、植物を育てたことがあれば分かること。常識です。
そして主は続けて〈良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません〉(7:17-18)と言いました。すでに〈茨〉と〈ぶどう〉、〈あざみ〉と〈いちじく〉の話を、主は語っておりました。たしかに〈ぶどう〉の実をならせるのはぶどうの木で、〈いちじく〉の実をならせるのはいちじくの木の働きです。
しかし〈良い木〉と〈悪い木〉の違いは、〈茨〉と〈ぶどう〉、〈あざみ〉と〈いちじく〉の違いではないかもしれません。植物に詳しい人であれば、実がなっていなくても〈茨〉と〈ぶどう〉や、〈あざみ〉と〈いちじく〉の違いは、はっきりと分かります。
しかし〈良い木〉と〈悪い木〉は種類の違う木ではなくて、同じ種類の木なのかもしれません。なぜなら偽預言者と本物の預言者は、共に〈羊の衣を着て〉いるので、違いが見分けにくいはずだからです。そしてもうひとつ〈悪い木〉と訳されている〈木〉の性質を表わすことばは「腐った」とか「駄目な」と訳せることばだからです。
腐った木、あるいは、駄目な木であれば、同じぶどうだが優劣がついている、共にいちじくだが良し悪しが違うことがあるはずです。ただ、このたとえで残念なのは、良い木は良い木のまま良い実を結びますし、悪い駄目な木は悪い駄目な木のまま悪い実を結ぶしかないことです。
先週、〈実〉とは何だろうかと考えました。ひとつは何を信じているか。異端の教理ではなく正しい教理を保ち告白しているかと考えました。また別の考えは、正しい行いと考えました。私たちは正しい教理を信じ告白しながらも、神が心を痛める行いや生活をしていることがあるはずです。
私たちは、イエス・キリストについての救いの信仰を正しく捉えているでしょうか。またその正しい信仰にふさわしく、正しい生活を行なっているでしょうか。聖書を読んだり聞いたりしつつ、定期的に神を賛美したり祈ったりする霊的生活。礼拝や奉仕や交わりを大切にする教会生活。そして家庭や職域や地域で生きる社会生活。この3つの生活とそのバランスが大事です。
(良い実を結んでいるか)
教理であれ、実際生活であれ、私たちは〈良い実〉と言えるほどの実を結ぶことを願っているか、結んでいるか、あるいは結びつつあるか、自分のこと(自分の問題)として考える必要があります。というのは、もともとは偽預言者たちに欺かれるなという警告であったはずですが、主イエスの話を聴くうちに、弟子たちも、私たちも、ただ他人に騙されないという話ではないと気がつくからです。
たとえば続く7:19にこうありました。〈良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます〉。信仰告白や教会生活で良い実を結ぶべきは、預言者や教師だけではなく、キリストに従うすべての弟子たち(信仰者)であるはずです。終りの日に熱い炎に投げ込まれるかもしれないのは、特別な奉仕者だけではないはずです。
さらに先週も言いましたが、7:21から確実に位相が変わっています。主はこう言われました。〈わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。7:22 その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』7:23 しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』〉。
主に向かって「主よ、主よ」と言うのは預言者や教師の特権ではないはずです。〈聖霊によらなければ、だれも「イエスを主です」と言うことはできません〉(Ⅰコリント12:3)。そして聖霊の恵みに与るのは一部の指導者(教職)だけではなく、すべての信徒です。ピリピ 2:11には〈すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです〉と書いてあります。
つまり私たちは皆〈その日(終りの「その日」)〉に再臨したイエス・キリストの前に立つのです。イエスに対して主と告白するのは、正しい信仰告白です。そしてその人たちは〈主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか〉と言います。
イエスをキリストと呼び、主と告白する者は、このイエスの名を知る者であり、そのイエスの名によって神のことばを語り、祈って悪霊に憑かれた人を悪霊から解放し、愛の働きとして奇蹟を行なったに違いありません。この人は正しい信仰を持ち、正しい行いをし、その生涯は奉仕の生涯に見えたかもしれません。
にもかかわらず、この人は主イエス・キリストからこう言われます。〈わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け〉。
自称信者・自称奉仕者・自称預言者にイエス・キリストは〈全く知らない〉〈わたしから離れて行け〉と言われるのは、この偽者が〈不法を行う者たち〉だったからです。〈不法〉と訳されていることばは「外側に表われたふるまいより、内側の心の状態に言及したことばである」と言われています。
7:15-20から見れば、信仰者には正しい信仰告白(教理)や正しい生活の実を結ぶことが強調されていると思うでしょう。しかし21-23節を読むと、その正しい信仰告白や奉仕の生活も救われるためには確実ではなかった印象があります。21節のキリストのことばによれば〈天におられるわたしの父のみこころを行う者が入る〉と言われています。神のことばを語ることも、人々をサタンから解放することも、奇蹟によって大勢の人たちを祝福することも、神の御心を行なっているとは限らないというのでしょうか。それこそ狭い門を通って辿る細い道のようであります(7:13-14)。
もちろん私たちは勘違いをしやすい者であります。主なる神であるキリストのために、自分を献げ、すべてを捨てて奉仕をしている。その強い自覚で人生を歩みながら、キリストから〈わたしはおまえたちを全く知らない〉と言われたらどうでしょうか。こんな悲しいことはなく、悔しい人生は他にないのではないでしょうか。
ですから常日頃から、私たちは自分の心や生活を点検する必要があるのです。箴言4:23に〈何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く〉と書いてあるとおりです。また信仰者は出処進退を誤るべきではありません。信仰者の耳は〈うしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことば〉を聞くからです(イザヤ30:21)。
(裁かれたキリスト)
最後に、この箇所でユニークなコメントがあるので紹介したいと思います。イエス・キリストは、ある意味、ユダヤの偽預言者たちに十字架の上で殺されました。ユダヤ人の指導者たちは、自分たちが神の御心を行なっていると信じて、救い主を死に定めました。そのことで彼らが偽預言者であることが明らかになりました。
しかしある人(加藤常昭)は、こんなことを言っています。イエスが木にかけられた十字架の事件は、世の終りを先取りしているような事件である、と。彼の文章を、以下、そのまま引用します。《しかし、そこでは「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」としりぞけられたのは、にせ預言者たちではありませんでした。不法を働く者としてしりぞけられたのは主イエスご自身であります。主イエスは、十字架において「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。父なる神に向かって、あなたは、なぜわたしのことなどは知らないと言われるのですか、と問われたのです。そこで、不法を働く者に対する神のさばきが、どんなに恐しいものであるか、ということが明らかになっています。ほんものの預言者であるイエスが、にせ預言者としてさばかれ、その恐るべきさばきを体験しておられます》。
私たちが偽預言者として裁かれないために、主イエスは私たちが立つべきところに身を置いてくださった。主イエスが神によって突き放され、その突き放される悲しみの中に立っていてくださる、ということも、この説教者は述べています。
私は子どものとき、小学校一年生でしたが、学校が終わると毎日通っていた友だちの家がありました。遊ぶことの下手な子どもの私は、放課後、彼の家に行って彼と遊ぶのだけが楽しみでした。でもある日、私は「毎日来るな」と言われます。傷ついて、それから彼の家に行くことはありませんでした。私はいまでも「お前なんか知らない」と言われることを恐れながら生きているのかもしれません。
しかし私たちの救い主は、偽預言者たちから〈不法を行う者たち〉と言われ、十字架の死に至ります。ユダヤの指導者たちこそ〈不法を行う者たち〉で偽預言者なのに、主のほうが偽預言者にされるのです。7:20〈こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです〉。
実に、キリストの十字架は、私たちにとって慰めであり裁きです。私たちがまことに良い実を結ぶ者になるためには、駄目で腐った木である私たちが、キリストの贖い(十字架)によって良い木にしていただいて、その木が天から受ける養分によって良い実を結べる者にしていただくほかないのではないでしょうか。私たちは偽預言者に欺かれてもいけませんが、私たちが偽預言者になって自分を欺く者になってもいけないのです。
「神様。うぬぼれや高慢から守ってください。キリストの恵みによって良い木にしていただいたことを信じて実を結ばせてください。主の尊いお名前で。アーメン」。
