2026年8月16日礼拝説教「本物ですか、偽物ですか」マタイ7:15~23 [1]

本物ですか、偽物ですか マタイ7:15-23 [1]

 皆さん、私の名前をご存じと思いますが、キモリタカシです。この教会が所属している宗教法人(団体)は日本バプテスト教会連合といいまして教会数は50を超えたくらいです。そんなに大きな団体ではない。教会数が50ですから、牧師などをしている教職者も50人くらいです。

 そのたった50人の中に私の偽物がいます。イモリタカシといいます。あの自動車で有名な愛知県豊田市の牧師です。ほんとのことをいうと漢字二つでタカシと読まないでリュウジと読むらしいのですが、私のタカシの漢字と同じ漢字を使っています。キモリ先生ではなくイモリ先生です。

 同じくらいの歳なので「お互いに相手のことを偽者と言い合いましょう」と言っているのですが、あまり評判になりません。それほど仲間内で注目されていないのか、イモリとキモリの違いなんて、たいしたことではないのかもしれません。

 本日は〈偽預言者たちに用心しなさい〉ということばで始まる聖句です。〈偽預言者〉とは偽の預言者。預言者の偽物です。ダイヤモンドも水戸黄門も偽物がなぜ現れるかといえば、本物が尊いから、値打ちがあるからだ、と気がつきました。キリスト教の歴史は、考えようによっては偽の信仰者との戦いの歴史と言い得るかもしれません。それはキリストの信仰が価値ある本物だからです。

 祈りましょう。「神様、私たちは何度欺かれてきたでしょうか。霊的には悪魔とかサタンということになるでしょうが〈肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢〉(Ⅰヨハネ2:16)が刺激されて、私たちは〈偽りの行動に引き込まれ〉ることがあるのです(ガラテヤ2:13)。どうか私たちを守ってください。聖霊に導かれて聖書の真理が本日も交わりのなかで明らかにされますように。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。

(偽預言者を巡って)

 〈偽預言者〉といえば参照すべき聖句がいくつかあります。

 Ⅱペテロ2:1はそのひとつです。〈しかし、御民の中には偽預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れます。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むようになります。自分たちを買い取ってくださった主さえも否定し、自分たちの身に速やかな滅びを招くのです〉。

 預言者というと旧約聖書の時代の働き人という印象です。モーセに始まり、サムエル、ナタン、エリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル。ホセアやアモス、ヨナのようなユニークなエピソードをもった働き人もいます。そして〈律法と預言者はヨハネまでです〉(ルカ16:16)とあるので、バプテスマのヨハネまでを旧約時代の預言者と見做す人もいます。いずれも神のことばを受けとって語るのが務めです。

 ペンテコステの日に始まった最初の教会には、預言者という役職がありました(使徒11:27、21:9、エペソ4:11)。しかし使徒職と共に預言者職も、その使命を終えました。預言者が教会にいないので偽預言者も現れません。しかし神のことばを教える教師の働きは続いたので、偽教師が現れました。

 偽教師であれ、偽預言者であれ、神のことばの働き人の偽者でした。もっと言えば、偽預言者と共に偽キリストも現れました(マタイ24:24)。世の中には神秘的なことが好きな人がいますが、使徒ヨハネは手紙のなかでこう言っています。〈愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい〉(Ⅰヨハネ4:1)。

 私たちは、教会のなかのことばを吟味する責任があります。とくに講壇から語る説教です。私は、なるだけ分かりやすく、できれば愉快な気持ちで聴いていただきたいと思いますが、楽しく分かりやすくすることで、聖書の真理を曲げたり、伝え損ねたりしたら災いだと思っています。

 先ほど読んだⅠヨハネの続きには〈神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。4:3 イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です〉(Ⅰヨハネ4:2-3a)とあります。

 私たちの信仰は、健全な教理に裏打ちされていなければなりません。〈人となって来られたイエス・キリスト〉とは、十字架にかかって死んだ救い主は、神が人となられた方である、ということです。キリストの受肉と受難は共に立つのです。

 また4:6にはこうあります。〈私たちは神から出た者です。神を知っている者は私たちの言うことを聞き、神から出ていない者は私たちの言うことを聞きません。それによって私たちは、真理の霊と偽りの霊を見分けます〉(Ⅰヨハネ4:6)。

 これは教会が認めるかどうかで霊の真偽が分かるというものです。ただこの場合の教会は、教会が真の意味で〈神から出た者〉の集まりであるかどうか。教会は、まことにキリストの十字架の救いを信じる、新しく生まれた者たちの共同体である必要があります。真理の霊とは、みことばの真理に立って、教会の権威に服します。

 Ⅰヨハネで教えられているのは、偽預言者を見分けるためには、健全な教理と、それ支持する教会(すなわち信仰共同体)の判断がポイントだということです。

 またもうひとつ聖書を開きたいと思います。旧約聖書の申命記18:21-22です。申命記18:21〈あなたが心の中で、「私たちは【主】が語られたのではないことばを、どのようにして知ることができるだろうか」と言うような場合、18:22 預言者が【主】の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは【主】が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼におびえることはない〉。

 旧約時代の預言者であれ、新約時代の預言者や教師であれ、そしてキリストであるかどうかも含めて大切なポイントです。預言者と名乗り、本人がそのつもりになって、神の名によって語っても〈そのことが起こらず、実現しないなら、それは【主】が語られたことばではない〉というのです。

 とくに現代は、インターネットで世界中の説教者の説教も聞けるし、神学の学びをすることもできます。なかには扇情的で一貫性のない乗りだけの「預言」や「議論」をする者もあります。

 それがほんとうかどうかは、それが実際に実現するか(現実となるか)どうかです。見かけや雰囲気で判断してはなりません。それどころか、何と〈【主】の名によって〉語っても、それが決め手になるわけではありません。健全な信仰とはrealismです。

 もちろんそのことばが正しかったか、間違っていたか。実現が、相当、先にならないと分からないこともあります。ですから〈見ないで信じる人たちは幸いです〉(ヨハネ20:29)という主のことばもあるのです。しかし真実は歴史が証明する(時間が明らかにする)と言っていいのです。

(偽預言者の見分け方)

 以上、聖書の他の箇所にも偽預言者への警告があることを見てきました。加えて、偽預言者の見分け方について記されていました。健全な教理の告白、真正な教会の権威、さらにその預言が実現するか(成就するか)といった視点です。

 それらを抑えた上で、今朝開いております主イエスの聖句を読んでいきましょう。マタイ7:15-20〈偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。7:16 あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。7:17 良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。7:18 良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。7:19 良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。7:20 こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです〉。

 神のことばが尊いゆえに、まことの預言者だけでなく、偽物の預言者も現れるわけですが、まず見かけに騙されてはいけません。〈彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来る〉と書いてあります。さらに〈内側は貪欲な狼〉なのですから危険きわまりないのです。

 主は〈あなたがたは彼らを実によって見分けることになります〉と言われました。16節から18節までは、読めば分かるほどの説明です。先ほど言いましたように、どんなに話が巧みでも、神が語っておられないことを語る教師は偽教師です。そういう意味では〈実〉とは話の内容ということができるかもしれません。

 また偽教師のなかには語っている教えが正統か異端か区別がつかないようなものもあるのです。その場合、決め手となる〈実〉とは何でしょうか。その教師の行動や生活かもしれません。立派なことを語りながら、その行いに裏表があったり、生活が乱れていたらどうでしょうか。

 昔、韓国人の巡回伝道者からこんなお話を聞きました。ひとりの牧師が自分の教会の礼拝で説教をしていました。牧師はいつものように講壇で聖書から語っていましたが、牧師夫人が(昔だったら鍋や釜でしょうか)家財道具をもって、講壇の近くに上がってきました。牧師も会衆もびっくりです。「ヨボ、あなたはなぜこんなことをするの。聖書の説教ができないよ」。夫人は答えました。「講壇でお話ししているあなたは、家にいるときと違って、ほんとうに正しくてすてき。だから私は今日から説教壇の近くに住みます」。今、私の妻が、同じようなことをしないので、ほっとしています。

 偽教師の見分け方。ほんとうに分かりません。教祖の私生活は、下々の者に簡単に分かるはずもありません。やはりどうでしょうか。社会的にどんな貢献をしているか、とか、その教会が成長しているか、とか、その人の学問的な高さ、とかでしょうか。あるいは奇跡を行なう力でしょうか。

 指導者とは、たえず自分を吟味する必要がある者です。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ではありませんが、神様に用いられる秘訣は「一に謙遜、二に謙遜、三、四がなくて五に謙遜」に決まっています。しかし謙遜を装うことも、人はできるのです。〈実〉によって見分けたいのですが、そう簡単には分からないこともあります。

 また、ある時期、その教師は正しく謙遜であったけれど、時を経るに従って傲慢になって堕落していた、ということもあります。人の評価というのは功罪半ばすることもあります。その人の評価はその人が棺桶に入るまでほんとうはわからないかもしれません。 しかし、それでも主は私たちに〈偽預言者たちに用心しなさい〉と言われているのです。世の中にはカルト宗教に騙されて、貴重な時間やお金や信用を失う人たちがあります。そのなかには「青春を返せ」という裁判を起こした人たちもいます。

 〈実〉とは、その木のアイデンティティであり、またクライマックスでありますから、分かるときには分かると言えるのかもしれません。

 主は19節で〈良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます〉と言われました。この言い方は世の終りの裁きの比喩かもしれません。この世の終りにならないと、その正体が分からない人もあるのでしょう。

(偽預言者にもならないで)

 主は続けて恐ろしいことを語られました。7:21-23〈わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。7:22 その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』7:23 しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』〉。

 ここで位相が変わります。自分たちが偽預言者に騙されないだけでなく、自らが偽預言者になってはならないということを意識するのです。次回も、私たちは同じ箇所から学びます。私たちは本物でありたい。本物のキリスト者でありたいと思います。

 説教のあとに「主はまことのぶどうの木です」という歌を賛美します。人が結ぶ実の善し悪しは分からなくても、私たちは自分がキリストに繋がっているか、そして多くの実を結んでいるか、そうでないかは分かるのです。また今は結んでいないように見えても、明日大きな実りがあることを信じて、今日も種を蒔きたいと願います。

 聖書のなかには〈この希望は失望に終わることがありません〉(ローマ5:5a)ということばがあります。信仰とは〈あなたがたのうちにある希望〉(Ⅰペテロ3:15)でもあります。そしてどうして〈この希望は失望に終わることがありません〉と言えるのか。

 それは〈なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです〉(ローマ5:5b)と続くのです。聖霊による神の愛の注ぎ込み、それを私たちは受けております。この聖霊による祝福、神の愛の注ぎを、私たちは大切にして〈実〉を見分け、また〈木〉を見分けていきましょう。次週、続けて学びます。

 「愛する神。私たちの学びを助けてください。主の教えから離れないように導いてください。私たちは迷いのなかにある羊でしたが、まことの羊飼いに見出されました。偽りの教師や預言者に誘われませんように。主の御名で祈ります。アーメン」。