狭い門を見つけ、細い道を歩け マタイ7:13-14
ある男が自分のネクタイを買うために店に入りました。店にはたくさんのネクタイが飾ってあります。「どういうネクタイをお求めでしょうか」。店員が尋ねます。男は買い慣れていないらしく、要領を得ない答えでした。しかし店員はセールスの達人でした。
色の違う二つのネクタイをとって「どちらがお好みですか」と訊きました。ひとつのネクタイを男が指差すと、店員はそれを残して、選ばれなかったネクタイを片付けます。そして別のネクタイを取り出して、指差したネクタイと比べて「今度はどちらがお好みですか」と訊きます。
男は、それでまた、二つのネクタイのうちのどれかを指差します。さらに店員は、選んだネクタイと新しいネクタイを見せて選んでもらいます。二つのうちから客が選んだネクタイは残り、次の新しいネクタイと勝負です。まるでネクタイの勝ち抜き戦です。これは、店員が遊んでいるのではありません。これは、お客さんが買いたくなるような、ほんとうの好みに辿り着かせようと、店員が選ばせていったということです。
右か左か、黒か白か、二つのもののなかで選ぶというのは、選ぶほうに大きな決断を迫ります。複数の選択肢からひとつを選ぶことは、他を捨てたり諦めることが伴いますから、ただひとつ選ぶことよりも覚悟が求められます。
本日の聖句は「二つのものから選びなさい」と主イエスが言っておられるようです。今日の箇所から山上の説教は結論部分に入っていきます。そして本日の二つの門だけでなく、15-23節には実によって見分ける二つの木の話。そして土台が違う二つの家の話が出てきます。ただひとつのものをよいと思って手を伸ばすこと以上に、二つのものを選ぶことは緊張感が違います。
実は、本日の聖句の並行箇所であるルカ13:23-24は、救われる人は少ないのかという疑問に対して、主イエスが〈狭い門から入るように努めなさい〉と答えている箇所です。つまり並行箇所であるルカには、滅びに至る広い門のような比較する存在は言われてなくて、救われようとする人の心がけのみが語られたわけです。
もちろん救いは、私たちがキリストを選んだというよりも、キリストが私たちを救いに選んでくださったというのが本筋ですが(ヨハネ15:16)、マタイの福音書に記されたこの山上の説教では、狭い門だけでなく〈滅びに至る大きな門〉が出てきます。二つの門があるうちの〈狭い門〉を選んだということで、他のものではない、イエス・キリストによって生きる覚悟がより強調されています。私たちは広い門を捨てたのです。
途中ですが、一言祈りましょう。「愛する神、私たちはどこにいるのでしょうか。あなたの大きな摂理の御手を覚えつつも、私たちは決断ができなくて迷うことの連続です。私たちの信仰の初めと現在と将来を今日の御言からも学ばせてください。私たちに地上の人生を教えてくださるイエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。
(二つの門)
先ほども並行箇所のルカ13:24の話をしました。〈狭い門から入るように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです〉とあります。ルカでは「手遅れにならないうちに狭い門から入る」ことが強調されています。
しかし、私たちの山上の説教では「狭い門を見つけて入る」ことが強調されています。今日の聖句には〈狭い門から入りなさい。…。そして、それを見出す者はわずかです〉と書いてあります。〈狭い門〉は見つけにくい門のようです。少数の人しか見つけていない。しかも見つけた人は、皆が皆、その〈狭い門〉をくぐったのでしょうか。
門とは何でしょうか。門とは、あるところから出るために通らなければならない場所です。また、あるところへ入るために通らなければならない場所でもあります。
そしてここでは〈狭い門〉と言われています。これはフランスのノーベル賞作家アンドレ・ジッドの有名な小説の題名であります。たぶんこの小説によって日本では「狭い門」ということばがよく知られるようになり、倍率が高くて入学試験の難しい高校や大学、入社試験が難しい企業などが「狭い門」と呼ばれるようになったのでしょう。
しかし難関高校、難関大学、難関企業は「狭い門」と呼ばれても、主イエスが言われた〈狭い門〉とは大いに違います。入学や入社の試験はどんなに難しくても、その関門をくぐれば、学歴や収入で誇ることができます。成功者になるためのエリートコースが待っているので、多くの人はこうした難関に挑戦するのではないでしょうか。
主イエスの語った〈狭い門〉は、どうでしょうか。その道の最後には〈いのちに至る〉のですが、しかし〈狭い門〉をくぐった後の道は〈細い〉のです。細い道とは、車でいえば簡単に脱輪するような、気をつけなければならない道です。細い道ですから〈狭い門〉同様、多くの人が目に留めることのない道です。
そしてあまりにも単純かもしれませんが、主イエスはご自分のことを門にたとえたことがあります。ヨハネ10:7、10:9〈まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。10:9わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます〉。
主イエスは、父なる神がそうであったように、ご自分を羊飼いにもたとえましたが、〈羊たちの門〉にもたとえました。羊たちが出入りする牧場の門です。〈わたしを通って入るなら救われます〉とも言われました。牧場の門をくぐることができていれば、その羊はもはや迷子の羊ではないのです。
そのように〈狭い門〉とはイエス・キリストのことと考えられないでしょうか。イエス・キリストを信じるとは、文字通りイエス・キリストに入門することではないでしょうか。信仰の始まりがあり、それゆえに救いの始まりがありますが、そのシンボルは主イエスの名によってバプテスマを受けることです。
イエス・キリストは救いのための門です。イエス・キリストなしに、罪の赦しと重荷からの解放はありません。イエス・キリストに信頼して、私たちは悪魔の支配から自由になり、神の御心に喜んで服する神の子となります。そして私たちが神の子となった徴として、キリストの御霊をいただき、神を〈アバ、父〉と叫ぶようになります(ローマ8:15)。そして御霊を得たのですから、私たちは永遠のいのちの救いを得たのです。
〈狭い門〉とはイエス・キリストのことです。〈狭い門〉を〈見出す者はわずか〉です。たしかにそうです。世界には、キリストであるイエスのお名前を聞いたことのない人たちがいます。とくに日本人はsecond unreached peopleです。
さらにイエス・キリストの名前を聞いていても個人的にイエスを自分の救い主と信じていない人も多いのです。これは、キリスト教の歴史がある国でも、リバイバルで信者が増加した国でも、起こり得るし、起こっている課題です。文化やムードや特権としてキリスト教信仰を認めていても、自分の個人的な救い主(魂の救い主)としてイエスを未だ受け入れていない人は世界中のどこにてもいるのです。
ここに、私たちが全世界に出て行って、あらゆる民族や文化集団に福音を伝える理由があります。人間の心には一種のバイアスがかかっています。そのことをパウロは次のように言っています。〈生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません〉(Ⅰコリント2:14)。これは悲しいが事実であって、神を求めて教会に来る人数もそうですが、イエスをキリストであると〈見出す者はわずか(まれ)〉なのです。
実は細い〈道〉もそうなのですが、〈狭い門〉も〈見出す者はわずか〉なので、私たちは伝道する必要があるのです。イエスの名を宣べ伝え、そのイエスがそれぞれにとって救い主であることを広め、その道(生き様)において証しすることが大切なのです。
(二つの道)
イエス・キリストは言われました。〈狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです〉。イエス・キリストの救いの門ではない門は大きいとあります。それだけではなく〈その道は広く〉と書いてあります。
たしかに道は広いほうがいいと思います。大勢の人たちが歩けます。二列にも三列にも並んで歩けるので、威勢よく行進だってできるでしょう。この人も、あの人もいるということで安心かもしれません。広い道には旅する人の便宜を図る茶店や食堂やコンビニエンスストアもあるかもしれません。
しかし、その道は〈滅びに至る〉ので危険な道に違いありません。進路変更といいますか。大急ぎで〈狭い門〉を探して、そこから〈細い道〉を辿るべきです。大きな門をくぐって広い道を歩んでいた人は、どこまで引き返せばいいのでしょうか。私たちはどんな償いをして、クリスチャンになったのでしょうか。
何と広い道を歩いているひとりの人は気づいたのです。自分が歩いている大通りのなかに〈細い道〉があって、そこを自分の十字架を背負いながら歩いている人がいるのです。そしてその〈細い道〉のほんの少し先には〈狭い門〉がありました。
私たちは大きな門とは別に〈狭い門〉があると考えやすいのですが、〈狭い門〉は何と大きな門の先の広い道の上にぽつんと、しかし目立たずにありました。私たちは最初から人生という大門をくぐり、先は滅びでしかない大通りを歩いておりました。しかしイエス・キリストという〈狭い門〉は、私たちひとりひとりの歩みの只中に〈わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます〉と語ってくださるのです。
そして私たちはこの〈狭い門〉をくぐって〈細い道〉を歩きます。広い大通りのなかに〈細い道〉も重なっているのです。広い大通りを歩く人の目には〈細い道〉を歩く人は自分と同じ大通りを歩いているように見えます。ただ〈細い道〉を歩く人がどうして生真面目にまっすぐ歩き続けるのか、その理由が分かりません。
また〈細い道〉を歩く人は、広い大通りを歩き続ける人たちを複雑な目で見ています。この世界で同じように歩きながら、〈細い道〉を歩く人は、自分の道がすでに他の人たちの道と異なっていることを知っています。なぜなら自分が〈狭い門〉をくぐっただけではなく、〈狭い門〉に続く〈細い道〉も自分の十字架を背負って歩いているからです。
主イエスはご自分を〈門です〉と言われただけではありません。主イエスはご自分を〈道である〉と言われたのです。〈わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません〉(ヨハネ14:6)と言われたのです。クリスチャンの歩みは父なる神に近づいているのです。
(二つの結果)
人は最初から滅びに向かう大きな門を通っているのですが、小さな狭い門であるイエス・キリストにかがむことによって、滅びではなくいのちに向かうことができるのです。
大きな広い門と小さな狭い門、それはアダムの門とキリストの門です。キリストの門を見出し、否、神の聖霊によってその門を教えていただいて、くぐり抜ける必要があります。ある人(ロイドジョーンズ)はこの〈狭い門〉を回転ドアにたとえました。回転ドアは複数の人が一度に入ることはできません。だれかといっしょではなく、ひとりひとりが扉を通ろうとしなければなりません。
さらに回転ドアを通ろうとする者は、大きな荷物を持ったままでは通ることができません。せめては荷物の持ち方を変えなければ入れません。だれでもクリスチャンになりたいと思ったら、これからの信仰の人生に自分の所有は有益なものかどうかを吟味する必要があります。〈羊たちの門〉をくぐる前に捨てなければならないものもあるかもしれません。また持ち続けるのだけれど、新たな視点で持ち続ける決心を要するかもしれません。クリスチャンになるということは〈狭い門から入る〉という栄誉なのです。
なぜ信仰者は、神の物差し(御心という基準)で、狭い門から入り、細い困難な道を歩くのでしょうか。それは結末が違うからです。地上においても訓練され、多くは成長しますが、最終的には〈いのちに至る〉のです。この〈いのち〉は地上のいのちのことではありません。神がくださる霊のいのち、人の魂を生き返らせる永遠のいのちです。
それに対して〈細い道〉を歩くことを嫌い〈狭い門から入る〉ことを拒んだ魂は、広い道を歩き続け〈滅び〉へと至るのです。〈狭い門〉のいのちが永遠のいのちのことですから、大きな門と広い道の終着点は永遠の〈滅び〉、神の裁きにほかなりません。
私は今回も、薄氷を踏むような、あるいは綱渡りをするような、危ういところで、皆さんの前で語る説教の準備をしています。賞められたことではなく、もっと情緒が安定していて、恐怖を感じないで集中できたらと思います。親がよくない親であったことを嘆く親ガチャということばがあります。私は親ガチャではなく自分ガチャです。
しかし一方で、私には分かるのです。私はたしかに50年前、聖霊に導かれてキリストの門をくぐったのです。そして信仰者の細い道を、聖霊に続けて導かれ、歩ませていただいています。そして、このまま最期まで。我が人生に悔いなしと言えそうです。
主イエスは、私たちに救いを用意し、救われた者としての人生を導き、全うさせてくださいます。狭い門から入り細い道を終りまで、共に歩いてまいりましょう。
「旅路を導いてくださる天の父なる神様。私たちを信仰に招いてくださり、ありがとうございます。私たちは初心を忘れやすく、一喜一憂の繰り返しで、信者として滑りかけることもあります。しかしあなたは、私たちに患難と共に聖霊を与えてくださいます。聖霊は私たちに信仰・希望・愛をもたらします。あなたを見出す者が希ですから、私たちをいよいよ宣教(証)に用いてください。イエス・キリストのお名前で。アーメン」。
