2026年10月25日主日礼拝「救いとバプテスマの関係」Ⅱコリント5:17

救いとバプテスマの関係   Ⅱコリント5:17

 本日は、O兄の入会式もありますが、S兄のバプテスマ式も行われます。それで本日は、バプテスマとは何かについて語ろうと思います。そして私はだいたいバプテスマというとローマ人への手紙(6:3-5)から語っていますが、本日は違う角度からバプテスマについて語ろうと思っています。

ⅰ)本人に救いの信仰がなければバプテスマを施すべきではない

 バプテスマは名詞です。洗礼と訳されることも多いですが、本来は洗うのではなく、水の中に浸すことなので、浸礼と訳すほうが正しいと思います。

 よく誤解されるのですが、バプテスマを受けて救われるのではありません。バプテスマを受けて(その人が)救われるのではなく、救われた人がバプテスマを受けるのです。父・子・聖霊の三位一体の神の名前がたとえそのとき用いられたとしても、聖霊による信仰が宿っていない人にバプテスマを施しても救いは生じません。

 聖霊による信仰とは何でしょうか。それはイエスを主と告白する信仰です。ただ口先で言うのではなく、心底「イエスは主です」と口に出して言うのは、聖霊によらなければ起き得ない現象です(Ⅰコリント12:3)。

 別の言い方をしましょう。世の中には、まだ救われていないのに、水のバプテスマを受けて自分がクリスチャンだと思いこんでしまう現実が存在します。先週、私は、神学校を卒業してから12年間奉仕させていただいた和歌山県の教会を訪ねました。勝浦市野々バプテスト教会という、私たちと同じ日本バプテスト教会連合の教会です。

 キリスト教の別の教派には、本人に未だ信仰が宿っていなくてもバプテスマを授けていいと考える教派が存在しますが、バプテストはそうではありません。believer’s baptismということばがありますが、本人に救いの信仰が宿っていて初めてバプテスマが執行されます。しかし私が最初にその教会に赴任したときには、たましいの救いに与っていると全く思えないのに、バプテスマを受けて教会員になったばかりの人がいました。

 救いをいただいて、バプテスマも受けたけれど、信仰が弱くなって教会生活がなくなってしまう人がいます。しかしその人も信仰がリバイブすることもあるでしょう。

 そうではなく、教会が、新生(すなわち新しく生まれること)をしていない人に、バプテスマを施してしまうことがあります。もちろんその後、神の大きな恵みによって、本人にまことの信仰が宿るときがあります。しかし順番が逆になっていることは確かなのです。

 バプテスマによって救いが生じるのではなく、救いに与った人が信仰の告白と証のためにバプテスマを受けるのです。赤ん坊が生まれたから出生届を出すのであって、出生届を出すことによって赤ん坊が生まれるわけではないのです。

ⅱ)新しく生まれるとは何か

 それでは救いの信仰について考えてみたいと思います。

 本日の箇所であるⅡコリント5:17は、何と言っているでしょうか。〈ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました〉。

 ここには〈新しく造られた者〉と書いてあります。〈新しく造られた者〉とは創造の新しいみわざであり、新しく生まれた者でもあります。神は、母の胎内で新生児となる私たちひとりひとりの内蔵を造り、パーツを組み立ててくださいました(詩篇139:13)。そのように〈新しく造られた者〉とは、新しく生まれた者であります。

 そして〈新しく造られた者〉とは〈キリストのうちにある〉者です。どうすれば人間(私たち)は〈キリストのうちにある〉ことができるでしょうか。それは、私たちが、キリストを信じること以外にありません。それも私たちは、正しくキリストを信じることを求められています。

 本日のもうひとつの聖句として私はヨハネ6:56を示されております。ヨハネ 6:56〈わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります〉。この聖句は何を意味するでありましょうか。私のなかで、この聖句は鬼門のような箇所ですが、主イエスがここで何を含んだか、よく考えてみたいのです。救われるための信仰とは何かを考えます。

 第一に救われるための信仰とは、イエス・キリストを信じる信仰です。イエスの教えや行いもすばらしいのですが、とにかくこの信仰は主イエスというお方にフォーカスを当てる信仰です。主イエスは父なる神が送った〈ひとり子の神〉(ヨハネ1:18)です。

 第二に救われるための信仰とは、イエス・キリストの十字架、その救いを信じる信仰です。主は、多くの人に悔い改めたら救われると説きました。私たちの行いではなく、神の恵みによって救われます。そして私たちを救うほどの最大の恵みは、イエス・キリストの十字架です。

 イエス・キリストは、人々のねたみや憎悪の対象となって、罪もないのに十字架で磔になりました。この十字架によって、主イエスは、苦しみながら死んでいきます。

 それは、私たちすべてのあらゆる罪の身代わりの死でした。主は私たちの救いのために十字架でいのちを投げ出してくださいました。主の死は、本来、私たちが受けるべき裁きでした。私たちは、主によっていのちを与えられたも同然です。いえ、聖書はたしかに〈キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました〉と証言しているのです(Ⅰヨハネ3:16a)。

 第三に救われるための信仰とは、私たちが自らの罪を認めて、神に悔い改めをすることです。生活の改善のために、反省をする人は多いかもしれません。「ああ失敗をした」と言って、悩んで後悔する人もいるでしょう。しかし聖書で言う悔い改めとは〈神に対する悔い改め〉(使徒20:21)です。

 実に、すべての罪という罪は、神に対する罪です。神を冒涜することはもちろんですが、ことばや行いで人を傷つけることも、和解すべきなのに和解しようとしないことも、他者に対する罪ですが、神の尊厳を傷つける罪です。また人が心のなかで悪い考えに支配されることも、神の栄光を汚す罪です。自分の内心における罪も、神の前には罪です。

 人は罪を正しく認識しなければなりません。というより私たち人間は、主イエス・キリストの十字架を見ることで初めて、自分たちの罪の大きさ・深さ・不可逆性を知ることになります。

 私たちは、いのちに満ちていたキリストの肉体を思うだけでなく、罪のために流されたキリストの血潮についても、思い巡らすことが大切です。そのようにして、私たちは正しくキリストの十字架の価値を知ることができます。

 第四に救われるための信仰というのは、主イエス・キリストを心に迎える信仰です。

 先ほど開きました聖句には〈わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は〉と書いてありました。ここからすでに、私はキリスト教信仰にとって要であり中心となる十字架信仰について語っています。〈わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む〉とは、ナザレのイエスはあの十字架の上で、いのちが屠られ、血を流されたお方を信じることです。

 そしてどのように信じるかといえば〈食べ〉〈飲む〉と飲食で表現されています。キリストと同時代に生きた人たちも、カニバリズムを行なったわけでは、もちろんありません。しかしキリストを信じるとは、頭で信じるのではなく心で信じることです(ローマ10:10)。そして心で信じるとは、イエス・キリストを今も生きておられる方として、自分の心に(魂に)お迎えすることです。

 イエス・キリストを心にお迎えすることを、ヨハネ6:56では飲食(飲み食いの行為)で表現されています。しかし別の表現もあります。黙示録3:20を開きます。〈見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする〉。信仰は神の選びでもありますから、主イエスのほうがまず、私たちの心に入ろうと願い、ノックします。そのノックは、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかってくださったという神の愛の福音に違いありません。

 私たちは戸を開くのです。それはイエス・キリストを心のなかにお迎えすることです。するとどうなるでしょう。〈わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする〉。神であるイエス・キリストとの親しい交わりが始まります。イエス・キリストが、信じる私たちひとりひとりの心に宿るのです。

 神である大きなイエス様が、小さな私たちの心(信者ひとりひとりの魂)に宿ります。しかしそれは同時に私たちの存在そのものが、大きなイエス様のなかに入ることでもあります。私はそれを〈キリストのうちにある〉ことだと思っております。

 長い説明をしましたが、これが大切なことだからです。Ⅱコリント5:17をもう一度読みます。〈ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました〉。

ⅲ)バプテスマはしるし

 以上のように、私は、魂の救い(新しく生まれること)について説明をしました。神が、私たちを、救いに選んでくださいました。この救いは、イエス・キリストがそれぞれの心に住んでくださって実現します。そして同時に、私たちはキリストのなかに生きることになります。これを私たちはどう説明したらいいでしょうか。

 それは魚が大きな海のなかで生きるようなものです。魚のなかに海の水が入り込んでいます。同時に、魚は大きな海のなかにいます。私たちひとりひとりは十字架の福音を信じたときに、キリストのからだという大きな海のなかに住むようになったのです。

 それは確実なものですが、目に見えない救いです。そしてバプテスマとは、この見えない救いを、見えるかたちで象徴しています。水のバプテスマは、キリストの霊を宿す、いのちの救いを、見えるかたちで現わします。

 ローマ人への手紙6:3-5を参考にしていますが、バプテスマは少なくとも3つの儀式に似ています。第一は、キリストにつくキリストとの婚約式です。世の終りの日に私たちはキリストと完全に一つになります。悪魔につくのでもなく、罪の奴隷でもなく、肉に従うのでもなく、キリストであるイエスについて、神の御心に従います。

 第二に、バプテスマは悔い改める前の古い自分の葬式です。キリストを心から信じるまでは、私たちは、悪魔の支配下で、生まれながらの罪の性質(肉)に従う、罪の習慣の奴隷でしたが、それは神に悔い改めてキリストを信じたときに変わりました。言い換えると、神を認めない古い自分は死んだのです。

 皆さん、人が死んだら何をしますか。死を認知し公のものとするために葬式(告別式)を行います。古い自分が死んだことの所作として、司式者はバプテスマ志願者を水のなかに浸して、神を信じる前の古い自分が死んだことを表わします。

 30年くらい前に、先週私たち夫婦が訪ねました勝浦市野々教会でひとりの女性のバプテスマを行いました。私がその姉妹の全身を水のなかに沈めましたが、彼女はなかなか水から顔を出しませんでした。漁師の娘さんだから肺活量が大きかったのかもしれませんが、ようやく顔と半身を水の上に現わしました。訊きました。「どうして水から出てこなかったのですか」。「出てくるのですか」。バプテスマは古い自分の葬式だけではありません。古い自分は死にますが、新しい自分が生まれます。

 第三に、バプテスマは赤ちゃんが生まれた誕生のお祝いに似ています。これはもう説明する必要はないでしょう。

 バプテスマは、見えない救いの、見えるかたちです。婚約をして婚約指輪。死亡をして死亡証明書。誕生をして出生証明書。運転ができるようになって運転免許証。そのように信仰による救いに対応するかたちとして、バプテスマは証しの意味があります。

 先週、かつての奉仕教会で多くの方と旧交を温めましたが、ひとりの姉妹は現在70代ですが、自分の生まれ育った家の近くに教会学校があって、たぶん中学生のときにバプテスマを受けたのです。あの時代のあの地域には珍しいことではなかったと思いますが、彼女は進学しないで上京し、金持ちの家のお手伝いさん(女中)になりました。

 10代の後半で和歌山の田舎から誘惑の多い東京に行き、教会に通うこともなくなりました。実際に年頃の娘さんらしい誘惑もあったようです。しかし彼女は守られたのだそうです。教会生活もなくなり、信仰も怪しくなっていたけれど「私はバプテスマを受けた(受けている)」という意識が自分を誘惑から守ったというのです。

 やがて彼女は勝浦市野々教会の初代の牧師からの手紙で励まされて、故郷に帰り、信仰生活(教会生活)が復活します。40年前、私が神学校を卒業して紀伊半島の勝浦市野々教会に赴任したとき、彼女は教会を支えるひとり、会計担当の役員でした。信仰の実体があってこそ告白としてのバプテスマの意味があるのですが、私たちは信仰のスランプや危機や躓きもあるでしょう。しかしそんなとき、見えない救いの、見えるしるしであるバプテスマが意味を持つようになるのです。

 今日はO兄の入会式もありますが、S兄のバプテスマ式もあります。どうぞ二人の兄弟に祝福があるように祈りましょう。また、立ち会う皆さんすべてにイエス・キリストの名によって恵みと平安がありますように。アーメン。