2026年10月18日(講師:小川光先生)「聖霊が召した働き」使徒の働き13:1~3

聖霊が召した働き 使徒の働き13:1~3    連合青年宣教主事 小川光

0.はじめに

  皆さま、おはようございます。連合青年宣教主事をしております。小川光と申します。今朝は、こうして、皆さまとご一緒に神様を礼拝する恵みにあずからせていただくこと、心より主に感謝しております。さて、今朝は初めてお会いする方も多くいらっしゃいますので、まず、短く自己紹介をさせていただきます。

 改めまして小川光と申します。普段は埼玉県は所沢市にあります所沢バプテスト教会に属しておりまして、この千葉ニュータウン・バプテスト教会も属している日本バプテスト教会連合で青年宣教主事としてご奉仕をさせていただいております。去る一月にはお証詞の機会をいただきまして、青年たちの状況や、交わりをたてあげていることをお分かちさせていただいて、本当に温かいお交わりをいただきまして、心より感謝申し上げます。現在は、その主事の働きを続けつつも、超教派の学生宣教団体でご奉仕をさせていただいておりまして、変わらず青年たちと交わりを深めながら日々を過ごさせていただいております。趣味はサウナにはいることで、最近引っ越したので、近所の銭湯を巡るのがもっぱらの楽しみです。

 さて、このような自己紹介ではございますが、本当に何気ない自己紹介だと思います。この世界に人間がいる限り、こうした自己紹介は数多く、あまた存在するわけです。しかし、それら一つ一つが全て覚えられているかと言われれば、決してそういうわけではなく。その多くが忘れられることもあり、また、時として私たち自身も、その歩んできた道のりを当たり前のものとして、また忘れてしまうということがあるのだと思うのです。

しかし、今朝、皆さまと注目していきたい使徒の働きの御言葉、その中心人物であるパウロはこのような言葉を残しています。聞いているだけで構いません。ガラテヤ人への手紙、1:15-17。

 しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が、異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに啓示することを良しとされたとき、私は血肉に相談することをせず、私より先に使徒となった人たちに会うためにエルサレムに上ることもせず、すぐにアラビアに出て行き、再びダマスコに戻りました。

その母の胎内にある時から、神が、パウロを選び出し、恵みを持って召し出してくださる。神によって導かれ、その人生を過ごし、この手紙を書いているパウロがいるのです。この御言葉を読みます時に、私たちの過ごした人生、そして、その歩みは決して偶然なのではなく、神によってその計画を持って、進められてきた。私たちの自己紹介は決して何気ないものではないのだと思い知らされるのです。そして、今朝は、そこに表される神の御思い。その御思いに思いを馳せる時を共に持っていきたいと思います。神様が私たちの人生を通して進めようとしておられる事柄を、この使徒の働きの御言葉から、共に受け取って参りましょう。一言、お祈りをしてから、御言葉の説き明かしに入りたいと思います。心を合わせてください。

お祈りいたします。「愛する天の父なる神様。御名を賛美し感謝いたします。今朝はこの千葉ニュータウン・バプテスト教会の皆様と共に貴方様を礼拝する、その恵みに与らせていただき、誠に感謝申し上げます。どうぞ神様、これから貴方様の御言葉に聞いて参りますから、御言葉を通して貴方様がご自身を表してくださり、どうぞ御言葉を通して語りかけてください。聖霊さまの導きに期待し、尊き主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン」。

1-1.導入:背景説明 v1

さて、今朝、共に聞きたい御言葉は、先ほども申し上げました使徒パウロ、今朝は便宜上、テキストのサウロを「パウロ」と呼ばせていただきますが、そのパウロが宣教師となる、そんな場面です。主イエス・キリストの宣教は「神の国」を建てあげる。この世界を刷新していく働きを、教会を通して広げていく。まず、その様を描くのが、この使徒の働きでありまして、その教会が世界全体に広がる、そのきっかけを作ったのが、この使徒パウロであるわけですから、この場面は一際重要な場面と言ってもいいのかもしれません。

そんなパウロが、当時所属していたアンティオキア教会。この教会に不思議な導きがおこりました。1節。

さて、アンティオキアには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどの預言者や教師がいた。

このアンティオキア教会は当時の世界において、とても珍しい教会で、現代でいえば超多様主義の教会。この教会があったアンティオキアという土地は当時の世界で3番目の大きさを誇る都市で、ローマとの交易が盛んだったことから、様々な背景を持った人たちが、この街にいました。そして、当然、この教会にもさまざまな人が集っていて、当時の世界では考えられない出来事が起きたのです。

彼らのリーダーの中にはニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、この二人は、見るからに異邦人の風体そのもので。ニゲルというのは「黒」、クレネ人もアフリカ出身の人たちで、黒人である彼らが、この教会のリーダーシップをとっている。異邦人伝道ですら、考えられないといわれていたユダヤ人文化のなかで、彼らの教会はとても異色な教会でした。

1-2.神の導きにあるユニークさ

しかし、それを決して、使徒の働きは異様な難しさとしては、描きません。領主ヘロデの乳兄弟マナエンというのは、あのバプテスマのヨハネを殺したヘロデ。しかし、その乳兄弟マナエンはヘロデと違って、神を信じ、教会を建てあげている。加えてパウロがいたこともまた、何よりも、そのことをよく物語っているでしょう。キリスト者を迫害し、恐怖をもって教会を脅かしていた彼が、今は、教会の兄弟姉妹となっている。

私たちのキリスト教会の歩みは、きっとこの一人ひとりの、豊かさによって進んでいくものなのでありましょう。マナエンやパウロがその人生を通して証ししたように、私たちも生きたその歩みそのものがまた、用いられていく。私たち人間が生きている限り、その可能性は無限大で、経験や人間関係、職場の環境、また、ときには趣味から娯楽まで。その一つ一つが、この教会という共同体を建てあげていくのです。

パウロがガラテヤ人の手紙で、あのように語ったのにはきっと、この教会での経験があったからなのだと思います。私たちの存在は決して何気ない存在ではない。神の国を押し広げるなかで、尊く用いられる。神さまは私たち一人一人を決して不要な存在とはされないのです。

2-1.アンティオキアの挑戦 v2

 ですが、しかし、時として、それが本当にそうなのか。私たちの人生の中には、そのように神様に対して疑いをもってしまう。そのような経験もまた、起こると伝えるのが、本日の聖書の箇所でもあります。続く2―3節にはこのように書かれています。2節。

彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が「さあ、わたしのためにバルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」と言われた。

断食をして礼拝するということは、聖霊なる神様の確かなる導きを求めて祈るということです。そして、確かに臨んだ御言葉は聞いた彼らはきっと驚いたことでしょう。この導きは、とても素晴らしい導きです。パウロたちによって、いよいよ世界宣教が始まる。この出来事がなければ、今の私たちがクリスチャンであることは決してありえません。ですが、しかし、このアンティオキア教会にとっての驚きは、決していい驚きではありませんでした。

パウロとバルナバを送り出す。これはすなわち、アンティオキア教会の中心人物を“手放せ”ということです。この二人の存在はアンティオキア教会にとっては欠かすことができない存在。少し前の11章には、このバルナバとパウロが、非常によく、このアンティオキア教会を盛り上げてきたということが描かれています。牧師バルナバがまだ小さかったアンティオキア教会にパウロを連れてきて、この牧師パウロもまた、非常によく信徒を教育する。この二人がいたからこそ、このアンティオキア教会は大きくなっていったんです。しかし、それなのに、もう手放しなさいと言われる。これこそ、神を疑いたくなるような経験です。

3節に書かれている「送り出した」という言葉は「釈放した」とか、「囚人を解放した」とかで使う言葉ですから、教会の中に残る彼らにとっては「なぜ、主はそのようにおっしゃるのか」。きっとそのような思いに駆られたことだろうと思うのです。

2-2.神を疑いたくなる状況

時として私たちには、神の御言葉に耳を疑いたくなるような時があります。特に今日の箇所のような宣教の事柄は、そのように思わされることが多い事柄です。「時が良くても悪くても、しっかりやりなさい」。第二テモテの御言葉に書かれていることですけれども、もしそれが、介護にあって難しいご家庭にいる場合、職場の状況からとてもじゃないと言える状況にある時、このような宣教に私たちは勤しむことができるのだろうかと思うわけです。

神は私たちの状況を考えていてくれるのだろうか。人生をかけて私たちを導き続け、そして、生かし、ご自身の宣教に用い続けるというはずなのに、神ご自身がそのように思っているとは思えない状況に出会う。アンティオキア教会の状況はまさしくそのような状況です。パウロ、バルナバ無きにして、ここでの宣教はあり得ない。なのに取り去る。神は私たちの状況を本当に考えていてくれるのか、そう思うわけです。

仮にもし、その神の宣教の思いを、受け入れるのだとしても、「なぜ、パウロとバルナバなのか」。きっと彼らは疑問に思ったことだろうと思います。もっと別の人材を起こしてくれて、あるいはもうすでに始まっていた異邦人伝道。ピリポやペテロによって始まったのだから、そういう人たちに委ねてもいいのではないか。まぁ、それも一つの考えであるわけですけれども。しかし、ここにある導き。「パウロとバルナバ」でなければならない。彼ら自身の人生を生まれる前から導かれてきた主が、その働きのために召したからこそ、揺るがない決定がここにある。

2-3.神は残酷なお方か

こうした導きが私たちの人生に起こる時、私たちは痛みを抱えるのかもしれません。義務感の中で従い、教会の奉仕であれ、人生の選択であれ、神の御言葉に示された御心を前にして、自分たちの思いを押さえ込まなければならない。

小さい頃、私はとてもいい子でした。自慢じゃありません。牧師家庭の牧師の息子、もし図鑑をつくって標本を載せるんだとしたら、間違いない。私がその写真となっていたことでしょう。

いつも教会で言われることには従い、聖書の言葉にしたがって来た。しかし、なぜそれを受け入れていたかと言いますと、それは正しいと思うから。父と母が言っている。正しい、正しい。だから信じる。しかし、そんな信仰はとても苦しいもので、友達に遊びに誘われても、日曜日は教会にいく。大学時代、飲み会でお酒が飲めない。なぜか、それは正しいから。大人になってもその信仰のまま進み、いつも自分の中には、正しいから信じる。その思いがあるのです。

もちろん、それは時として、非常に重要な信仰のあり方にもなり得ます。誘惑で惑わされそうなギリギリのところでは、そのブレーキが私たちには必要です。しかし、それがずっと続く時、僕は苦しくて仕方がなかった。納得が行かない。なぜ制限されなければいけないのか、理不尽な思いがいつも私の中にあり、それが反発してくるんです。そうして納得が行かないまま、私は友人たちが得ている楽しみをみすみす見逃すことになる。いつも友達から置いていかれているような気持ちを感じ、自分にある信仰はマイナスのように感じられて、たまらなかった。

納得のないまま、信仰を持ち続ける時、私たちの心は苦しみます。自分たちにとってそれが重要に思えない。なのに、従う時、私たちは自分の気持ちを、人格を無視されたように感じて、悲しみを覚える。その時に私たちの目に映る神様は、残酷で、狭量で欺瞞に満ちた、偽善の神様だと思うのかもしれない。

3-1.送り出す教会 v3

しかしです。興味深いことがここには書かれています。それは「送り出した」ということ。彼らはバルナバとパウロを送り出したのです。普通に考えるのであれば、送り出すことなんて、特に気持ちよく送り出すことなんて、全くできるはずがなかったことでしょう。しかし、3節にはこのように書かれています。3節

そこで彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いてから送り出した。

彼らはもう一度、断食をして祈り、神の思いをしっかりと断ちかめた上で、「手を置いて」送り出した。手を置いて送り出すというのは、按手という宣教師任命の儀式です。普通こういう儀式は、大勢の人の前で行われて、この人が宣教師だー!と喜びを分かち合う。そのような喜びをもって、彼らはパウロたちを送り出すんです。

不思議なことですよ。自分の不利な状況さえもまた、喜びながら送り出していく。

3-2.神の恵みに押し出されて

実はパウロたちが、この後、送り出されて、続く14章の26節には、帰ってきた時の姿が描かれているんです。ぜひ、今朝は共にここの箇所を開きたいと思いますが、14章26節。28節までお読みいたしますが。

そこから船出してアンティオキアに帰った。そこは、二人が今回成し終えた働きのために、神の恵みにゆだねられて送り出された所であった。そこに着くと、彼らは教会の人々を集め、神が自分たちとともに行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。そして二人は、しばらくの間、弟子たちとともに過ごした。

ここに書かれている「神の恵み」という言葉。この言葉は、この使徒の働きで、キリストにある救いとか、心踊るような喜び。多くの人が感謝したくなる、そのような時に使われる表現なのです。つまり、パウロたちはこの恵みに委ねられて送り出された。アンティオキア教会の人たちは、この“神の恵み”のゆえに、パウロたちを送り出したんだというのです。

実はその恵みがアンティオキア教会にあったということが、11章に書かれていますけれども、具体的に何があったかは書かれていません。しかし、その恵みは確かにあった。多くの人たちが救われた、あの迫害者であったパウロが変えられて今自分たちと共に礼拝をしている、その事実が彼らの心を突き動かしたのかもしれません。いや、それ以上に、このアンティオキアという異国の地で今も教会が立っている。キリストと出会ったあの喜びが、救いの御言葉を聞いて涙した感動が、人生かけて神が導いてきたなか、恵みひとつひとつのゆえに、彼らはパウロを送り出すのです。

神様であれば大丈夫だと、パウロ自身もまた、守ってくださる。そしてまた、この教会も、神は守り続けてくださるのだと、そう信じて彼らを送り出していく。教会は、その一人一人の人生にあった神の恵みによって、その豊かさによって成り立っていくのです。

3-3.証

  実は、このご奉仕を準備する中で、私のうちで響き続けてきた昔の経験がありました。それは、大学4年生の進路選択の時です。私は、もうその当時、具体的に献身をして、神様のために御言葉のご奉仕をすることを願い続けていました。神様によって、この進路を進む、そのことが御心だと信じてやまなかったのです。しかし、その道は、完全に閉ざされました。牧師である両親からは反対され(まぁこれは今じゃないという、献身自体は認めてくれるけど、だからこそ、経済的な現実とか、社会的な経験を積んだほうがいいということだったんですね)。そして、超教派の宣教団体にも人事採用をお願いしておりましたが、その声はかからず。最終的には、御言葉に押し出されて一般の職業につくことになりました。その時の御言葉がエレミヤ書の「荒野に行け」という言葉で、なかなか手厳しい言葉だなと思いましたが(笑)。ただ、本当に荒野になるとは思っていませんでした。

 実は私が最初に勤めた職場は、いわゆるブラックだったんですね。人間関係も悪く、新入職員に考えられないほどの責任追及をして。入った初日に「なんでお前はこんな職場に入ったんだ」と言われまして(笑)。採用したのはそっちだろと思いましたが、自分自身がなぜこの職場に導かれたのかがわからなく暗澹たる思いがしていたことがありました。そこでできた傷が今も自分を蝕んでいますし、そのことから、心悩むことも今でもあります。

 ですが、しかし、今振り返れば、決して悪いことばかりではなかったなと思うのです。そこで練られた品性、忍耐力というのは今も自分を支えるものとなっていて。宣教はやはり、一筋縄ではいかないことが多くあり、グッと堪えなければならない瞬間もまたあるわけです。理不尽な目にもあります。自分の思った通りにいかない瞬間もまたある。ですが、しかし、それを堪えることができるようになったのは、この期間がなければあり得なかったとも思う。それがなければ、怒り、悲しみ、自分の人生も周りの人との関係も壊してしまうような、そんな人間になっていたようにも思うのです。あの時の経験があったからこそ、今、私はこの働きができている。このブラック企業に勤めたことが神の導きであったかどうかは分かりません。そして、似たような状況にいる人も絶対そうであるというつもりもありませんが、私にとっては確かに、神は恵みを与えていてくれた。その経験を通して、今の働きを続けさせてくださっている。

 神様は恵みを惜しまれる方ではありません。私たちのうちにあった、あの恵みと同じように、今もこれからも、恵みを与え続けてくださっている。

4.送り出そう、聖霊の召した働きへ

  今朝、私たちが求められていることがあります。それは『送り出すこと』です。お互いを今日この教会から、新たなる1週間へと送り出していきたい。それは単に教会から行ってらっしゃいとか、また来週ってことではなく、「神の恵み」を見る1週間への送り出しです。

 私たちは日々、どれだけ、神の恵みを見ていきているでしょうか。それは、神様が与えてくださっていないということではなくて、神が与えてくださっている恵みを見ようとしているかということです。恵みというのは、意外と意識しないと見えてくるものでありません。

ある牧師先生がこのように言っていたことを聞いたことがあります。「信仰にはね、疑うことも含まれているんだよ」と。ドキッとする表現です。しかし、その疑うというのは、目を凝らし、じっくり神を見つめながら生きていく。

実に、今日の箇所からパウロたちが出ていく世界、そしてアンティオキア教会が迎える牧会は未知の世界です。おそらく悩むこともあったでしょうし、色々と考えることもある、しかし、その一歩一歩を踏み出していく中で、神の恵みを見ていく。私たちはその恵みを見るために、この1週間の歩みを神の恵みを意識して探していきたいと思うのです。

イエス様は語られました。「わたしが道であり、真理であり、命である」と。進む中では悩みもあり、考えることもある。だけど、その先にイエス様がいる。悩むこと、疑うこともまたそこに到達するために必要なんだと。それゆえ、ご自身を道と言ったのだろうと思うのです。

だからこそ、私たちも、この道を歩ませていただきたい。これから始まる1週間の歩みの中で、神様を求め、見出し、生きようとする時、きっとさらなる神の恵みを見ていくわけでありますから。

聖霊が私たちに召した働きはお互いを神の恵みへと送り出す歩みです。

お祈りをいたしましょう。