断食するときは顔を洗え マタイ6:16-18
ひどく昔の話です。ある学生伝道団体が東京の郊外で二泊三日の修養会を開いていました。そこには、ひとりの男子大学生が不思議な参加の仕方をしていました。参加者登録はしているけれど、集会には出ません。食堂でみんなとご飯を食べません。
よくよく聞くと自分はひとつの課題があって、この修養会で断食祈祷をしている。何を祈っているかは言えないが、受け入れてほしい。この男子学生は、当時のこの団体で活発な奉仕者の一人だったし、彼の通っている大学が偏差値の高い国立大学であったことも関係したかもしれません。
何はともあれ、その修養会が終わると、彼はひとりの女子学生に交際を申し込みました。同じ大学の同じクリスチャンサークルで、同じ教会の青年会で毎週顔を合わせていました。彼はその団体の二泊三日の修養会で、集会にも食事の場にも現れず、何をしていたかというと断食をして祈っていた。どんな課題だったかというと「自分にも彼女がほしい」だったそうです。
告白され、交際を申し込まれた彼女。修養会の大切な集会にも出ないで自分勝手な恋愛のために祈っていた。何と不埒な。と彼女は思わなかったようです。彼女は彼も申し出にOKし、交際が始まりました。同じ大学の同じサークル。同じ教会でもあり、彼は青年会の会長。一学年下の彼女は青年会の副会長。
しかし約一年半後、彼はたいへん辛いところを通らされます。いま思うとその修養会直後に彼の願いは叶わなかったほうがよかったのかもしれません。とても厳しく、めったに起こらない出来事でした。当事者たちだけでなく、周りの者にも大きな影響を残しました。
祈りましょう。「父よ。私たちそれぞれの人生は、多くの人が経験しない希な出来事に生かされることがあります。それでも聖書は、神であるあなたが真実なので、私たちを〈耐えられない試練にあわせることはなさいません〉(Ⅰコリント10:13)と告げています。また経験した試練はみな〈人の知らないものではありません〉(同上)。願わくは、私たちそれぞれの試練が後に続く人たちへの意味ある教訓となりますように。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン」。
(マタイ6章前半の構成)
さて今日私たちはマタイ6:16-18を開いています。主イエスが山の上で弟子たちに語られた山上の説教(マタイ5-7章)を私たちは学んでいますが、6:1から今日の箇所まで大きな塊で、題を「偽善的善行への警告」(中澤啓介)と付けることもできます。マタイ6:1-18の塊は、次のような構成です。
6:1 段落全体の序文(表題)
6:2-4 偽善者のようではない真実な施し
6:5-6 偽善者のようではない真実な祈り
6:7-15 異邦人のようではない「主の祈り」(短い解説付)
6:16-18 偽善者のようではない真実な断食
—————————————————————————————-
御覧になってお分かりでしょうか。6:7-15では、神を知らない異邦人を反面教師として「主の祈り」が教えられています。しかしこの部分を例外として、この6章前半の塊は〈人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい〉(6:1a)ということが主眼であって、その反面教師には偽善者が据えられています。
すでに学びましたが、偽善者ということばのもともとの意味は、役者でした。仮面を付けて、素の自分を隠し、役割を演じるということでしょうか。6:2-4では施し、6:5-6では祈り、そして6:16-18は断食です。施し、祈り、断食。主イエスは、当時のユダヤ社会で賞賛される3つの宗教行為を取り上げました。
施しとは何か。困っている隣人(他者)を金品をもって助けることです。祈りとは何か。神に聴きながら、神にお話しする礼拝です。そして断食とは、自分自身の体や心や生活に集中しています。そのように、施しも祈りも断食も、それぞれ集中や意識したりするところが異なっていますが、神に見てもらい喜んでもらおうという点は同じです。
施しについては〈右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい〉(6:3)と主は言われました。祈りについては〈家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい〉(6:6)と主は言われました。共に、文字通り受け取るというより、深い意味を読み取るべき含蓄ある表現です。
そして、施しにおいても、祈りにおいても、主は、同様に〈そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます〉と約束してくださっています(6:4&6)。
施し。祈り。そして最後は断食でした。マタイ6:16-18〈あなたがたが断食をするときには、偽善者たちのように暗い顔をしてはいけません。彼らは断食をしていることが人に見えるように、顔をやつれさせるのです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。6:17 断食するときは頭に油を塗り、顔を洗いなさい。6:18 それは、断食していることが、人にではなく、隠れたところにおられるあなたの父に見えるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が報いてくださいます〉。
(断食とは何か)
断食とは何でしょうか。今日は断食の話のはずです。神に喜ばれる宗教行為のひとつです。しかし、施しや祈り以上に論じにくいものを感じます。その理由は2つあります。ひとつは断食がエスカレートしやすいものであるからです。もうひとつは、イエス・キリストが、このエスカレートを歴史的に留めたからです。
まず、断食を定義しましょう。私たちは聖書から断食について学ぶので、聖書辞典を用います。そのうちの一冊『聖書神学事典』によれば、このように定義されています。曰く「断食とは様々な事由で意図的に、あるいは必要や環境に強いられて食物を一定期間断つ営みを指す」(蔦田崇志「断食」)。もっと簡単に「食事の全部もしくは一部を特定の期間故意に断つことを言う」と書いている辞典もあります(『新聖書辞典』)。
このあたりは、一般の辞書でも言いそうなことです。別に聖書辞典を引かなくてもよかったかもしれません。しかし、旧約聖書から続けて考えていくべきことがあります。実は旧約聖書のなかの律法で定められた断食は、年に一度の贖罪の日しかなかったということです。
レビ記16:29a〈次のことは、あなたがたにとって永遠の掟となる。第七の月の十日には、あなたがたは自らを戒めなければならない〉。ここで〈自らを戒める〉というのは、断食を表わすことばのようです。〈苦行する〉(岩波訳)と訳している聖書もあります。聖書の掟が元来は年に一度の断食日しかなかったという理解は、興味深いことです。
それが紀元前6世紀のバビロン捕囚以降、贖罪の日以外に四日、断食日が加わりました。ゼカリヤ8:19〈万軍の【主】はこう言われる。「第四の月の断食、第五の月の断食、第七の月の断食、第十の月の断食は、ユダの家にとって、楽しみとなり、喜びとなり、うれしい例祭となる。だから、真実と平和を愛しなさい。」〉。
〈第四の月の断食〉はエルサレム包囲の日。〈第五の月の断食〉はエルサレム陥落の日。〈第七の月の断食〉は神殿破壊の日。〈第十の月の断食〉はゲダルヤ殺害の日です。バビロンによってユダ王国が滅びていく悲しい記念日が断食の日になりました。ゼカリヤの預言は、その悲しい日が楽しみと喜びの嬉しい祭りの日になると言っています。
さらに新約時代になると、熱心なパリサイ派は、何と週に二回も断食をしていました(ルカ18:12)。これはモーセがシナイ山に登ったのが木曜日で、そのあと40日後にシナイ山を下りたのが月曜日だったことにちなむようです。そしてこの月曜日と木曜日は市場が開かれる日だったので、そこで皆から評価を得たいとパリサイ派の人たちは断食をし、そのアピールとして〈暗い顔をして〉〈顔をやつれさせ〉たのです。
断食というのは、自分で自分のからだをコントロールしようとする点で、現代のダイエットやボディビルに似ています。自分の努力で、人の評価を得たり、神の評価を得たりすることは難しくても、自分の体は変化させやすい。そういうことから、断食という営みは、時には不必要にエスカレートしてしまいやすいのではないでしょうか。
さらに、新約聖書を読むと、主の弟子たちは比較的に断食をする経験が少なかったようです。他の福音書ではなくマタイを開こうと思うのですが、マタイ9:14-15に次のような問答があります。曰く〈それから、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「私たちとパリサイ人はたびたび断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか」と言った。9:15 イエスは彼らに言われた。「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむことができるでしょうか。しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。そのときには断食をします〉。
この箇所の説明の前に、断食をする事情や理由についてお話しします。どの本も多かれ少なかれ書いていることですが、『聖書神学事典』を種本にします。①神の臨在を前にして生じる恐れ戦きの表れ。②深い悲しみの表現。③過去の国民的惨事を覚えて(先ほど見たゼカリヤ8:19がそうです)。④民や個人の悔い改めの表現。⑤切なる祈りの表れ。これはたくさんの例を聖書からも見出すことができるし、現代も祈りに集中して祈りが聞かれるために断食を伴わせることがあります。冒頭にお話しした大学生はまさに祈りが聞かれるための断食をしたはずです。⑥今日の箇所がまさにそうですが、他の人から褒められたくて断食してしまうこともあるわけです。それは、まさに断食の形骸化です。彼は、人から褒められるためではなかったかもしれませんが、わざわざ修養会に参加しつつ断食祈祷をしたのは、いま思うと変な行動だったと言わざるを得ません。
マタイ9:14-15に戻りますと、パリサイ派の断食は偽善者のそれと言っていい形骸化した断食だったと思います。しかしバプテスマのヨハネの弟子たちは、霊的な訓練とか、滅びに向かう世に対する深い悲しみから断食をしていたと思います。
しかし主は何と言われたでしょうか。9:15〈花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむことができるでしょうか〉。ここでいう花婿は、主イエス・キリストです。彼はもともと父なる神に愛されて喜んでいます。さらに主は、神に選ばれた人々の群れをご自分の花嫁として迎えるため、ますますの喜びに輝いています。イエス・キリストの弟子たちは〈花婿に付き添う友人たち〉なのです。私たちも主の喜びが感染して喜んでおります。さらに主のなさる伝道のお手伝いをすることでますますの喜びです。
〈しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。そのときには断食をします〉。私たちは友人である花婿イエスを見失ったとき、食べるのも忘れて、主の臨在を求めるのです。「♪御顔を見ぬとき/すべては意味なし/香りの良き花/声良き小鳥も/ああされどわが慕う/主在し給えば/師走も五月と/などかは区別せん」(新聖歌207番)。
私たちは、あまりにも悲しくて、あるいはどうしても祈りの力や結果が欲しくて、断食をするかもしれません。断食はともすればエスカレートしやすい宗教行為です。食べるのをやめると頭や霊性がすっきりする時もあります。美容にもいいかもしれません。主イエスも宣教を始める時、断食をされました(マタイ4:1-2)。また初代教会も大事な決断を前にして断食をしています(使徒13:2-3、14:23)。しかし私たちが断食をするとしても、終わればこれまでの日常に戻ることを忘れてはなりません。
また平和な世界を求めることも断食になります。社会的な断食です。イザヤ書には次のようなことばがあります。イザヤ58:6-8〈わたしの好む断食とはこれではないか。悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、虐げられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。58:7飢えた者にあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見てこれに着せ、あなたの肉親を顧みることではないか。58:8そのとき、あなたの光が暁のように輝き出て、あなたの回復は速やかに起こる。あなたの義はあなたの前を進み、【主】の栄光があなたのしんがりとなる〉。おそらく断食には社会的な性格もあるのです。社会的な断食もあるのです。祈りましょう(略)。
