赦された者は赦す、赦されるために マタイ6:14-15
昨年は、私たちの教会も属します日本バプテスト教会連合(通称はRENGOと申します)の発足60周年でした。それで私も『連合通信』で略年表などをつくりました。
そして2026年。今年は私たちの教会。60周年のちょうど半分ですが、私たちの教会としての礼拝と宣教が始まって、ちょうど30年が今年です。最初から独立した教会として始まったわけではありません。いまも練馬区桜台にあります練馬バプテスト教会の衛星教会としてスタートしています。衛星教会とは、いわゆる伝道所であります。
そういうわけで、今年は私のお話にも練馬の話が少しだけ増えるかもしれません。そして今日も午後から私は練馬教会に出かけます。東京地区連合主催の新年合同礼拝と成人式出席のためです。さらに言いますと、この練馬教会は、およそ40年前、妻と私が結婚式を挙げた教会です。ひとつだけ、その結婚式のエピソードをお話しします。
私たちの結婚式の司式は、当時の練馬教会の牧師であった泉田昭牧師でした。そして、今は少なくなっていますが、40年前の結婚式には媒酌人ともいいますが仲人夫妻を立てることがふつうでした。いまはクリスチャンでない人たちもキリスト教式の結婚式を挙げることが増えていますが、当時はまだ少なくて珍しい。とはいえ、あまり世間の常識と離れすぎてもよくない、ということなのか。尊敬するクリスチャンのご夫妻に仲人を依頼する。教会の場合、仲人の役を証人夫妻と呼んでいたものです。
私たちは神学校を終えて間もない献身者同士でしたが、お世話になった神学校の校長であり、新潟にあります妻の母教会の前の牧師でもある、下川友也先生と奥様のヨリ先生に、証人(仲人)を依頼して、式のなかでも奉仕をしていただきました。
そして下川師からその日お祝いのカードをいただきました。妻も同じようなカードをいただいたのですが、私がいただいたカードにも聖書のことばが書かれていました。その聖書のことばは、新約聖書エペソ人への手紙4:32でした。今の2017版と訳文がそれなりに違いますが、こう書いてありました。
〈お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい〉(新改訳第二版)。
お祝いのことばと共に、カードに書かれている聖句。心のなかで、こう考えてしまいました。自分はクリスチャンになってもう何年も経っている。牧師にもなって半年だ。いまさら〈親切に〉とか〈心の優しい人となり〉と書かれているけれど、自分は十分に親切だし、心の優しい人間だ。この先生は自分のことを見くびっているのか。
自分はいまも傲慢な面を持っていますが、若いときはもっとそうだったでしょう。しかし、結婚をして、好きな人と生活を始めると、自分は自分が思っているほど親切ではないし、心の優しい人間ではない。やはり、それを認めざるを得ませんでした。それでエペソ4:32の後半も、思いのなかに刻まれていきました。
曰く〈神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい〉。「聖なる神が、十字架のキリストによって私を赦してくださった」。これを信じるのがクリスチャンでしょう。そのクリスチャンである私たちが〈互いに赦し合いなさい〉と奨められています。
神の人に対する赦しが、人間同士の赦しにつながっているのです。もしかしたら、つながっているどころか、切り離すことができないほどに一体(ひとつ)かもしれません。
祈りましょう。「愛する神。本日も私たちはあなたの前に出ております。あなたがくださった罪の赦しは、私たちの人間関係に、延いては、この世界に何をもたらすでしょうか。あなたが私たちを救ってくださることを信じます。みことばの学びを祝福してください。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。
(「主の祈り」を特に解説)
先週までで10回に渡り、主イエスが弟子たちに教えた「主の祈り」を学んできました。マタイ5章から7章までに記されているのは、主イエスの山上の説教。そのなかで、主イエスは、施し、祈り、断食の宗教行為についても語られ、とくに6:5からは、祈りについてでした。祈りもまた、人に見られて評価されるためにするのではない。また言葉数が多ければよいのでもない。口伝えのお手本として、主はこの祈りを示されました。
それが「主の祈り」です。主は弟子たちに聖なる神を〈天にいます私たちの父よ〉と呼びかけるように言われました。そして、御名(神の名前)、御国(神の支配)、御心(神の御旨)、日ごとの糧、罪の赦し、そして試みに遭わないよう、6つの願いを祈るように教えました。
主は〈こう祈りなさい〉と言われただけなので、私たちは、そのまま祈ったらよいのです。しかし意味がわからず、そのまま祈るよりも、意味が少しでもわかって、祈ったら、もっとよいはずです。私たちも礼拝で学んだのですが、実は福音書そのものに「主の祈り」の短い解説がありました。
それが本日の箇所6:14-15です。「主の祈り」を示したあと、主は以下のように付け加えています。マタイ6:14-15〈もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。6:15しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません〉。これは本日のテキストです。そのまま祈るだけでもいいはずの「主の祈り」に、敢えて解説を加えた箇所が、これです。
〈もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません〉。この14-15節は「主の祈り」のなかのどの部分にスポットを当てたのでしょうか。
それは、言うまでもなく6:12です。祈る人が、神に赦しを求め、さらに他の人を赦しますと祈っています。〈私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します〉。第五祈願です。この第五祈願に補足説明が付くことで、私たちの信仰にとって《罪の赦し》が最重要であることを改めて認識するのです。
そして、赦すなら赦される。赦さないなら赦されない。言い訳のできないように、肯定と否定が続きます。反復することで、《罪の赦し》が重要テーマだと訴えています。
(赦すことで救われるのではない)
さて、私は今、実はある意味、どんな聖書のことばであっても多かれ少なかれ当て嵌まることを言いたいと思います。それは今日の聖書箇所のような場合、顕著だからです。本日開いておりますのはマタイ6:14-15です。もしこの箇所だけがこの世に存在し、残りの聖書箇所が全く失われていたと考えてみます。
マタイ6:14-15だけから、私たち人類が、神の救いを求め、待ち望むとします。すでに、救いとは、神による罪の赦しのことだと知っております。
6:14はこう言っています。〈もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます〉。それで他の聖句を持たない私たちは、救われて天国に行くために、一生懸命、人の罪を赦そうといたします。ある人たちのいくつかの〈過ち〉は赦しても、別の多くの人の〈過ち〉を赦すことはできません。こんなことでは自分は天国に行けないと情けなくなります。
6:15はこう書いてあります。〈しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません〉。ああ、自分はこの人たちを赦せない。そうだとすれば、自分の罪も赦されず、永遠の滅びに行くのだろうか。
そうではない。他の掟でもそうであるように、私たちは律法の行いによって、救いに与ることはないのです(ローマ3:20)。
先ほどのエペソ4:32に〈神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださった〉とあります。大切なのはキリストにあって、まず神の恵みに与ることです。エペソ1:7にはこうあります。曰く〈このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです〉。
そしてこの神の恵みの救いの目的は〈私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため〉(テトス2:14)です。そういう意味で、私たちは〈神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られた〉(エペソ2:10)のです。
(主からの良いわざとしての赦し)
これでお分かりでしょうか。生まれつきの人間は行いによって義と認められることはありませんが、義と認められて聖霊をいただいた暁には〈良いわざに熱心な選びの民〉となって〈良い行いをする〉ことができるのです。人間の道徳心や宗教心には限界があります。ただ神の恵みによって、どんな人をも赦すことができるのです。
ですから人の罪を本心から赦すというのは簡単なことではありません。
そうでありますから(!)私たちが、詫びる側(罪を赦してもらう側)であったとき、この人はなかなか赦してくれない(和解できない)ということがあるかもしれません。しかし大空よりも天体よりも高みにおられる方からの赦しを、すでにキリストの十字架によっていただいていますから、私たちは信じて、和解の時を待つことにしましょう。
しかし赦されることではなく、問題は、人と人との次元において、害を受けた側として他者を赦すことが、私たちに求められていることです。何のために、大きな罪を犯した極悪人を赦すのか。謝ったり反省したり償ったりしていないのに、懲りない常習犯も赦すのか。憤りと共に、そうした疑問が沸いてくるかもしれません。
それで、いよいよ、次のたとえ話を開こうと思います。マタイ18:21-35〈そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」18:22 イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。18:23 ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。18:24 清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。18:25 彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。18:26 それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。18:27 家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。18:28 ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。18:29 彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。18:30 しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。18:31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。18:32 そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。18:33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』18:34 こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。18:35 あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」〉。
このたとえの長い説明は(時間の関係もあり)しません。10,000タラントという莫大な借金を王様に免除してもらった家来は、仲間の借金を免除も猶予もせず、仲間を牢に入れてしまいます。それを聞いた王様は、自分のあわれみを実は何とも思っていなかった家来に腹を立てて、彼を牢に入れます。おそらくこの家来は「仲間の借金を棒引きにします」と言うまでは牢から出ることはできなかったでしょう。
このたとえの導入は、弟子のペテロの質問でした。〈主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか〉。主イエスの答え〈わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです〉。「仏の顔も三度」という諺がありますが、聖書の完全数は7なのでペテロは7回までは赦すけど、それ以上は「ない」としたかったのでしょう。しかし7の70倍(=490回)まで赦しなさいと主は仰いました。これは491回目は赦さなくていいというのではなく、赦しは無限という話です。
これは法律に基づいた交渉の話ではありません。私たちの心の問題です。私たちはだれかを責める心を持ったままであると、神からの赦しも無効化いたします。実際、私たちは他の誰かに復讐心を持ったままだと、キリストの救いがわからなくなり、心の平安も去ってしまい、御霊が消えてしまいます(Ⅰテサロニケ5:19)。キリストのゆえに他の人の罪を赦すのは、相手のためというより、実は自分のためなのです。
私も、かつて複数の人を赦せないと思ったことがあります。その人たちのことを思い出すたびに苦い思いになりましたが、それでも、その人たちに対する怒りや憎しみが小さいと気づいたことがあります。自分の心に聖霊がおられて、私もクリスチャンだと思いました。また、それでも怒りの消えないところがあったのですが、ある日、思い切って赦そうと思いました。そして10,000タラントの借金を赦した王ではないけれど、神もまた、神の子キリストを十字架につけるかたちで私を思い切って赦そうとしたのだと悟りました。自分の力では簡単でないのですが、神に倣って思い切って赦そうとすることが大事です。私たちは赦しのなかに生かされています。祈りましょう(略)。
