究極の祈り~いつ試みは果てるのか~ マタイ6:13
元旦にも礼拝をささげ、三が日も過ぎたのですが、今日、こうして皆さんと主を礼拝できることを感謝します。
私たちが教会生活をしていて残念に思うことは、共に礼拝に与っていた信仰の仲間が集わなくなることです。お引っ越しをしたり、あるいは別の教会に集うようになったりも残念ですが、信仰そのものが躓いてしまって、クリスチャンであろうとすることをやめてしまっている、そのことのほうがもっと深刻で残念です。
私の田舎の母は、見方によれば「なんちゃってクリスチャン」ですが、それでも石川県の市町村のひとつに今もあります、主の教会に名を連ねています。ありがたいことにその教会で33年前にバプテスマを母は授かっています。
いまは一人で外出ができないくらいの健康状態で、時折、その教会の役員の奥さんが訪ねてくれます。石川県のなかでは田舎とは呼ばれない、金沢市近郊のベッドタウンですが、専任の牧師がいない教会でもあります。
そんな母ですが、もっと悪い状態のときは「自分はもうクリスチャンではない」と言っていた時期もありました。すでにバプテスマを受けているのに、その発言や行動は何だと母に対して腹も立ちましたし、それ以上にがっかりしました。クリスチャンではない妹や弟から見ても「それはおかしい」と言われる振るまいでした。
しかし考えてみると(母は極端なケースかもしれませんが)、信じていたはずなのに教会の交わりから離れてしまう、信仰について語らなくなってしまう。そういう残念なケースが、どの時代のどの国の信仰生活にもあるのだと思いますし、日本はいったんクリスチャンになったけれど信仰から離れてしまう(背教)率が高いとも言われています。
新約聖書のなかにも、そんな信仰を捨ててしまった人への言及がいくつもあります。なかでも有名なのはⅡテモテ4:10に出てくるデマスという人ではないでしょうか。
デマスはコロサイ書4:14では、福音書や使徒の働きを書いたルカと並んで名前が載っており、このときはパウロの傍で奉仕者だったようですが、そのあとに書かれたⅡテモテでは〈デマスは今の世を愛し、私(パウロ)を見捨ててテサロニケに行ってしまいました〉と記されています。
〈今の世を愛し〉とか〈(パウロ)を見捨てて〉とありますから、単にパウロ一行から離れてテサロニケへ行ったというだけではなく、主の教会や生きた信仰からも離れたと思われます。残念なことですが、それは初代教会の時代から変わらないのです。
私自身、今から50年くらい前、高校二年生のときに主を信じて新しくされクリスチャンになりましたが、その一年後(信仰を決心した同じキャンプ場で)信仰や救いがわからなくなっています。また自分と同じときにバプテスマを受けた、高校の一年先輩が、受験の失敗もあって親の反対にも屈服して信仰を捨てたことも忘れられません。
今日学ぶ「主の祈り」の箇所は6:13〈私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください〉です。まず出会いたくない〈試み〉について考えます。そのあと〈試み〉についての考察を踏まえて上で〈悪からお救いください〉について考えます。〈悪〉とは何かについて考える必要もあるでしょう。
その上で新改訳2017などでは脚注に小さく載っている〈国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン〉についても簡単に触れます。そして最後には、私たち人間が〈試み〉から完全に解放される日はあるのかを考えていけたらと思います。
一言祈ります。「私たちに『主の祈り』を教えてくださったイエス・キリストの父なる神。あなたの愛に導かれ、イエス・キリストを信じた私たちに、様々な試練や誘惑がやって来て、躓くこともしばしばです。あなたの御子である主ご自身が、こう言われていました。〈つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです〉(マタイ18:7)。それゆえに私たちは〈私たちを試みにあわせないで〉くださいと祈ります。どうぞ私たちを導き、心から『主の祈り』を祈れるようにしてください。私たちのためにいのちを与えてくださった十字架の救い主イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。
(弱さを認める祈り)
すでにお話ししていることですが、ルカ福音書にも「主の祈り」のテキストが記されていて、私たちが学んでいるマタイ福音書の「主の祈り」との比較ができます。今日の部分にあたるルカ福音書の該当箇所は、ルカ11:4の後半です。
こう書いてあります。〈私たちを試みにあわせないでください〉。
お分かりでしょうか。ルカの「主の祈り」には〈試みにあわせないでください〉だけで〈悪からお救いください〉は記されていないのです。マタイの「主の祈り」がルカのそれに付け加えたのか、それともルカの「主の祈り」からマタイのそれを省略したのか。
とにかく「主の祈り」についてはマタイとルカに根本的な違いはないとするならば、マタイの〈悪からお救いください〉は〈試みにあわせないでください〉を同義反復(同じ意味を違う表現で繰り返す)をしているとみなすべきでしょう。
あと、マタイ6:13については次のような議論もあります。私たちは〈私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください〉をひとつの祈願と見なしていますが、〈試みにあわせないで(ください)〉を第六祈願、〈悪からお救いください〉を第七祈願とする分析もあるのです。その立場を今回は取りません。
さて、そんなことを確認した上で〈私たちを試みにあわせないで(ください)〉を考えていきます。〈あわせないで(ください)〉は消極的な命令ですが、〈試み〉ということばには二つの意味があります。それは《試練》と《誘惑》の二つです。πειρασμόςということばですが、《試練》ということばが当てはまる意味と《誘惑》ということばが当てはまる意味の二とおりがあるのです。
《試練》とは何でしょう。それはtestということであります。《試練》とは詩篇26:2にそうあるように「人の心の中の隠れたものが何であるかを調べるために試すこと」であり「苦難や迫害によって人を練りきよめること」を意味します。詩篇26:2には〈【主】よ私を調べ試みてください。私の心の深みまで精錬してください〉とあります。
そしてアブラハムの試練(創世記22:1)が旧約聖書のなかでは代表的です。すなわち、やっと与えられた独り子のイサクを、アブラハムは「全焼の犠牲として献げなさい」と命じられたのです。また新約聖書では、苦難や信仰との関わりにおいて《試練》が強調されています。試練によって信仰が失われること(ルカ8:13)があるのです。また信仰の試練としての苦難(ルカ22:28,使徒20:19,黙示録3:10)もあるのです。
そして《試練》については、驚き怪しむことではなく(Ⅰペテロ4:12)、神は耐えられないような試練にあわせることはなく脱出の道も用意されています(Ⅰコリント10:13)。《試練》は幸いであり(ヤコブ1:12)、〈様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい〉(ヤコブ1:2)とまで言われています。
日本の武将、山中鹿之助は「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」という有名な言葉を残したことで有名です。「大きな仕事を成し遂げるため、自ら困難や苦難を望んで受け入れる」という決意表明で、主家再興のため、不撓不屈で最後まで戦い抜いた彼の不屈の精神と悲運な人生を指し示します。
それに対して「主の祈り」はどうでしょうか。ヤコブ1:2のような「試練を喜べ」というような聖句もありますが、「主の祈り」は〈私たちを試みにあわせないで(ください)〉というのです。この願いは決して勇ましくはありません。山中鹿之助のようではないのです。むしろ自分の弱さを認めての祈りです。試み、困難、試練に遭うと、自分の信仰とその歩みは覚束無くなってしまう。そんな弱さを認める、正直な祈りが〈私たちを試みにあわせないで(ください)〉です。私たちもこの祈りを祈ることができます。
(悪魔から救い出される勝利)
さて〈試み〉については二種類の意味があるとすでに申しました。《試練》ではないほうのもうひとつは《誘惑》です。《誘惑》と解すれば、風向きが変わります。《誘惑》とは「人に罪を犯させるよう仕向けること」であって、否定的なニュアンスになります。
ある人(レオナルド・ボフ)は、こんな適確な説明をしています。「人間とは構造上、誘惑に陥りやすい存在である。霊の導きにすなおに従う一面を持つと同時に、肉の誘いにも容易に乗ってしまう構造を持っている。人間はまた、感情に支配される存在ともみなされる。しかし、感情それ自体は悪いものではない。それによってのみわれわれは、自分の内にあふれんばかりに肉と霊の人が躍動しているのを知ることができる。正確に言うなら、悪は誘惑を受けることにあるのではなく、それに屈するところにある」。
そして聖書的に言うなら、すべての誘惑はサタン(悪魔)に由来します。サタンこそは、神の御心に敵対する願望や行為の根源です。誘惑の手段は「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」(Ⅰヨハネ2:16)などであり、この手段を使って、サタンは最初の人類アダムとエバにも迫り(創3:1-13)、キリストにも迫りました(マタイ4:1-11)。
しかしサタンが主イエス・キリストにも誘惑したことは、意味あることでした。荒野の誘惑に始まり、ゲッセマネの園からカルバリ丘の最期に至るまで、主は試みに遭い続けました。そのことをヘブル2:17-18はこう言っています。〈したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪の宥めがなされたのです。2:18イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです〉。キリストはその生涯を通じてすべての人と同じように試みを受けられたが,その試みのすべてに勝利されたのです(ヘブル4:15も参照)。
マタイ6:13bの祈りは〈悪からお救いください〉ですが、〈悪〉という抽象的概念ではなく〈悪い者(=サタン)〉という実体的な霊的存在からの救いを願う祈りとして解することもできるのです。私たちはすでに霊的な戦いに召集されてもいます。〈悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい〉(エペソ6:11)とも奨められてもいるのです。誘惑に対する勝利の秘訣は、聖書のことばに堅く立ちつつ、十字架の主に信頼して、助けを祈り続けることです。
〈私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください〉。いかなるときも自らの弱さを認めて、キリストに信頼し、神からの救いを願い続けてまいりましょう。
(終りの日まで祈る)
〈私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください〉。この祈りまで祈って「主の祈り」は完結します。天の父に呼びかけ、御名のため、御国のため、御心の実現のために祈りました。私たちの生存と罪の赦しを願い、試練のためにも祈りました。おそらくマタイの教会では、ここまでの願いを祈ると、神に感謝せずにはいられなかったに違いありません。
それで〈国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです〉と頌栄せずにはいられなかったのです。そして会衆一同は力強く〈アーメン〉とも叫ばずにいられなかったのです。マタイの教会の心は、ここに集う私たちの心でもあります。
そして最後に、私たちはこの「主の祈り」をいつまで祈り続けたらよいのでしょう。世々の教会は様々な霊的な遺産を次世代に渡していますが、この「主の祈り」もそうなのです。神の御名が地上においても完全に聖なるものとなる日まで。神の御国が地上においても完全に到来する日まで。神の御心が地上においても完全に行われる日まで。その日まで、日々の糧と魂の安全(罪の赦し)のためにも祈り続ける必要があります。
世々の教会は、どの時代でも戦いがありました。 迫害下の時代や地域。逆に、キリスト教が天下を取ったかに見えた時代と地域には、堕落の誘惑が大でした。
私たちの時代にも聖徒たちの戦いがあります。敵は、世に対してではなく、世を支配している悪魔に対して、です。そして戦場は、私たちひとりひとりの心のなかであり、世界全体、宇宙全体です。
その日まで戦いは止むことはありません。私たちは試みに遭い続けますし、悪魔の手から救ってくださいと祈り続けます。どうして試練はいかなる時のいかなる場所のいかなる状況にも存在するのに、私たちは〈私たちを試みにあわせないでください〉と祈るのでしょう。
それはいかなる時のいかなる場所のいかなる状況においても試練がなくなり、悪との戦いが終わる日が来るからです。それは武具を捨てて、天のふるさとに帰る日です。「主よ、終りまで仕えまつらん、御側離れずおらせたまえ」(新聖歌385)。この歌を唱いながら、神に栄光を帰してまいりましょう。
