2025年12月28日「赦すために赦される」マタイ6:12b

赦すために赦される  マタイ6:12b

 『終わりなき日常を生きろ』という題の本を、ひとりの社会学者が著し、30年前に出版されました。「オウム完全克服マニュアル」というサブタイトルが、その後、付けられたようです。「オウム」というのは、麻原彰晃(本名:松本智津夫)を教祖とする新興宗教団体オウム真理教のことです。1989年の坂本弁護士一家殺害事件、1994年の松本サリン事件、そして1995年の地下鉄サリン事件といった一連の凶悪事件を引き起こしました。サリンというのは猛毒の神経ガスのことで、オウム真理教は教祖の命令で、長野県の松本市と、東京の地下鉄車内で、この毒ガスを散布。松本では8人が死亡、多数の負傷者。東京の地下鉄では、13人が死亡、6000人以上の人が負傷しました。

 オウム真理教の事件以来、日本ではもともと宗教嫌いだった人たちがますます宗教を嫌いになり、何らかの宗教を信じている人たちは改めて宗教とは何か(信仰の否定的な側面も含めて)考えるようになり、気を引き締めたと思います。

 そしてオウム真理教に入信し、とくにサリン散布などの犯罪にも手を染めた幹部には高学歴の有為な青年が多かったことは、世の中をさらに驚かせました。オウム真理教のおかしな教義は、仏教やヒンズー教を背景とし、超能力や予言を混ぜたものですが、唯一、キリスト教が源泉と思われるものにハルマゲドンの教えがありました。

 ハルマゲドンとは、新約聖書の黙示録16:16に出てくることばで、世界最終戦争として理解されていました。キリスト教の歴史観は、始めがあって終りがある、直線的な歴史観(終末論)ですと、しばしば私も申しております。終末とは、善と悪、正義と邪がはっきりとし、完全な意味で救いと裁きが実行される決済の日、帳尻の合う日です。

 オウム真理教の問題点のひとつは、教祖が絶対化し、教祖のやりたいことを信者にやらせるために、終末論を利用したところだと思います。そのオウム真理教にたいして、とくにオウムに入信した若者たちを意識して書かれた本のひとつが『終わりなき日常を生きろ』という本です。

 今から30年前、東西の冷戦が終り、イデオロギーの時代は終りを迎えていました。確実なものが何もないと見え始めた時代に、オウム真理教のようなカルトの信仰は拡大し、テロ犯罪と教祖たちの逮捕、そして解散命令にまで行き着いてしまいました。確実なものがほんとうにないのかもしれませんが、それでもあたりまえの生活を繰り返そうと奨めることが「終わりなき日常を生きろ」ということばの本旨のようです。

 祈りましょう。「神様。私たちは一年の終りがあるように、世界そのものにも終りがあることを知っております。また世界が終わるその前に、私たちひとりひとりの地上の人生が終わったり、またキリストを信じるチャンスが終わるかもしれないことを知っております。定められた終りの前にあなたは救いを約束してくださいます。その約束にふさわしく、私たちがどうあるべきか、今日、私たちに示してください。終りの完成に向かって人間を導く救い主イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。

(なぜ今日も罪の赦しを願うのか)

 本日も「主の祈り」の学びです。先週はルカ福音書にありますクリスマスの箇所を読みましたが、本日はマタイ福音書の6章に戻っております。先々週は6:12の前半を読みました。祈願のことばの5番めであって〈私たちの負い目をお赦しください〉ということばでした。ここでいう〈負い目〉とは〈罪〉と言い換えてもいいと思います。

 さて皆さん。ここにおられて私の説教を聴いておられるのは、名実共にクリスチャンである方が多いと思います。名実共に、と言いますのは、こういうことです。

 主イエスを信じる救いの信仰がはっきりとあるけれど、まだバプテスマを受けていない方は、実(中身のいのち)はあるけれど、まだ名(外見のかたち)が整っていない場合です。

 逆にバプテスマを受けているのだけれど、信仰による神との生きた交わり(聖霊によるいのちの確信)やそれに基づく教会生活がない場合は、名前ばかりで実質が伴っていない。残念ですが、そういう場合もあり得るのです。

 しかし私たちは、キリストの名にふさわしい実を結ぼうと考えますし、聖霊の実を結ぶことで、自ずからキリストの名を示すことができるのです。

 さて、それはともかく、もし私たちが名実共にクリスチャンであるなら、どうして毎日のように、あるいは毎週、「主の祈り」のなかで〈私たちの負い目(罪)をお赦しください〉と祈るのでしょうか。イエス・キリストの十字架を信じる信仰によって、私たちはもう罪赦されたはずです(エペソ1:7,コロサイ1:14,Ⅰヨハネ1:9,2:12)。

 また、罪赦されて、私たちは救いの証印として聖霊をいただきました(エペソ1:13-14)。それは永遠のいのちと言い換えてもいいものです。しかし主は弟子たちに〈私たちの負い目(罪)をお赦しください〉と祈るよう奨められています。

 その理由のひとつは、主イエスを信じ、神の子となってからも、日々の生活で罪を犯すからに違いありません。しかし、その日犯した罪を思い出したなら、キリストの十字架を頼りに〈お赦しください〉といつでも祈れる、その幸いもあるのです。聖霊によって、神とつながっているからこそ、日々の悔い改める生き方ができるです。

 また、もしかしたら私たちはとりなしのような意味で〈私たちの負い目(罪)をお赦しください〉と祈れるのかもしれません。主は十字架の上で〈父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです〉(ルカ23:34)と祈りました。またステパノは殉教する前に、自分に石を投げつける迫害者たちを指して〈主よ、この罪を彼らに負わせないでください〉(使徒7:60)と祈りました。教会のような信仰共同体の罪、民族あるいは国家の罪、地域の罪、家族の罪、自分も含めた「集団の罪を赦してください」という祈りに導かれることがあるかもしれません。

 しかし何と言っても〈私たちの負い目(罪)をお赦しください〉と毎日のように祈るべき理由は、私たちは、日々の暮らしにおいて、人生の歩みにおいて、主からの赦しを台無しにする可能性を持っているからだと思います。

(罪赦された者の歩み)

 私たちは、聖書の証言による、罪の赦しを信じています。マタイとマルコとルカの、共観福音書には、中風の人の癒しの記事がありますが、自分で歩くことのできないその人を主イエスは歩かせただけではない〈あなたの罪は赦された〉(マタイ9:2,マルコ2:5,ルカ5:20)と宣言したのです。この中風の人は主から罪の赦しをいただいて、癒しの奇蹟として自分の足で歩き始めました。この人は、クリスチャンの人生のモデルになるかもしれません。

 私たちは、あるとき福音を聴いて主イエスを信じ、神に従って生きる生涯に入りました。ある人は臨終のときに主を信じますが、ほとんどの人は主を信じてからも地上の人生が続きます。神の主権のもと、私たちには自由意思が与えられています。私たちは御霊によって自由が与えられ、主に喜んで従うよう招かれています。

 また神は、私たちに財産を預けるようにして、タラントを与えてくださいます。私たちは、神から預かった健康や富や人間関係や才能を駆使して、限られた地上の人生を無駄にせず、神を喜ばせる何かを残せるように生きるべきです。マタイ25:14-30で主イエスが語られたタラントのたとえはそれを教えていると思います。

 そして、そうしたことを考えていくと、主イエスを信じた後の残りの生涯(地上の人生)は、よくよく気をつけなければならないとわかります。主イエスが神の御心を十分に知らされて、十字架で死なれるまで信じて100%従い通したようなことまでは、私たちは、できないと思います。

 しかし明日のことはわからないけれど(ヤコブ4:14)、私たちは、御霊の自由のなかで、泣いて歯ぎしりするのでなくて(マタイ25:30)、悔いのない生き方(後悔の残らない生き方)を、地上の歩みにおいてなしうるはずなのです。

 そういう意味では、パウロが手紙のなかで土台と家屋にたとえて語っていることを覚えましょう。Ⅰコリント3:10-15〈私は、自分に与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えました。ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。3:11 だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。3:12 だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、3:13 それぞれの働きは明らかになります。「その日」がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。3:14 だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。3:15 だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります〉。

 このパウロのたとえ話で、土台は、キリスト信仰を指します。そして〈金、銀、宝石、木、草、藁〉といった多様な材料の家は、クリスチャンになってからのおひとりおひとりの歩み(生き様・行動)です。『終わりなき日常を生きろ』と日本の社会学者は本を書きましたが、毎日の生活にも終りは必ずあるのです。しかしハルマゲドンで人の心を煽るのではなく、神から預けられた賜物から、自由な祈りと判断力で道を開きましょう。

(赦すことは赦された者の使命)

 さて今日は6:12の後半のことばも読まなければなりません。このことばは前半のことばと固く結びついています。6:12b〈私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します〉。キリストによって救われた私たちが、その救いを台無しにしてしまう、御霊を汚すような行為(マルコ5:29)は、他にもあるのかもしれません。

 しかし主イエスが、この祈りにおいても強調されているのは、自分に危害や損失を加えて自分に罪を犯した、その人の罪を赦すことです。私がキリスト教に本格的に触れたのは高校生のときでしたが、家からいちばん近かったという理由で通っていたカトリックの保育園時代がありました。そして年長さんのクリスマスのとき、保育園から「カトリックかるた」をもらいました。かるたのことばを今もいくつか覚えていますが、「ゆ」はこうでした。「ゆるせば、あなたもゆるされる」。

 人を赦すことの大切さと難しさ。このことは私たちの信仰にとって、どれだけ強調してもしすぎることはないかもしれません。皆さん、主イエスは山の上で説教を聴いている弟子たちに「主の祈り」を教えられたわけですが、今日の第五祈願6:12に強い力点を置いていることは、少し考えればわかることです。

 主はただ口移しで「主の祈り」を教える予定だったかもしれません。しかし、そうはなさらなかった。重要であり、困難であるがゆえに、「主の祈り」を教えた直後、主は6:12の説明を加えます。それが14-15節です。マタイ6:14-15〈もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。6:15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません〉。

 今日の週報に書いたとおり、1月4日は6:13からお話をします。しかし二週後の1月11日には6:14-15からお話をいたします。そこで語らせていただきたいのは、人間にとって、なかんずく信仰者にとって、自分に罪を犯すその人(他者)の罪を赦すことの、困難と重要性、つまり光栄について、です。

 私たちは終りの日(ある意味ハルマゲドン)に向かって歩んでいますが、そこに辿り着くために、日々の生活を疎かにせず、大事にしながら歩みを進めたいと思います。

 体調の困難を覚えながら、年を越される方もいます。経済の不安を抱えながら、新年の支度をしている方もおられます。何の心配もないという方はおられないでしょう。若い人には若い人なりの、年輩の方には年配者としての課題もおありのはずです。クリスチャンとしての地上の人生が、喜びと感謝の必ずあるものでありますように。

 本日の説教題を「赦すために赦される」としました。「赦されるために赦す」ではないのです。私たちが滅びや裁きから主によって救われたのは、ひとつは、神の愛によって天国に導かれるためですが、もうひとつは限りある地上の人生において、私たちも主に倣って赦しの花を咲かせるためです。これもまた、神の愛によります。聖霊の導きが必要です。罪の赦しこそ、キリストによる働きであり、キリストを証しします。

 祈りましょう。「2025年が終り、次の年を迎えます。天国に上げられた兄姉は地上の使命を全うし、今あなたの傍で憩っておられます。私たちが新しい年を迎えるとすれば、赦しの花を咲かせることで、終りある人生に足跡を残すことです。あなたと共に、またあなたが家族にしてくださった兄弟姉妹と共に、私たちは悔いのない人生、悔いのない終り方を目指します。終りがあることを知りながらも、一歩一歩確実に正しい道を歩ませてください。道から逸れそうなときは御霊によって引き戻してください。弱い者、背きやすい者であることを認めます。主よ、私たちの罪をお赦しください。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン」。