2025年12月21日「賛美するクリスマス」ルカ2:20

賛美するクリスマス   ルカ2:20

 本日は、日曜日。私たちの教会も大半の教会と同じように12月25日をイエス・キリストの降誕日(つまり誕生の祝い日)として覚えており、12月24日の夜にクリスマス・イブの礼拝をしております。どうぞ可能な方は24日の夜にもおいでください。

 そして本日のように、クリスマスに近い日曜日に、いつもの礼拝とは少し違う礼拝をささげています。Singing Christmasと銘打つようになって、今年が2年目です。コロナ禍のときは感染予防が第一でしたから、バイオリンやビオラやファゴットなどのプロの器楽演奏家をピアノの方と共に招いてクリスマスには音楽礼拝をしていました。

 それはそれでよかったのですが、コロナのリスクが社会的にも小さくなって、執事会で相談の結果、昨年から「皆で歌うクリスマス(Singing Christmas)」に変えました。コロナ禍では難しかったことの2つが教会でもしやすくなりました。ひとつは、飲食。もうひとつは、声に出して歌うこと。プロの方の演奏を聴くこともすばらしいのですが、自分たちで歌って、神を賛美できることも大切で、ありがたいことです。

 今日開いている箇所は、聖書に書かれている、いわばクリスマス・ストーリーですが、キリスト誕生を通して、二つのグループが歌を唱う場面でもあります。

 二つのグループとは、何でしょうか。それは、天の神から派遣された御使い(天使)たちであり、もうひとつは地上で生活している羊飼たちの一団です。この二つのグループが神を賛美していますが、どんなふうに賛美をしたのでしょうか。

 2:8から読みます。〈さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた〉。

 お祈りをいたします。「主なる神。クリスマスの礼拝をささげております。私たちに迫る、神の真理が、また主の栄光が、ただ目映いだけではなく、私たちにとってすばらしいものであり、人生を変える恵みであることを、この礼拝で知らしめてください。イエス・キリストのお名前で。アーメン」。

(羊飼たちに告げる神)

 「職業に貴賎なし」といいますが、ほんとうでしょうか。羊飼が育てていた羊たちは神殿で犠牲として献げられていたので、尊ばれていたとする説もあります。とはいえ、2:8によれば羊飼たちは〈野宿をしながら、羊の群れの夜番をして〉います。昼も夜もない仕事で、生き物を相手にしています。

 21世紀の今だから言うのかもしれませんが、生き物に直接関わる仕事がそれほど報われないように見えるのはどうしてでしょうか。農業、林業、漁業、畜産業。あるいは、人に関わる教育や福祉や医療の実際の現場で、ご苦労されている方たちがいて、家族を養えなかったり、家族に犠牲を強いたりする仕事であったりすることがあります。

 もちろんどんな仕事にも、ご苦労はあります。しかし人気のない仕事は存在します。割に合わない仕事は存在します。からだや心を壊しやすい仕事は存在します。

 何はともあれ、主イエス誕生を最初に伝えたいと神が願ったのは、王様や将軍ではありませんでした。お屋敷に住んでいる金持ちの一家でもありませんでした。権威ある宗教家や学者たちの集まりでもありませんでした。そうではなく、昼は太陽で日焼けをし、夜は眠気や寒さと戦いながら見張りをしている、羊飼たちでした。

 「怪力乱神を語らず」と申します。今日の箇所でも天使が現れた時点で「ああ、聖書は作り話」と思った方もいるかもしれません。しかし、そうではないのです。聖書のなかで、天使が現れるのは神のメッセンジャーボーイとして現れることが多いのです。

 すなわち人がまったく気づいていないけれど、神がこれをどうしても伝えたいと願ったとき、神は天使を派遣して、これはという人たちに知らせます。聖書に天使が登場する重大な意味。それは、私たちが見過ごしにしている大切なことを、神は人間とは異なる存在を使ってでも、知らせたいということです。

(その夜の賛美)

 神は一体何を知らせたかったのでしょうか。2:10-12〈御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」〉。

 羊飼たちは〈大きな喜び〉を聞かされる最初の人々に選ばれていました。それは〈この民(ユダヤ人)全体に与えられる〉ニュース。何百年も昔から同胞が意識していた〈救い主〉の到来です。ミカという名の預言者によれば、その救い主は〈ダビデの町 (ダビデ王の出身地)〉であるベツレヘムで誕生するのです。

 ユダヤの地も支配している、時のローマ皇帝は自らを〈救い主〉と名のっていました。しかしまことの救い主は、ユダヤの、それも小さな町のひとつであるベツレヘムに生まれるのです。そしてその方はユダヤの旧約聖書の伝統に従って〈主キリスト〉です。

 それにしても、です。神の喜ばしい知らせ(ニュース)というのは、考えようによっては傍迷惑な話ではないでしょうか。ローマ帝国の実効支配は、東の果てのユダヤにまで及び、軍隊が駐屯し、税金を集めるための人口調査が始まっていました。そんな時代に、ダビデ王の子孫として期待を集める救い主は危険この上ないのです。

 羊飼といっても素直な人ばかりではなかったでしょう。夜にベツレヘムの町を訪ねて顰蹙を買うのはごめんだ、と考えた羊飼もいたかもしれません。しかし羊飼たちは〈今日〉(その日)産まれた赤ちゃんを捜しに皆で出かけます。それは天使がひとりではなかったからかもしれません。2:13-15〈すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。2:14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」2:15 御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」〉。

 この出来事(羊飼たちの出立)は何に促されたのでしょう。天使は、ひとりだろうが、〈おびただしい数の軍勢〉だろうが神々しいに違いありません。これは、神のことばを音楽に乗せて運ぶ、賛美の力によるものだと、私などは思います。

 聖なる神は、選民イスラエルの賛美を住まいとされます(詩篇22:3、新改訳第3版)。また〈主を喜ぶこと〉が選民の力となるのです(ネヘミヤ8:10)。羊飼たちは衆議一決、一致して、神のことばに従おうとするのです。

(しるしは飼葉桶)

 そのように羊飼たちは、言ってみれば勤務時間であったのですが、おそらく羊を放り出すのではなく、夜なのに羊を起こして、メイメイ鳴く羊を追い立てながら、静かな町に厄介な一行として向かっていったのです。

 最初の天使のお告げをしっかり聴いていた羊飼が、ひとりでもいたことは幸いでした。羊飼たちが話し合うなかで、救い主は〈布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりご〉であることが確認されました。飼葉桶に寝かされているとは面妖なことだと思いつつも、飼葉桶があるのは家畜を飼っている場所に違いなく、それなら羊飼である我々が羊を連れて訪ねても大きな問題はないだろう。その程度には、思ったはずです。

 実は〈飼葉桶〉とは、このルカ2章の前半部を読んで理解する上で、外すことのできないキーワードです。〈飼葉桶〉は産まれたばかりの救い主を示す徴(証拠)でした。

 〈飼葉桶〉は、旧約聖書の預言にあったアイテムではありません。しかし、まさしく人類を救うキリストの謙卑を示す象徴のひとつです。もとより〈飼葉桶〉は、やむをえない必要から、幼子のベビーベッドとなった代物です。

 2:6-7にこうありました。〈ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、2:7 男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである〉。

 ローマ帝国肝煎りの人口調査で、ヨセフとマリアは、ガリラヤのナザレから、ユダヤのベツレヘムまで、五日ほどの旅をしていました。そして〈宿屋には彼らのいる場所がなかった〉とあります。〈宿屋〉には〈客間〉という意味もあるそうですから、人間だけが落ち着く場所がマリヤとヨセフには提供されなかったとわかります。それは、人の泊まる場所が満員だったからか、謂れなき差別だったかはわかりません。

 私たちひとりひとりがそうであったように、イエスもまた、女性の胎内から出て、地上の人生を始めました。そして産まれてきた子を寝かせる場所が必要になります。マリアとヨセフは機転を利かせて、馬や牛の餌箱をひとつ、産まれたばかりの幼子のために拝借します。これは、持たざる旅人(母親)のたくましさと言うべきでしょう。

 主イエスは、救い主であり、罪のない神の子ですが、それ以外は、私たちと同じ人間でした。裸で産まれますが、すぐに産着が必要でした。産まれたばかりの主イエスが布にくるまれていたこと(あるいはおむつを充てられていたこと)は、救い主として産まれたこの方が、私たちと同様な人間であったことを物語っていると思います。

 しかし〈飼葉桶〉。これはふつうのことではありません。あの時代であっても、まことにユニークです。またユニークであるだけでなく、悲惨です。羊飼たちは捜しやすく、訪ねやすいかもしれませんが、マリアたちだって嬉しい気持ちで飼葉桶を採用したのではないはずです。

 先日の説教でも聴きましたが、幼子イエスの飼葉桶は、救い主イエスの十字架につながるし、予告のような出来事でもあるのです。これはメシアの低さです。神が人となって、赤ん坊として産まれて、しかも飼葉桶に寝かされたということは、神がとことんまで私たちの困難や悲惨に付き合ってくださるという有難い徴です。メッセンジャーである天使も、2:12で〈それが、あなたがたのためのしるしです〉と言ったのです。

 飼葉桶は、徴でした。主イエスの生涯を通じて、絶えず周りにいた、貧しい人たちのたくましさの象徴もあると私は信じます。もちろん、いま言いましたメシアの低さをよく表わしています。そして、それだけでなく、メシアの救いを〈飼葉桶〉は表わしています。すなわち、キリストは、悲惨で醜いこの世界に来てくださっただけではなく、悲惨で醜い私たちの心のなかに宿ってくださるということです。メシアの低さは、十字架の低さですが、同時に貧しい私たちにとって救いの光栄となるのです。

(羊飼たちの訪問によって)

 〈飼葉桶〉ということば。それは2:7と2:12、そして2:16に記されていることばです。2:16〈そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた〉。私たちも〈急いで行って〉主イエスのもとに駆けつける必要があります(それで今日私たちは礼拝に集っています)。

 今日の世の中には、偽りの救い主がたくさん現れていますが、私たちは飼葉桶と十字架こそがまことの徴であることを覚えたいと思います。そして私たちの礼拝が、周囲や自分の将来に影響をあたえることも覚えたいと思います。

 2:17-18によれば、ベツレヘムの住人たちであったと思いますが、羊飼たちによってキリストの話を聞くことになります。私たちも礼拝で恵まれて、他の人たちにキリストとその救いを語ることになるのです。

 また2:19によれば、主イエスの母マリアにとって忘れられない出来事となります。マリアは妊娠が与えられるとき天使が遣わされました。親戚のエリサベツと励まし合うことができました。夫となるヨセフも夢で天使のお告げを聴いて事態を理解し、同じ信仰に立つ者になりました。しかしベツレヘムまでの旅で、羊飼が来るまでの仮住まいで、神の奇跡は現れていませんでした。マリアにとってもヨセフにとっても、羊飼来訪はどんなにか励ましとなり、力になったことでしょう。

 しかし何といっても、天使のお告げを聞いて、幼子に出会った羊飼たちは、大きく大きく取り扱われておりました。2:20〈羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った〉。

 それは天使の大群のような美声ではなかったかもしれない。訓練された発声でもなく、2:14のような素晴らしい歌詞でなかったかもしれない。しかしイエス・キリストを通して「神の真実」に出会った者は、喜ばずにはいられない、賛美せずにはいられない。私たちもまた、羊飼たちのようにされています。 祈りましょう。

「愛する神。天使たちの賛美に触発されて、羊飼たちはキリストを求める者、そして主イエスを信じる者に変えられ、自らも神を讃える者となりました。私たちも礼拝と生活のなかで、あなたの真実に触れ、喜びの証人、福音の使者に、ますますなれますように。教会のかしら、われらの主、イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。