ことばは肉体をとられた ヨハネ1:9-14
ブライアン・ラスキー先生(通訳:木森隆)
皆さん、おはようございます。
クリスマスにご家族でする特別な習慣はありますか?
私の子供の頃でしたら、祖父母の農場に行って夕食を食べるという習慣がありました。
今の私の家族でしたら、例えば、クリスマスイブにはいつも1つのプレゼントを開けることにしています。
特別な楽しみというほどではありません。プレゼントの中身はクリスマス用のパジャマセットとかです。それでもやっぱりプレゼントはプレゼント(楽しい気持ちになります)。
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しかし、妻のレイチェルと結婚したとき、妻の家庭にも独特なクリスマスに関する伝統的なやり方があることに気づきました。
レイチェルと私の期待するところは、お互いに違っておりました。
例えば、私の家では、いつも本物の木を買ってクリスマスツリーにしました。
一方、レイチェルの家族では、作り物の木を買って、それを何度も使っていました。
アメリカでは、クリスマスプレゼントと言っても、2種類あります。靴下の中に入っている特別なプレゼントと、普通のプレゼントです。私の家では、まず普通のプレゼントを開けてから、靴下のプレゼントを開けていました。
レイチェルの家族では逆に、まず靴下のプレゼントを開けてから、普通のプレゼントを開けていました。
ですから、私たちは決断しなければなりませんでした。どちらかの家庭の伝統を維持して、どちらかを捨て去てなければいけません。私たちはどうしたと思いますか?
皆さんの予想通り、私たちの家族は作り物のツリーを使い、最初に靴下を開けることにしました。妻のほうの伝統が私たちの伝統になりました。
それしかありませんよね?
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これはクリスマスだけではありません。
私の家は犬(を飼う)派で、レイチェルの家は猫(を飼う)派でした。
だから、結婚後、当然のように飼ったのは…猫!
そう、ここにいる夫となった皆さんなら、私の言っていることを理解してくれると思います。
もちろん、私の家族から取り入れたこともあります。例えば、レイチェルの家ではプレゼントを一斉に開けていました。それはもう、大混乱です。
私の家族は、順番に一人ずつプレゼントを開けていました。
結婚後、クロエとハンナ(娘たち)には、一人ずつ開けるようにさせました。
誰が誰からプレゼントをもらったのかなど、プレゼントを開ける人に集中させることができるからです。そのような配慮は当たり前のことでしょう?
これこそ正しい方法です!今のは冗談です。それぞれの家のスタイルがあるというだけです。
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事実、夫として妻の視点や考え方を理解するのは難しいことがよくありますが、それはお互い様です。英語には「相手の靴を履いて1マイル歩け」ということわざがあります。それは「相手の立場に立って考え、なぜそう考えるのか、なぜそう行動するのかを理解しようとする」という意味です。
相手の靴を履いて(すなわち相手の立場に立って)歩むというのは、結婚生活に限らず、あらゆる人間関係において難しいことかもしれません。
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人間同士でさえお互いを理解するのが難しいのなら、どうして私たちは神とつながったり、神を理解したりできると信じられるでしょうか?
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イザヤ書55章で神はこう宣言します。「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」(55:9)。
多くの宗教は、神は遠く離れていて、人は知ることも、近づくこともできない存在であると説明します。
同時に、自分たちの世界を見回すなら、分断、罪、依存症、戦争、対立があふれています。もし私たちの救いが神との関係を自分で修復することにかかっているのであれば、それは率直に言って絶望的です。
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幸いなことに、ヨハネの福音書1章では、希望が与えられているのです。「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた」(1:9)とあります。
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これが本日の大きなポイントです:クリスマスに、神様は私たちに届くために最も遠い距離を越え、私たちの人生を永遠に変えてくださいました。
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本日の箇所は、ヨハネの福音書の冒頭部分からです。聖書の中で、最もよく知られている言葉のひとつです。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(ヨハネ1:1)。
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ヨハネの福音書は、しばしば、霊的な現実や、物事の背後の意味について語っています。例えば、イエスが神のことばとして描かれているのは、この世界がイエスを通して創造されたからです。
創世記では、神が語り、天が創造されました。ヨハネは、三位一体のその部分をイエスと結びつけています。10節「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった」。
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世はイエスによって作られました。だから、ヨハネは、福音書の冒頭で、イエスが神であることを説明するために多くの労力を費やしています。
今日は、この箇所を取り上げたいと思います。なぜなら、これは究極的にはクリスマスの箇所だからです。他の福音書では、イエスの誕生は、この世での誕生という観点から説明されています。イエスはベツレヘムで、ダビデの子孫として生まれたことが語られます。
でも、この福音書では、ヨハネは「なぜ」について語っています。イエスがこの世界に来たのはなぜか。この「なぜ」を説明するために、ヨハネはイエスが「どこから」来たのかに焦点を当てています。
イエスは天におられ、栄光のうちに、父なる神と一つでしたが、それらすべてから離れ、私たちの一員となられました。なぜでしょうか?
12-13節:
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」
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聖書は言います。「そのとおりです。自分の力で、救われる道はありません。」もし、あなたの力だけなら、救われる見込みはありません。
しかし、幸いなことに、神はあなたをとても愛しておられたので、あなたから離れませんでした。
神は御子をあなたのために天から地へと遣わし、人間の姿をとって、あなたのために道を用意しました。
14節「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」。
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ギリシャ語の直訳は「人」ではなく「肉」です。
これがクリスマスのメッセージです。イエスは謙遜になることを選び、人間になるだけでなく、赤ん坊になられたのです。
神が人間の姿になりました。神を信じた全員が救われるために、神は完全に無防備な姿になりました。
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これがキリスト教でいう「受肉」です。
イエスは天を離れ、人間となりました。
なぜこれがそれほど重要なのでしょうか?理由は2つあります。
ひとつめは、人間となったことで、イエスは私たちと同じように、私たちが送るべき人生を送ることができたということです。私たちが経験するのと同じ誘惑を経験しながらも、罪を犯さない人生があることを示しました。
イエスは私たちに模範を示し、道を示してくださっているのです。
ふたつめの理由は、人間となったことによって、イエスは十字架上で私たちの罪を背負うことができました。それにより、私たちが完全に、神と回復された関係を持つ道が開かれたのです。
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ご存じのとおり、クリスマスには、私たちはしばしば飼い葉桶に注目します。
でも、飼い葉桶は必然的に十字架へとつながるのです。
イエスは私たちの罪のいけにえとして死ぬために生まれ、私たちの恥を取り除き、私たちを、神の家族、神の息子や娘として迎えてくださるのです。
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イエスは(神と人をつなぐ)架け橋です。なぜなら、イエスは完全に神で、完全に人間でもあるからです。
私たちの状況に身を置いて、私たちが壊れてしまったその場所で私たちと出会って、私たちに命を与えてくださいました。
イエスがクリスマスに赤ん坊とならなかったなら、私たちは新しい命も救いも、受け取れなかったでしょう。(単純なことです。)
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人々は時々、イエスを私たちの模範、道徳的生活の代表例と見なそうとします。
イエスはまさに人生のお手本ですが、それだけではありません。
イエスは自分が神であると主張しました。そして、死と復活を通して、あなたや私を救い、永遠の命を与えるために生まれてくださいました。
このことをクリスマス・ストーリーから切り離すことはできません。
神の言葉が肉体をとって、私たちの間に住まわれたことは、それを実現させるために絶対的に不可欠なことでした。
事実、それは歴史上最大の異文化交流でした。
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宣教師として、私は違う文化の中で暮らすことを体験しています。
新しい言語や新しい生活様式を学ぶのは、信じられないほど難しいことだと思います。
もしそうだとしたら、神が天から降りて幼子となるのは、どれほど信じられないことでしょうか?天の現実から地上の現実へと渡り切りました。全ては、神が、私たちに届くため、私たちを救うためにしてくださったことなのです。
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なぜ受肉が必要なのでしょうか。受肉こそが、神をほんとうに知り、神によって救われることを可能にするからです。
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私が言わんとすることを理解していただくために次の話をさせてください。
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その昔、イエスを信じない農夫がいました。雪の降るクリスマスイブの夜、農夫の妻は子供たちを連れて地元の教会の礼拝に出かけました。夫にも来るように誘いましたが、農夫は断りました。
「そんな話はくだらない!なぜ神が自らを落としめて、人間として地球に来る必要があるんだ?そんなの馬鹿げている!」と彼は言いましたので、妻と子供たちは教会を出かけ、夫は家に残りました。
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しばらくすると風が強まって、雪は猛吹雪となりました。窓の外を見ると、目の前が見えないほどでした。彼は夕食をとるために座りました。すると窓からドスンと大きな音がしました。さらに、また、ドスンと音がしました。外を見ましたが、数メートル先しか見えません。雪が少し弱まってきたころ、窓に何が当たったのか確かめるために外に出てみました。
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家の近くの野原で、彼は野生のガチョウの群れを目撃しました。どうやら、冬を越すために南へ飛んでいたところ、吹雪に巻き込まれて進めなくなったようです。迷子になってしまい、食料も避難所もないまま、彼の農場に取り残されてしまいました。ただ翼をバタバタさせて、野原の上を低空で旋回して、当てもなく、ただひたすら飛び回っていました。そのうちの数羽は、彼の家の窓にぶつかったようです。
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男はガチョウをかわいそうに思い、助けたいと思いました。彼は、納屋がいちばん良い避難場所になるだろうと考えました。そこで、納屋まで歩いていき、扉を大きく開け、ガチョウの群れが中に入ってくれることを期待しながら、様子を見守りました。
でもガチョウの群れはただあたりをフラフラと飛び回るだけで納屋に気づく様子はありません。まして、納屋が避難所になることと理解する様子はありませんでした。男はガチョウの注意を引こうとしましたが、ガチョウを怖がらせるだけで、さらに遠くに移動してしまいました。
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男は家に入って、パンを持って戻ってくると、それを砕いて、納屋まで続くパンくずの道を作りました。それでもまだガチョウは気づきませんでした。
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男はだんだん苛立ち始めました。後ろから追い立てて納屋の方へ行かせようとしたのですが、ガチョウたちはますます怖がって、納屋以外のあらゆる方向に逃げてしまいました。何をしても、ガチョウたちを納屋に入れ、暖かく安全に過ごさせることはできませんでした。「なぜついてこないんだ!」と彼は叫びました。「嵐から生き延びられるのはここだけだということがわからないのか?」
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彼はしばらく考えて、ガチョウは人間についてこないことに気づきました。「もし自分がガチョウだったら、ガチョウを救えるのに」。そして、彼はアイデアを思いつきました。納屋に入って、自分のガチョウを一羽捕まえ、腕に抱えて野生のガチョウの後ろに回り、それから自分のガチョウを放しました。農夫のガチョウは群れの中を突っ切ってまっすぐ納屋に向かって飛んでいきました。すると、他のガチョウも次々とそれに続いて安全な場所へと続きました。
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彼はしばらく黙って立っていました。数分前に自分が発した言葉が頭の中で繰り返されました。「自分がガチョウだったら、ガチョウを救えるのに!」そして、彼は妻に言ったことを考えました。「神がなぜ私たちのようになりたいと思うのか?そんなの馬鹿げている!」
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突然、すべてが腑に落ちました。それが神が為されたことだったのです。私たちはまるでガチョウのようです。盲目で、迷子で、放っておいたら死んでしまいそうでした。
神は私たちに道を示して、救うために、御子を私たちのようにお遣わしになったのです。それがキリストの誕生が意味するものだったのだ、と彼は悟りました。
吹雪が収まると、彼は起こったことを振り返りました。突然、神がなぜ人間になったのか、イエスが来られたのかを理解したのです。
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イエスは私たちと同じ者となってくださったので、あなたと私は救われるのです。
12節には、イエスを通して、私たちは神の子どもとなることができると書かれています。 あなたと私も、同じように生活しなさいと召されています。
私たちの文化の中に入って、友達、隣人、同級生、同僚の間で、イエスが受肉したように、生きることが、私たちに求められているのです。
どういう意味でしょうか?人が教会にやって来るのを待つだけではなく、私たちが人々のいる場所に行って、イエスがしたように私たちも人々と共に生活しなければいけないという意味です。
友人となり、キリストの希望を分かち合う前に、私たちが信じていることを人々に信じさせようとしたり、私たちがしているように行動させたり、私たちが話しているように話させようとしたりしないということです。
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14節の終わりには、イエスは恵みと真理に満ちておられたと書かれています。
私たちも、同じようにする必要があります。恵みか真理のどちらか一方だけに集中してしまうことがあります。
人と関わる中で、時々、恵みなく真理を伝えてしまうことがあります。
イエスから与えられた愛や恵みを示しないで、罪について警告することがあります。
信頼関係を築くことなく、相手にきつい口調で話すことがあります。
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一方で、時々私たちは恵みだけを示して、真実を語らないこともあります。
人間関係の調和を保って、人に恵みを示すことに集中するあまり、真実を伝えることを恐れてしまうのです。
特に今日の社会では、人は誰でも、その人が行うことすべてを肯定して、同意しなくていけないと要求されます。「私の選択を肯定してくれないなら、あなたは愛がない」と世間は言います。
だから私たちは、聖書にある真実を口にしないようにします。なぜなら、それはあまりにも危険だからです。
でも、誰かと意見が合わなくても、その人を愛することはできます。事実、誰かにとって最も愛情のある行動とは、真実を伝えることという場合もよくあります。
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イエスは、恵みに満ち、同時に真理(真実)にも満ちておられることを示されました。
罪を指摘することをためらうことなく、ユダヤ社会で最も低い階級とされていた人からも歓迎されました。 取税人や罪人たちと呼ばれる人たちです。
イエスは彼らを罪から離れさせ、彼らと関係を築きました。
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今日の締めくくりとして、皆さんにお勧めしたい2つのステップがあります。
まず、あなたは神様との関係を持つことが必要でしょうか?
イエス様を信じて、救い主として受け入れてください。クリスマスのストーリーの希望は、イエス様が皆さんのために来てくださったということです。
もしかしたら、クリスチャンだったとしても、イエス様から離れていたかもしれません。それでも大丈夫です。今日こそ、イエス様の元に戻るチャンスです。
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次に、あなたの日常生活の中で、文化を超えて、イエス様の福音、良い知らせを伝える必要がある人は誰でしょうか?
別の国に移住したり、別の言語を学んだりする必要のない方もおられるでしょう。
でも、皆さんも宣教師です。皆さんは誰か思い当たる人がいるのではないかと思います。神様がおられて自分を愛してくれている、そしてその愛を伝えるために神ご自身が御子を遣わされたことを知らない人がいるはずです。
その人と友達になって、あなたの生活を通して神の愛を示してください。時が来たら、イエスとクリスマスの本当の意味について話してください。クリスマスのシーズンは教会に招待したり、イエスについて話したり、しやすいでしょう。神は、誰のところにイエス様の良いニュースを伝えるように、あなたを導いているでしょうか?
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祈りましょう。
