来る日の糧をいのちとする マタイ6:11
まだクリスチャンではない日本人が、クリスチャンの家に食事に招かれたとします。招かれて驚くことのひとつは、食事の前にお祈りをすることではないでしょうか。日本人は食べる前に(とくに家庭では)「いただきます」と言う習慣はありますが、この「いただきます」を「神さまに申しています」という人は少ないでしょう。
みんなでご飯を食べるとき「いただきます」と言うことはあっても、ひとりでご飯を食べるとき「いただきます」という人は少ないです。ひとりでご飯を食べるときにも「いただきます」と言う人は習慣としてそう言っているのかもしれません。明確に「神様、これから食べます」と思って「いただきます」と言う人は、もっと少ないでしょう。
しかし日本人であっても何人であってもイエス・キリストを信じた人は、口に出すか黙祷であるかは問わず、食事の前には感謝の祈りをする人がほとんどです。その理由を断言することはできませんが、やはり今日の箇所が大きな原因なのではないでしょうか。主は「主の祈り」のなかで、私たちに〈私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください〉と祈るようにも教えられたのです。そうです。「主の祈り」。今週も私たちは、主イエスが教えられた祈りのお手本を学びます。
「主の祈り」の学び。先週は〈みこころが天で行われるように、地でも行われますように〉でした。天地の造り主である父なる神に呼びかけて、神の名の聖であることを祈り、神の国の到来を祈り、神の心の実現を祈りました。そのあとに〈天におけるように地の上にも〉と続きます。
そうです。心に視線があるとすれば、祈る人は〈天にいます私たちの父よ〉と呼びかけているのですから、天に目を向けているのです。そして〈あなたの名前〉〈あなたの支配〉〈あなたの思い〉と神に関わる事柄が祈られてから〈天におけるように〉。そして〈地の上にも〉と続くのです。
目線は上から下へ。天から地上へ。神から人へと降りていくのです。聖書が示している救いは、人が神と出会い直すことです。しかし人から神へと至ることはできません。神のほうが人のほうへと降りてくださって、人のために道を説き、ご自身が道となって道を開いてくださった救いです。
私たちそれぞれの祈りも「主の祈り」に導かれていますが、神の御心も、天においてだけではなく、地において、私たちの世界に(身の回りに)実現していく。そのことのひとつとして、あるいはその第一として〈私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください〉と祈るのです。
一言祈ります。「愛するイエス・キリストの父なる神。あなたは天におられるだけではなく、あなたは御子イエスを地上に生まれさせ、御子のゆえに『地に降られた』お方にもなられました。〈日ごとの糧〉も、罪の赦しと同じくらい大切な祈りの課題です。そのことを学びます。主よ、今日の礼拝も助けてください。聖霊の迫りと力によって、説教者を強め、また私たちの心の耳をしっかりと開いてください。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン」。
(主イエスも空腹を覚えた)
光合成をする植物と、動物の違いのようなことでしょうか。光合成とは、ご存じのように、葉緑素をもつ植物が、光のエネルギーを用いて、吸収した二酸化炭素と水分とから澱粉や糖などの有機化合物を合成することです。植物の場合、動物とは違って、光合成によって生き物としてのエネルギーが、自分で造り出せるような感じです。
しかし動物はどうでしょうか。生き続けるために、草食動物は植物から命を、肉食動物は他の動物から命を、そして私たち人間は雑食動物ですから植物からも他の動物からも食物として命を摂取しています。人間は象よりも小さいし、ライオンよりも弱いですが、万物の霊長と呼ばれて食物連鎖の頂点にいます。
人間は自分で炭酸化合物をつくりだすことはできず、外から栄養を摂取する必要があります。別の言い方をすると、人間は別の生き物のいのちをいただいて、からだを成長させ、機能を保ち、エネルギーを得ています。人間は食べ物を得ていますが、食べ物に依存しているという見方もできます。
そんな人間のために、主イエス・キリストはご自分をパンに喩えられました。ヨハネ6:35&56〈わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません〉。〈わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります〉。ご自分をパンとして食べるように奨められたのは、直接には聖餐式のことではありません。私たちが心のなかにイエス・キリストを神の子である救い主としてお迎えすることを指しています。信じなければ救われないのです。主イエスを信じるとは、主イエスが生きておられると信じて心のなかにお迎えすることです。
食物から来る栄養が、人間のいのちにとって必須であるように、神の子の聖霊が、人間のもうひとつのいのち(魂のいのち)にとって必須なのです。
そして、主イエスもまた、人間にとって食物あるいは栄養が必要であることを知っていました。主イエスは、福音宣教を始める前、荒野で40日間断食をされましたが、そこで空腹を経験されました(マタイ4:2)。肉体や健康の維持のため、栄養が主イエスにも必要でした。主イエスもまた、私たちと同じような人間になられたからです。
(パンはどこから来るか)
旧約聖書を読むと、深刻な飢饉の話は幾つも出てきますが(創世記40-50章、ルツ1:1、Ⅱ列王6:24-7:20)、一方で、信仰的な発言が詩篇にはあります。〈すべての目はあなたを待ち望んでいます。あなたは時にかなって彼らに食物を与えられます。あなたは御手を開き生けるものすべての願いを満たされます〉(詩篇145:15-16)。
聖書の神、主は、人に食物を与えられます。この食事の費用は、自分が稼いだとだけ思ってはなりません。働くことのできた環境や健康は、どこから来たのでしょうか。家族や働く仲間を思い浮かべ、社会の平穏にも感謝ができます。さらにいえば、食べ物を生産した業者さん、食べ物を運んだ業者さん、売ってくれた業者さんがいます。
自然のメカニズム。社会の仕組み。天の時、地の利、人の和があって、守られてもいるし、進んでもいるのです。〈私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください〉という祈りは、食事の感謝にもつながりますし、もっときびしいときにも真剣に祈り願ってよいことを表わしています。
〈私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください〉。この祈りのことばは〈来る日の我らのパンを今日も与え給え〉(田川訳)とか〈われらのその日の糧をきょうもお与えください〉(前田訳)とも訳せます。ある人の説明によれば、朝起きたときには今日のご飯、夜寝るときには次の日[明日]のご飯を求めることばが、要は〈日ごとの糧〉なのですが、その日その日の〈来る日〉でもあるのです。
そして〈日ごとの糧〉であって「日ごとの金」でないことも興味深いのではないでしょうか。お金は金庫や銀行に貯えることができます。もちろん米や麦も倉を建てて蓄えることができます。近ごろは冷蔵庫や冷凍庫を使って保存の利く食物も増えました。
しかし人間のお腹はそうではありません。いくらでも食べ物が買えて、健康で大食いな体質でも、一度に食べることのできる量は限られています。大食いチャンピオン(フードファイター)がふつうの人の10倍食べることはできても、一度に100倍も1000倍も食べられるはずはありません。ある量を摂取して、生活し、お腹を減らして、また食べることができます。
私たちは、祈りに専念したり、健康上の理由で、断食したりすることもあるかもしれません。しかしふつうに生活をしてても、食事や栄養補給のたびに〈私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください〉と言って祈ることができます。「主の祈り」は私たちの神信仰と日常生活を定期的に結びつけることができるのです。
(私たちとはだれか)
〈日ごとの糧〉とは、その日の糧、来る日の糧、という意味だというお話をしました。加えて大事なことは〈日ごとの糧〉は、神からもたらされるものですが、〈私たちの〉と書かれていることです。〈日ごとの糧〉は天の父から私たちに下されたものであって、私たちのその日のうちにいただき、いのちの力とするものです。アーメンですか。
では、それは〈私たちの日ごとの糧〉の〈私たち〉とは、だれのことでしょうか。もちろん〈私たち〉ですから〈私自身〉は入ります。食卓でご飯を食べているときなら、テーブルで美味しそうに食べている〈私たち〉全員かもしれません。今日はお休みだった、あのメンバーも〈私たち〉に入る(入れる)でしょうか。
しかし、そればかりではないでしょう。〈私たち〉とは世界全体の人間だ。水も食糧もない、困った状況の人たちすべてを〈私たち〉に含みます。〈私たちの日ごとの糧〉を願う、この祈りのことばは、だから全世界のための「とりなしの祈り」にもなるというのです。
考えてみれば、この世界は食べ物においてさえ不平等です。知恵の書である箴言は言います。箴言25:2〈富む者と貧しい者とは互いに出会う。これらすべてを造られたのは【主】である〉。しかし、またこうも言います。箴言30:8b-9〈貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください。私が満腹してあなたを否み、「【主】とはだれだ」と言わないように。また、私が貧しくなって盗みをし、私の神の御名を汚すことのないように〉。この箴言のことばにあるように、富にも貧しさにも落し穴があります。あまりにも貧しければ、人は盗みをします。富む者が分かちあうこともせず、富を独占すると高慢になり、せっかくいただいた信仰もなくしてしまいます。ダビデの後継者ソロモン王は豊かでしたが、やがて妥協的な信仰者となりました。
先日私たちはH姉からの訴えを受け、これは地域教会のなすべきことと信じて、姉妹の母国にある母教会にお見舞い金を送りました。台風の被害が大きくて深刻だったからです。私たちの教会は大きな教会ではありませんし、日本通貨である円の価値も低くなっていますが、皆さんがよく献げてくださって、そちらの教会に喜んでいただくことができました。私たちの教会の2025年のテーマは世界を愛する教会でしたが、図らずもそのテーマに沿った働きをすることができ、主の御名を崇めました。
一体、クリスチャンの隣人愛とは、どれほどのポテンシャルを持ったものなのでしょうか。私たちの心はいつまで経っても定まりきれないところがあるので、聖霊の助けがなければ、いつでもあっという間にひっくり返る危うさを持っています。それでも、私たちはキリストの犠牲の愛に倣って、大きな隣人愛を抱くことがあります。
ガラテヤ人への手紙のなかで、使徒パウロに関する、こんな一節があります。これは実現する必要もなかったし、実際に実現しなかったけれど、おそらく深刻な目の病気であったパウロのために、信徒たちはパウロに病があるからと軽蔑することも嫌悪することもなかったのです。逆に、その兄弟たちは、よそ者であるパウロを、むしろ天の御使いかイエス・キリストであるかのように受け入れました。そしてパウロは手紙のなかでこう記しています。ガラテヤ4:15b〈私はあなたがたのために証ししますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出して私に与えようとさえしたのです〉。
自分の目をえぐり出して、パウロに渡したからといって、医学の未発達な1世紀に何ともなるわけはないのに「そんな愚かで大きな犠牲の愛が教会にはありました」とパウロは言っているのです。しかしこれが十字架でいのちを捨てたキリストを救い主と信じ、聖霊をいただいてキリストに倣っている教会のポテンシャルです。そんな大きな愛がマグマのようにあるからこそ、教会はいつも適切な判断や政治が必要とされます。
ある資料によれば、いま全世界で飢餓人口(栄養が足りなくて健康を保つことのできない人)は世界人口の11人にひとりの割合で、約7.3億人もいるそうです。また世界では、一日に何食分の食糧が廃棄されているかというと、一日1000食分でも、10万食分でもなくて、何と10億食分なのです。私たちは私たちで必死に生きていますが、世界全体で富の偏在があることを忘れないようにしたいと思います。
〈私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください〉。この祈りについて本日は学んできました。今日からアドベントですし、主イエスがお生まれになったベツレヘムについて少しだけ思い巡らします。ベツレヘムは、エルサレムに近い、しかし小さな町でした。預言者ミカの預言のとおり、主はベツレヘムでお生まれになりましたが、ベツレヘムとは、もともとの意味はパンの家という意味です。パンの家、ベツレヘム。小麦の収穫が豊かだったのでしょうか。しかしルツ記によればベツレヘムにも深刻な飢饉が訪れたときがありました。そして主イエスが産まれた後、救い主を喜ばなかった独裁者によって嬰児虐殺が起こった場所でもあります。今日もそうですが、悲劇はどこにでも起こりうるし、祈祷課題は無限にあるのです。
「主の祈り」の一節に、実際のパンや生活のための祈りがあることに感謝したいと思います。この祈りのゆえに、私たちの信仰は、現実の生活と切り結び、物心両面の悲惨にも心を開くことができるのです。〈私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください〉。インマヌエル、アーメン。
