神の心に信頼する マタイ6:10b
儒教を開いた孔子のことばに「修身斉家治国平天下」というのがあります。
修身というのは、自分の身をおさめること。生活や行いを正しくすることです。
次の斉家というのは、家をおさめること。家族を世話し、家庭を整えることです。
治国というのは、国をおさめることです。儒教というのはもともと政治思想だったわけで、国に不正や混乱がなく、よい統治者によって巧みに統治されていることです。
そして平天下というのは、その国の周り、あるいは世界の全体がおさまることです。
天下国家を論じるにしても、まずは自分自身を正し、次に家庭も大切にして、その次に国だろう。そして国の周りや世界の全体に良い影響が及ぶという順番。身近なところから道徳性の行き渡った平穏や無事ができあがっていく、そういうモデルです。
また、こうして、どの領域でも統治(おさまり具合)が大切であることが分かります。よい統治というのは、秩序と自由の両方が担保されていることかもしれません。前回の「主の祈り」の学びで、私たちは〈御国が来ますように〉という祈願文を学びました。〈御国が来ますように〉とは、神の支配(神の統治)を願う祈りです。
私たちは、自分自身にも、ご家庭にも、神の支配を願っておられるでしょうか。また、それが、所属している国であれ、実際に住んでいる国であれ、神が治めてくださることを願っておられるでしょうか。世界の全体を覚えながら〈御国が来ますように〉と祈ることは、この世のすべてが造り主によって治められていくのを願うことなのです。
今日の学びに期待しつつ、一言お祈りいたしましょう。
「イエス・キリストの父であり、私たちの父となってくださった、天におられる神。私たちは、あなたのお名前が聖なる特別なものとなることを願います。また、あなたの御支配があらゆる分野に及ぶことを願います。本日の祈りは、あなたの心、あなたの御思いに、集中した願いです。主よ。いつも私たちはあなたの御心を意識しておりますが、本日は格別に私たちは心を開こうと願います。主よ、聖霊ご自身を遣わして私たちの心を開いてください。イエス・キリストの麗しいお名前で祈ります。アーメン」。
(ルカにはない祈り)
本日は〈みこころが天で行われるように、地でも行われますように〉を学びます。
すでにお話をしましたが、聖書に記された「主の祈り」には並行箇所があります。ルカ福音書の11章です。私たちはマタイ福音書を開いていますが、ルカ福音書の「主の祈り」とマタイ福音書の「主の祈り」には違うところもあります。
そのひとつが、実は本日の〈みこころが天で行われるように、地でも行われますように〉なのです。ルカ11章には〈御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように〉というマタイと同じ祈りが書かれていますが、その次の〈みこころ〉の祈りがないのです。マタイの「主の祈り」のほうが完成された感じがしますが、ルカの「主の祈り」が不完全というのでもありません。どう調和させるか。考えどころです。
ある人(バークレー)は、〈御国〉の祈りと〈みこころ〉の祈りは、旧約聖書の並行法と同じで、後半が前半を繰り返して、同時に説明したり補足したり規定したりしていると考えます。この二つの祈りによって、神の国の完全な定義を描いているというわけです。すなわち「神の国とは、神のみこころが天で完全に行われるように、地上で行われている社会である」。バークレーはそんなふうに説明しています。
つまり〈御国〉の祈りと〈みこころ〉の祈りは、それぞれ独立した祈りでもあるけれど、相補う一組の祈りとしても理解するのです。またバークレーほど詳しい説明をしなくても、第三の祈りが第二の祈りを説明しているとか、繰り返して強めていると、説明する人も多いのです。
(神には心がある)
前回の「主の祈り」の学びで、〈御国が来ますように〉という祈り(御国の祈り)は「主の祈り」の心臓のような部分だと申しました。その理由は〈御国〉すなわち〈神の国〉がイエス・キリストの福音(良い知らせ)のテーマでもあるからです。その〈御国〉の祈りが、続く第三の祈りによってはっきりとしてきます。
そしてこの第三の祈りの表象は何かといえば、〈心〉です。神の〈意思〉(岩波訳)と言い換えてもいいでしょう。また〈みこころ〉の代わりに〈御旨〉(田川訳)と訳している日本語訳聖書もあります。私たちが〈天にいます私たちの父よ〉と呼びかけている方には心があるのです。
神には心がある。「なぜ当たり前なことを言うのか」と、特に信仰をもって長い方は思うかもしれません。しかし、聖書を知らない方、信仰に無関心な方々には、神は存在するかもしれないが、エネルギーのようなもので、心とか意思を持たない存在と言い張る方もいるのです。
しかし聖書は言っています。〈神は愛です〉(Ⅰヨハネ4:16)。また〈情け深く、あわれみ深く、怒るのに遅く、恵み豊かであられ〉ます(ネヘミヤ9:17)。そして罪ある人間を滅ぼすことをよしとしないで、こう言われます。〈わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている〉(ホセア11:8)。
神は心をお持ちです。義でありかつ聖なる方なので、人の罪深い有様に怒り憤るお方です。しかし罪には悲惨と裁きが伴うので、人の悲惨な現状と将来の裁きをあわれんで、胸が熱くなるお方、怒るのにも遅くなるお方です。Ⅱペテロ3:9でこう言われています。〈主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです〉。
主は心をお持ちです。だから私たち人間も心を持った存在として造られたのでしょう。神が心を持たないお方であったら、心を持った人間をお造りになることもなかったでしょう。聖書で啓示されている造り主は、心を持った存在として神の御心から外れた人間に対して葛藤もなさいます。忍耐もしてくださいます。主は心をお持ちです。
(天と地のギャップ)
主は心をお持ちです。特に人間の罪に対しては、悲しんでおられます。だから〈世界の基が据えられる前から〉(エペソ1:4)、私たちを(キリストのゆえに)救いに選んでおられたに違いありません。そのような確固たる選びがまずあって、神は天と地を創造されました。私たちの世界観で言えば、全世界、全宇宙を、神が造られたのです。
本日のテキストは、もともとの言葉(ギリシア語)の順序で言えば、以下のようになります。「行われるように」「あなたの心が」「天にあるように」「地においても」。
実は、第一の祈りでも、第二の祈りでも、「天にあるように」「地においても」が掛かるのだという意見もあります。
神の名は、神の玉座である天において、聖とされています。しかし地においては汚されているので、神の名が聖となるように、祈ります。
また、神の国(支配)は、天において実現しています。しかし地においては、神の国がまだ到来していないので〈御国が来ますように〉と祈るのです。
〈天で行われるように、地でも行われますように〉とあるように天も地も「行われる」に掛かって訳されていますが、ほんとうは〈天におけるように地の上にも〉(協会共同訳)とか〈天にあるように、地においても〉(岩波訳)と訳すのです。「天にも地にも」は三つの祈りに掛かると考えてもよいのです。
天では果たされていることが、まだ地上では果たされていない(成し遂げられていない)。この事実は何と言うべきでしょうか。それはgap[割れ目or隔たり]と言っていいでしょう。今もGAPという世界的なアパレルメーカーがありますが、25年前のアメリカのクリスチャンたちは、ふざけてGAPについてこう言いました。God Answers Prayer[神は祈りに答えてくださる]。
神の御心が100%行われている天と、神に御心が未だ十分ではない地上。そのギャップ(隔たり)にこそ祈りが生まれる余地があるのかもしれません。
ある場所、ある分野では、神の御心がよく果たされていないということがあります。ある国では伝道が盛んですが、別の国では福音を伝えることが禁止されています。これは国と国とのギャップです。医療界や教育界ではクリスチャンが比較的多いのに、政治や芸能の世界では少ない。そんな現象が見られる国もあります。
また天の父が、善人にも悪人にも、太陽を昇らせ、雨を降らせてくださるのに(マタイ5:45)、地上の人間同士に差別や虐待が横行していることもあるでしょう。同時代の空間にも、天と地のような開き(言い換えると、祈りの余地)があります。
また天と地のような開きは、時間的・歴史的な出来事にもあります。今日の世界は、何十年、何百年と時間をかけて成し遂げた「進歩」があります。奴隷制度の廃止とか、福祉の充実や、民族自決主義を挙げたらいいでしょうか。油断すると「後退」することもありますが、幾つもの出来事は〈みこころが天で行われるように、地でも行われますように〉と祈りながら、クリスチャンが取り組んできた分野や課題に違いありません。
もちろん地上の営みには限界があります。歴史的な進歩はあっても、アダム以来の歪んだ人間性からの救いは、主の再臨を待たなければならないのです。ですから〈みこころが天で行われるように、地でも行われますように〉という祈りは、世の終りの新天新地(黙示録21:1)を待つ祈りでもあります。祈りとは、あるべき姿から遠い地上の現実に対して、あるべき姿があることを信じて希望を告白することでもあります。
(神の御心に従う)
今日の世界において、たとえばキリスト教の世界においても、人間を、神やキリストに置き換えようとする動きがあります。それは絶えず警戒をするべきことで、人間は、それほどまでに神の御心から遠ざかっていると思うべきです。〈人の心は何よりも陰険で、それは直らない〉(新改訳第3版、エレミヤ17:9)と言われます。
人の心は、どれほど罪に汚染されているのでしょうか。どれほど深刻なのでしょうか。ひとつの答えは、神の子であるキリストを十字架に架けてしまうほど、人の心はどうしようもない(絶望的な)のです。
私たちは、来週の日曜日から待降節Adventであることを知っています。クリスマスの祝いが近いのです。〈すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた〉こと(ヨハネ1:9)を知らせるのです。そのように救い主の誕生は、神の御心であり、神の御心の実現でした。しかし〈この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった〉(ヨハネ1:10-11)ということが生じます。
イエス・キリストが十字架で死んだのは、神の御心でありましたけれど、それは人間の罪がいかに大きく深刻であるかの証でもあります。あのイエス・キリストをして、ゲッセマネの園では次のような祈りをされているのです。マタイ26:39&42〈わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください〉。〈わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように〉。
イエス・キリストもまた、神の国の実現のために、自分の願いではなく、神の御心が行われるように祈られた。それゆえに主の祈りは聴かれ、十字架と復活の救いは実現したのです。旧約聖書、創世記に登場するヨセフという人物は、イエス・キリストの雛形のひとりと目されますが、ヨセフはこのようなことばを残しております。
創世記50:20〈あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです〉。これはヨセフの人生において実現しました。しかしイエス・キリストの人生においては、その十字架と復活において、もっと鮮やかに実現しました。
私たちも、キリストの霊に導かれて、真心から祈ることができます。〈みこころが天で行われるように、地でも行われますように〉。神の国の希望が失われそうなときにも、忍耐をもって神に向かえば、自分自身を神に明け渡し、もっと確実な希望へと私たちは導かれていくのです。〈みこころが天で行われるように、地でも行われますように〉。そのように神の国は完成へと向かってまいります。私たちも神の手のなかに生かされ、歩んでいるのではないでしょうか。
一言祈ります。「『♪主よ御手もて引かせ給え。ただ我が主の道を歩まん。いかに暗く険しくとも御旨ならば我いとわじ』(新聖歌384番)。私たちの賛美を聴いてくださる主よ。私たちは、何よりあなたの御心が正しいと信じます。そしてその御心が山よりも高く海よりも深いことを告白します。イエス・キリストの十字架がそうであったように、苦難なくして栄光のないこともまた、あなたの方法として受けとめます。どうぞ私たちにあなたの御心を悟る敏感さと、悟ったあなたの御心に従って生きる勇気と行動を、主にある交わりのなかでお与えください。今日も私たちの人生を導いてくださるイエス・キリスト、個人をも、家族をも、国家をも、宇宙をも、治めてくださる王の王、主の主のお名前で祈ります。アーメン」。
