まことの王(為政者)を求めて マタイ6:10a
先月21日に日本の総理大臣が替わりました。石破茂さんから高市早苗さんになりました。連立の組み替えは起こっていますが、石破さんも高市さんも同じ政党(自由民主党)の方で、いわゆる政権交代が起こっているわけではありません。
しかしトップが替わると、雰囲気も変わります。いままで足踏みしていたことが動き出したり、逆に進めていたことが中断したり、逆方向に進むこともあります。そう考えると、だれがリーダーになるかということは、だれがやっても同じではなくて、たいへん重要なことです。
今日は「まことの王(為政者)を求めて」というタイトルで、「主の祈り」の学びをしたいと思います。一言祈ります。「天におられる私たちのお父様。あなたのお名前が聖とされますように。私たちは、本日〈御国が来ますように〉という祈願のことばから、あなたのメッセージをいただき、あなたを礼拝いたします。それぞれの心を、聖霊によって開いてくださり、真理と愛が実を結びますように。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。
(「主の祈り」の心臓)
イエス・キリストが語った説教のなかで、もっとも知られている山上の説教。そしてその山上の説教の中心には、3つの宗教行為に関する注意事項が記されています。そして宗教行為とは、施し・祈り・断食の3つであって、その真ん中は祈りについてです。そしてこの祈りについての真ん中で「主の祈り」が教えられています。
だから「主の祈り」は山上の説教の真ん中の真ん中の真ん中に位置しています。そして自分は思うのですが、本日の〈御国が来ますように〉という祈願のことばは、この真ん中続きの「主の祈り」の、さらに心臓のようなところだと思います。先週言いましたが〈御国が来ますように〉の〈御国〉とは、〈あなたの国〉つまり《神の国》です。
これは先週学んだ《神の名前》。その次は《神の国》ということでもありますが、それだけではありません。
《神の国》。マタイの福音書では〈天の御国〉(マタイ4:17など)と言い換えられますが、〈天の御国〉とは《神の国》のことです。そして《神の国》は〈神の福音〉(マルコ1:14)に関わります。
マルコ福音書1:14-15を読みましょう。〈ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。1:15 「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」〉。
ここで主イエスは〈悔い改めて福音を信じなさい〉と言われていますが、ここでいう福音とは何かといえば〈時が満ち、神の国が近づいた〉ことではありませんか。もっと言えば〈神の国が近づいた〉ことが、主イエスが語った救いの知らせ(福音)です。
つまり〈御国が来ますように〉というのは、救いを求める祈りに違いありません。
(地上の王と〈御国〉の王)
ところで〈御国〉とはどんな国なのでしょうか。もちろん神の国のことです。
しかし〈国〉ということばが意味するのは、王が治める王国のことです。私たちは民主主義の共和国に親しみを感じるかもしれませんが、主イエスがおられた1世紀には、一時期のギリシアやローマを例外に、国家といえば王や皇帝がいるのがふつうでした。
旧約聖書に記されたイスラエルの歴史を見ると、モーセによってエジプトを脱出し、カナンの地に定着してからしばらくは、王という制度がありませんでした。その時々の危機を救うための指導者として士師が立てられましたが、その士師たちの記録「士師記」を見ると、二度も、以下のような描写があります。士師記17:6&19:25〈そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた〉。
この士師の時代の終りに、預言者サムエルが士師のような役目を果たしていましたが、民からの強い要求があり、神も〈彼らの言うことを聞き、彼らのために王を立てよ〉(Ⅰサムエル8:22)と王制へのゴーサインをサムエルに出しました。サムエルは神に従い、サウル王を立てた後に、ダビデ王を立てて、ダビデの子孫による王朝が始まりました。
王が立つことによって〈それぞれが自分の目に良いと見えることを行なう〉ことは減ったかもしれません。しかし、王が権力を用いて、若い人たちを軍人などの家来にし、土地やその収穫を集め、家畜などの財産も王の所有になっていきます(Ⅰサムエル8:10-18)。しかし、それでも民は自分たちの王が立つことを願いました。
その後のイスラエルの歴史を見ると、ダビデは姦淫の罪を犯し、ソロモンは異教の偶像信仰を導入します。ダビデも、ソロモンも、信仰深く、すぐれた王でしたが、それでもアダムの子孫(生来、罪を持つ者)であることに変わりはありませんでした。
そのあと王国は南北に分裂し、純粋な信仰をなくした王が、どちらの王国からも、たくさん出てきました。その時々の王の性質や判断が、国を良いほうにも悪いほうにも導きます。しかし遂には、罪咎が臨界点に達して、手遅れとなり、北王国はアッシリアに、南王国はそのあとバビロニアに滅ぼされてしまいました。
その後、ある程度の自治や回復を許されながらも、ペルシア、マケドニア、ローマと、選民は大国の支配のもとで暮らし続けます。
そんな囚われた状態が何百年も続くなか、イスラエルの信仰や希望を支えたのは、迫害にも遭いながら、神のことばを語り続けた預言者たちの文書でした。預言者たちのことばのなかには、メシア(救い主)が誕生して自分たちを救うという預言もありました。そのひとつを本日も読みたいのです。
旧約聖書、イザヤ書9:6-7〈ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる〉。
《神の国》とは、霊的であると同時に、政治的な事柄でもありました。また政治的であると共に、きわめて、信仰的かつ霊的なことでもあったのです。
(剣を収める《神の国》)
マタイの福音書によれば、バプテスマのヨハネも、主イエスも同じメッセージを発していました。マタイ3:1-2〈そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えて、3:2「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った〉。
同じくマタイ4:12〈イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた〉。飛んで4:17〈この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた〉。
先ほども言いましたが、〈天の御国〉とは《神の国》の言い換えです。そして《神の国》とは、天地の創造者である主イエスの父が治める王国のことです。神の支配が〈近づいた〉と宣言されているのです。
主イエスが説いた《神の国》は実際どのようなものだったでしょうか。《神の国》が神の支配なのですから、主イエスの時代、イスラエルの土地と人民を実効支配していたローマ軍を追い払うことと理解していた人も多かったでしょう。つまりユダヤ人が武装蜂起して、ローマ帝国からの独立を勝ち取る。主イエスが、剣をもって戦うのです。
しかし、主イエスは、ローマ帝国から派遣された総督のピラトにこう言ったのです。〈わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません〉(ヨハネ18:36)。
主イエスがここで発言した〈わたしの国〉は、主イエスが説いた《神の国》と同じでしょう。主イエスはこの世で宣教し、地上に聖なる影響を与えますが、《神の国》は〈この世〉に従うものではないと言ったのです。《神の国》が〈この世〉に従うものならば、弟子たちは主イエスが逮捕されないように戦ったはずだというのです。それどころか、ここで主イエスは〈わたしの国はこの世のものではありません〉を二度も語って、強調しています。
それでは、どうでしょうか。私たちは《神の国》を天上に限定するのでしょうか。霊的なことのみとするのでしょうか。いいえ、そうではないと思います。
そうではなくて、こんなふうに考えてほしいのです。
たとえば主イエスの時代、ユダヤの国には、総督が派遣され、ローマの軍隊が駐屯していました。ユダヤは、ローマの属州(植民地)であったのです。それは自分たちを上から抑えて、光を見せなくする暗雲のようなものでした。しかし、分厚い暗雲の上には、さらに何があるでしょう。いつも燦燦と輝く太陽が光を放っているのです。
たとえば現在、ウクライナの地にロシア軍が入っています。ロシア軍はその地の住民にとって、上から雨を降らせる黒雲です。しかし黒雲の上にも太陽は輝いています。
雲を突き抜けて光が射し込むときもあります。また雲はやがて空から消えていきます。私たちは〈御国が来ますように〉と祈るのです。
(福音宣教と終りの日)
〈天の御国〉すなわち《神の国》には、どうしたら入ることができるでしょうか。〈悔い改めて福音を信じなさい〉ですから、悔い改めることです。当時の人たち、とくに宗教指導者たちは、旧約聖書の掟(律法)を落ち度なく行なって〈御国〉に入ると信じていました。しかし行いによってはだれも義と認められることはありません(ローマ3:20)。
また〈天の御国が近づいた〉〈神の国が近づいた〉と言いますが、いまどんなふうに近づいているのでしょうか。私たちは、このような問題で、ルカが書き残した次のことばがたいへん有益なのを知るのです。ルカ17:20-21〈パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。17:21 『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」〉。
《神の国》は、認知しやすいものではありません。理屈だけではとらえがたいものです。〈神の国は、ことばではなく力にあるのです〉(Ⅰコリント4:20)とパウロは言いました。この世に来ているのだけど、黒雲覆われたときの昼間の太陽にも似て、それは見えないのかもしれません。しかし主はたしかに〈神の国が近づいた〉と言われました。
主は言われています。〈見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです〉。《神の国》が主イエスの話を聴く者たちの只中にあるという。このことを巡って、少なくとも3つの説があります。
ひとつは、主イエスを信じて聴いているひとりひとりの心に《神の国》すなわち天の父の支配が来ている。キリストの十字架によって罪の赦しをいただいた皆さんの心のなかに、証の御霊(神の聖霊)が住んでいてくださいます。あなたの魂は、そのように神に治めていただいています。
ふたつめは、信じる者の交わりのなかに主イエスがいてくださるということです。〈二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです〉(マタイ18:20)。これを教会の約束と見なす人もいます。主イエスの名によって集まるところは、2、3人の少数であっても、主イエスがいてくださる、臨在の約束です。主イエスがおられるところが教会だと言ってもいいのです。
三つめ。主の回答はパリサイ人の問いから始まりました。この時、この人は主の弟子ではなかったはずです。信じる者がいるだけではなく、求めてはいても、まだ信じていない者も入っている。その只中にも〈神の国は~あるのです〉。クリスチャンでない人を交えても《神の国》は無くならないかもしれない。むしろイエス・キリストとその十字架を伝える宣教において、《神の国》は到来していると言えるのではないか。
最後に、時間的に言えば、主イエスが最初のクリスマスに生まれてくださったことで《神の国》はすでに来ております。主イエスの十字架と復活は、多くの人に《神の国》を開きました。《神の国》到来の現実味は、聖霊によってもたらされています。信じる者ひとりひとりの心に聖霊は宿り、また礼拝も含む教会の交わりに聖霊は現れてくださり、世に対する宣教のなかで聖霊の力は働くのです。主イエスを伝えようとする個人や教会に聖霊の著しい助けと守りがあると私は確信します。
そして教会の時代として宣教が繰り広げられて福音が全世界に広まるのですが、やがて終りの日が来ます。神を礼拝できても、神を世に伝えることができなくなる終りの時です。〈御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます〉(マタイ24:14)とあるとおりです。
ですからこの〈御国が来ますように〉という祈りは、「主の祈り」の心臓のような祈りです。主の再臨を待ち望み、宣教の収穫を祈願します。そしてこの祈りを祈りながら、人々は神の恵みにより正しく生きられるようにと願い、「主よ、いつまでですか」と訴える祈りでもあるのです。〈御国が来ますように〉。この祈りなしに、主の心を、私たちの思いとすることはできません。
祈ります。「主よ。〈御国が来ますように〉。イエス・キリストのお名前で。アーメン」。
