2025年9月28日説教原稿

他者のための義の行い       マタイ6:1-4

 私たちは、イエス・キリストの教会に集う者として、些かの知識を得ております。ただ、その知識が正しいものなのか、吟味することも必要です。そういう意味では、私たちの教会では、これからも聖書を丁寧に読むことを続けたいのです。〈たましいに知識がないことは良くない〉(箴言19:2)。第3版ですと〈熱心だけで知識のないのはよくない〉と書いてあります。

 そして、聖書に関すること、あるいは聖書から導き出される教理や教則が偏っていないか、あるいは正確性がどこまであるか。点検することも大事だと思うのです。

 すでにこのシリーズにおいて申し上げております。マタイ福音書にはキーワードのひとつとして〈義〉ということばがあります。〈義に飢え渇く者は幸いです〉(5:6)。〈義のために迫害されている者は幸いです〉(5:10)。主の説教の記録のひとつである、この山上の説教のなかでも使われています。そして5:20では次のようなことばでした。〈あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません〉。

 マタイ福音書での〈義〉の用法は、ただ自分が正しい、間違ったことをしていない、そういうことだけではないのです。それは〈律法学者やパリサイ人の義〉と言っていいでしょう。当時だれよりも旧約聖書によって神の御心に通じていた律法学者。そして当時だれよりも神の御心に適う生活を行なっていたはずのパリサイ人。

 しかし今、主イエスの前で、主イエスの説教を聴いていた弟子たちは、その〈律法学者やパリサイ人の義〉にまさる〈義〉を得ていなければならないと言われたのです。それは、ただ掟を守って、罪を犯さない〈義(正義)〉ではなかったはずです。

 私は何度でも言いますが、マタイの福音書には、主の誕生にあたってマリアの婚約者であるヨセフの苦悩が描かれています。処女マリアは、自分と肉体関係もないのに妊娠していました。マリアを姦淫罪で訴えて石打ちの刑にする。少なくとも、マリアを白日の下にさらし、不貞の女の事件として、大々的に婚約破棄する。今だったら弁護士に依頼して、慰謝料請求などもできたかもしれません。

 しかしヨセフは、そのようにマリアを訴えませんでした。どうしたでしょうか。マタイ1:19にこうあります。〈夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った〉。ヨセフは婚約者を〈さらし者にしたくなかった(世間で疎まれる人にしたくなかった)〉のです。

 実はマリアはそのような罪を犯していなかったことが、自らの夢のなかで聞いた天使のお告げによりヨセフはまもなく知るわけです。が、そのときのヨセフの最善は〈ひそかに離縁〉することでした。秘密の婚約解消を選んだヨセフについて、次のように聖書は言っています。〈夫のヨセフは正しい人で〉。〈夫のヨセフは正しい人で〉。〈夫のヨセフは正しい人で〉。

 ここで〈正しい〉と訳されている私たちのことばにも〈義〉という単語が使われています。〈愛は多くの罪をおおう〉(Ⅰペテロ4:8)といいますが、それがマタイ福音書で強調されている〈義〉、〈律法学者やパリサイ人の義〉にまさる〈義〉なのです。

 本日、私はどうして、このようなことを言うのでしょうか。私は、それぞれ皆さんの言語で記されているご愛用の聖書にどのように書かれているか興味津々ですが、教会の公用の聖書(新改訳2017版)には6:1はこう書かれています。マタイ6:1〈人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません〉。

 ここには理解を助けるためもあって〈善行〉と訳されていますが、厳密にいえば〈義〉と訳すべきなのです。〈人に見せるために人前で [(善い行い《善行》ではなく)〈義〉の行い]をしないように気をつけなさい〉とすべきです。〈義〉ということばや概念が、マタイ福音書をマタイ福音書として読むために、たいへん役に立つはずです。

 一言祈ります。「神様。私たちを今日も礼拝に呼び集めてくださってありがとうございます。あなたは罪人である私たちを〈義〉としてくださる恵みの主です。今週も恵みに押し出された罪人として生きるため、あなたのみことばが私たちの心に響くようにしてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。

(施し・祈り・断食)

 さて〈善行〉と訳された6:1を見てきました。〈義〉と訳されている5:6や5:10や5:20と関連づけるために、私は〈善行(善い行い)〉と言う代わりに〈義の行い〉とか〈義を行なう〉と言うことが多いと思います。         

 そして6:1は、よく調べればわかることですが、本日の箇所だけの序文ではありません。6:1は、6:2-18までを内容とする塊の序文です。本日の6:2-4までは〈施し〉が取り上げられていますが、6:5-15までは〈祈り〉、6:16-18には〈断食〉が取り上げられています。〈施し〉〈祈り〉〈断食〉の宗教行為を、人前で慎むべきだと主は言われています。

 どうしてでしょうか。人に見せるためにそういうことをすると〈すでに自分の報いを受けている〉。隠れて行なうならば〈隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます〉。〈隠れたところで見ておられるあなたの父〉とは〈天におられるあなたがたの父〉であります。天地万物を造られた唯一の神のことです。

 〈施し〉〈祈り〉〈断食〉の3つは、現在においても宗教的徳目として理解される行為ですが、旧約聖書の律法にはそれほど強調されることではありません。むしろ旧約聖書の他の掟、献金とか礼拝とか食物規定を守った上で、なお行うこととして理解されます。〈施し〉〈祈り〉〈断食〉は「さらにこんなこともしているのですね」と言われるようなことです。ですから〈施し〉〈祈り〉〈断食〉をしていると賞賛されやすいのです。

 そのように〈施し〉〈祈り〉〈断食〉は、ユダヤでは賞賛されやすい行為なので、名声や賞賛を求めて、一種の流行があったのかもしれません。あるいは形を変えてユダヤ人以外でも行いそうなことなので、当時の習慣として普及しやすかったのかもしれません。そして今でいう承認欲求が満たされるために、よかったのかもしれません。

 ある人(中澤啓介)は、この〈施し〉〈祈り〉〈断食〉を以下のように分類しています。〈施し〉は他人に対する善行、〈祈り〉は神に対する善行、〈断食〉は自分に対する善行、というふうにです。この分類は納得のいくものなので、私も今日の説教題を「他者のための義の行い」としています。

(神に喜ばれる施し)

  そのように〈義の行い〉のなかでも、〈施し〉は、自分以外の人、すなわち、他者に向いているわけです。〈祈り〉や〈断食〉の箇所でもそうなのですが、〈偽善者たち〉のようにするな、と書いてあります。6:2を読みましょう。〈ですから、施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです〉。

 実は〈偽善者たち〉と訳されていることばは、劇場ということばとも関連があって、お芝居をする人(俳優とか役者)というのがもともとの意味だそうです。おそらく5:20ではないのですが、〈偽善者たち〉と目されているのは、当時の〈律法学者やパリサイ人〉でしょう。

 彼らの動機は〈人にほめてもらう〉ことでした。それで目に付く〈会堂や通りで〉施しをしていました。施しとは、困っている人、貧しい人に、ものを与えて助ける行為です。その施しを、人に誉めてもらうために目立つ場所で行い、それだけでなく〈自分の前でラッパを吹いて〉いました。

  〈自分の前でラッパを吹く〉というのは、当時、施しの際にはラッパを吹く習慣があったのではなく、ラッパを吹いて大きな音を立てるように、吹聴するといったことでした。

 先週、私は、妻や娘と一緒に、この、すぐ近くにある、彼岸花のきれいな場所に出かけました。その場所には、地名の由来でもあります、お寺があります。私も何となく記憶があるのですが、そのお寺のお堂は20年ほど前に新しく建て直されたのです。敷地には立派な記念碑が立っていて、お堂を建て直したことが記念されていました。

 そしてその記念碑の裏には、このお堂や庫裏を建て直した際に、寄付をした人たちの名前と金額が刻まれていました。いちばん高額なのは200万円。1万円の方が多かったのですが、3千円の方が1名おられました。その碑を見ながら、寄付をしたのは地元の方ばかりのようですが、それぞれがどんなお気持ちで寄付をしたのだろうと勝手に想像を巡らせました。私も田舎育ちなので、その地域、それぞれの方の財力や思い入れや力関係などをちょっとだけ空想しました。

 こうした寄付が常に周りから評価されるためになされるわけではありません。寄付した人の名前と金額を地域共同体の記念碑に残すことにも、それなりの意味があるはずです。しかし本日私たちが開いて読んでおります、主イエスのみことばからは、それとは全く反対の印象を受けます。

 6:3-4〈あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。6:4 あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます〉。

 イエス・キリストの弟子たち。あなたたちのする〈施し〉は〈隠れたところに〉置きなさい。そうすれば父なる神が〈あなたに報いてくださいます〉。人に誉められて、それで報いが終わるのではない。それを主は味な言い方で仰っています。〈右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい〉(×2)。

  〈あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい〉。これは何を意味しているのでしょう。主は何を意図しておられたのでしょう。三つくらいの解釈の可能性があります。

 ひとつめの解釈は〈左の手〉を身近な親しい人と解釈して、とにかく他の人には内緒にしなさい、と理解します。これは、やろうと思えばできそうな感じです。

 ふたつめの解釈は、まず一旦は文字通りに解釈して、白旗を揚げるような解釈です。右手がしたことを左手が知らないわけがありません。だって両手は腕伝いに体にくっついていて、頭の脳みそでそれぞれ指令が送られて動くからです。だから不可能と思えるくらいなのですが、自分がした良いこと(施し)を自分自身でも忘れてしまえというふうに理解するのです。私たちは自分のした悪いことはすぐ忘れても、自分のした良いことは自慢したいし、人に誉めてもらいたいと考えます。

 ここで私は日本の俳優さんの名前を一人挙げたいと思います。杉良太郎といいます。ある年齢より上だったら、必ず知っているか思い出す俳優です。テレビの時代劇でよく主役を演じていました。歌手でもあり、大御所俳優です。

 この杉良太郎さんは、日本でも屈指の寄付やボランティア活動をする人です。現在79歳ですが、昨年の能登半島地震のときにも駆けつけました。もっとも有名なエピソードは、2011年の東日本大震災の時かもしれません。

 彼は自費でトラック20台分の支援物資を集め、被災地で炊き出しをしました。カレーを温めている時だったそうですが、テレビのリポーターのひとりが「杉さん、杉さん。それってやっぱり売名ですか?」と尋ねたそうです。そのとき杉良太郎はすぐに「もちろん売名だよ。売名に決まってるじゃないか」と返したそうです。

 主が二千年前に言われたことばのせいかもしれませんが、私たちは施しのような良いことであっても動機を探られます。売名行為か。150人のベトナム人の里子がいる杉良太郎は同じことばを外務省の官僚からも言われたことがあるそうです。そのときも杉はこのことばを付け加えました。「ああ、偽善で売名ですよ。私のことをそのように仰る方は、ぜひ私と同じように自腹で数十億円出して名前を売ったらいいですよ」。

 私たちは、本日、他者のためにする〈義の行い〉として施しを考えています。杉さんはたまたま〈偽善者〉に通じる俳優さんですが、〈偽善者〉呼ばわりされても意に介さず寄付やボランティアをするのは、どうしてか。人を見ているのです。しかし第三者的に評価してくれる人たちではなく、実際に今困っていてお礼やお返しも不可能な助けを必要な人たちを見ているからではないでしょうか。

 〈右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい〉。第三の解釈として私たちは、名声を博したり、逆に誤解されたりしながらも、自分を忘れて、人に尽くそうとすることではないでしょうか。〈偽善者〉というギリシア語は、俳優あるいは役者ということばから生まれましたが、真の名優は、ほんとうに役の人物に入り込んで、なりきる人なのかもしれません。〈神の国は、ことばではなく力にあるのです〉(Ⅰコリント4:20)。私たちは、小さなキリストになりきろうとすべきなのです。

 祈りましょう。「神様。自分にとらわれやすい私たちが、キリストから罪の赦しと共に、聖霊による永遠のいのちをいただいて、人のために義の行いができますように。神の国の本質が、議論のためのことばではなく、圧倒的な愛と義の力であることを覚えて、いよいよ丁寧に聖書のことばを読ませてください。祈りのなかであなたの御心を悟らせてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。