高い山に登れ~3週後の伝道集会~ イザヤ40:9
日本には一年を24に分けて細かく季節を表すことばがあります(二十四節気)。それで言いますと、いま時分は処暑ということばです。処暑というのは「暑さがおさまる」という意味です。明日から9月ですが、地球温暖化の昨今、とても処暑と共に「暑さがおさまる」とは思えません。
そのように暑さ、それも猛暑ですが、9月21日は、私たちの教会恒例の伝道集会、秋の特別礼拝があります。今回も、秋の特別礼拝のチラシを印刷しました。①それぞれが祈るために、②個人的に案内をするために、③ポスティングで不特定多数の人にお知らせするために、用いていただけたらと思います。
ということで、本日は、福音を伝える働き(伝道)についてお話したいと思います。まず、伝道集会の有る無しに関わらず、伝道とは何かを考えます。続けて、今回の説教題につながるのですけれど、伝道集会に臨むなかで心と頭に留めるべきことをお話ししたいと思います。
まずは一言祈りましょう。「愛する神。私たちの教会が今年も秋の特別礼拝(特別な伝道集会)を催せることを感謝します。思えば、主イエスは神の国を知らせるために公の場に姿を現わしたのですし、12人の弟子たちを任命したのも〈彼らを遣わして宣教をさせる〉(マルコ3:14)ためでもありました。どうか、主よ、私たちに福音を伝えさせてください。私たちは主イエスの福音によって救われました(Ⅰコリント15:1-2)。こんな私たちでも恵みによって救われたのですから、他の多くの人に福音を伝えたら、さらに救われる人が起こることでしょう(Ⅰコリント9:22)。主よ。今日の礼拝では伝道について学びます。私たちを聖書の真理(みことば)によって整えてくださり、主イエスの御霊(聖霊)によって歩む人生をいよいよたしかなものにしてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。
(来る・留まる・行く)
福音を伝える働き(伝道)を理解する上で、最初に意識すべきことは何でしょうか。語るとか、話すとか、口を使うことでしょうか。それとも福音を学ぶとか覚えるとかの、頭を使うことでしょうか。いいえ、伝道とはまず《行く(出て行く)》ことです。
神が世界を造られました。しかし人が罪を犯したので、世に棲む人は神からの栄誉を受けられなくなりました。人の魂に救いが必要であり、それが世界の救いにもつながっていきます。
神は世を愛された(世界を愛された)と聖書は言っています。どのように愛されたかというと〈そのひとり子をお与えになったほどに〉です。
三位一体の交わりのなかにある子なる神が、父なる神によって世に派遣されます。それが、私たちの祝うクリスマスの出来事であって、神が人となって、私たちと同じようになられました。そしてこの、人となられた救い主が、私たちの身代わりに十字架にかかって死なれました。〈そのひとり子をお与えになったほどに〉とは、イエス・キリストの十字架を指すのです。父なる神は私たちのために子なる神のいのちを差出しました。
私たちにとって伝道とは、第一に、私たちも、キリストのように世に遣わされること(世に派遣されること)です。
もちろん罪のない聖なる神の子と違って、私たちはまず、キリストのもとに行く必要があります。主は私たちに〈来なさい〉(マタイ11:28)と招いておられます。そして主は私たちに〈わたしにとどまりなさい〉(ヨハネ15:4)とも言われます。私たちは、主の近くに来て、福音を自分へのことばとして聴いて、信じて、告白し、キリストの者(キリストの弟子)となって、世に派遣されます。
テレビで有名人がCMに出ていることがあります。しかしその有名人は、仕事でそのCMに出演しているのであって、そのCMの商品を実際には使っていないかもしれません。商品の会社からギャラをもらって宣伝のために顔と名前を貸しているだけで、実は何の関係もないということもあり得ます。
しかしイエス・キリストを伝える伝道はこれと違います。キリストを信じて救いをいただいた者だけが、喜びをもってキリストと救いを伝えることができます。ですから伝道は、キリストを信じるクリスチャンの特権でもあります。
父なる神と子なるキリストは、異なる人格でありながら、その本質において一つでした。そして父は子なるキリストを世に派遣しました。同様に、キリストは信じる弟子たちを世に派遣するのです。死んでよみがえられたキリストは、ヨハネ20:21で、こう言われました。〈父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします〉。
そのように、私たちは、主のもとに来て、とどまる経験も必要なのですが、感謝なことに、世に遣わしてくださいます。私たち自身が神の福音によって救われているなら、私たちも遣わされて、まだ福音を知らない人の近くに行くことができるのです。
クリスチャンにとって、キリストのほうに来る、キリストのうちにとどまる、そしてキリストによって世に出て行くことの3つがあります。そのなかで、キリストによって世に出て行くことが伝道です。キリストによって世に出て行くとは、キリストによって世に派遣されることです。〈わたしもあなたがたを遣わします〉と言われています。
(聖霊によって)
クリスチャンは憧れの国があります。それは、地上の生涯が終わると導かれる、天の御国です。天国は、神が治めてくださり、キリストのありのままの姿を見ることができる素晴らしいところです。だれもがすぐにでも行きたいと考えます。しかし天国は、神のお召しがなければ行くことができません。天国は地上の務めを終えてから行くのです。
この地上の務めのなかには福音を伝える伝道の働きがあります。また伝道の働きと同じくらい大切な働きに、社会的責任があります。世の中に棲む人間として、当たり前に正しく生きるということです。〈何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい〉(Ⅰコリント10:31)という聖句があります。仕事も勉強も、趣味や交友関係も、神に愛されている子どもらしく行います。手本はイエス・キリストです(エペソ5:1)。
私たちは、神の恵みによって世から選び出されました。それはこの世から出て行くことではなくて、世に遣わされる(この世界のなかに派遣される)ことなのです。
そうしますと、私たちは世の中(毎日の日常生活)で何をどのようにしているかという話になります。伝道の働きにおいても、社会的責任を果たすことにおいても、イエス・キリストのように神の御心を100%行っているか、と聞かれれば、良心的な人ほど「穴があったら入りたい」気持ちになるわけです。
《イエス・キリストの証人》ということばがあります。「イエスが私たちの救い主であると証明(or証言)している人」という意味に違いありません。神の救いに与っているという意味ではそのとおりなのだけれど、実際の生活ではどうかというと覚束無い。証明どころか、否定しているのではないか。これを躓きと言います。ことばや生活態度で周りの人をがっかりさせているのではないか。早く天国に行きたくもなります。
しかし、です。私たちは、どんなときでもひとりでキリストを証ししているわけではありません。主イエスは言われました。〈しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります〉。
聖霊は、神の霊であり、キリストの霊です。信じる者の傍らに立って、助けてくださるお方です。何とイエス・キリストは聖霊について、こんなことを述べています。ルカ12:11-12〈また、人々があなたがたを、会堂や役人たち、権力者たちのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しなくてよいのです。言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです〉。
クリスチャンが、証詞の原稿を準備したり、聖句や神学を学んだりしなくてもよいという意味ではありません。私たちは、キリストを示す(証しする)ことにおいて全身全霊を傾けるべきです。しかし神の証しというのは、神ご自身が、私たちをとおして(人間を用いて)なさることです。
また、私たちは、ことばが力強くても、生活や行いで失敗しやすい者です。そして神が私たちに願う生活は、罪から離れた生活であるに違いありません。しかし箴言20:9に〈だれが、「私は自分の心を清めた。私は罪から離れ、きよくなった」と言えるだろうか〉と書いてあるとおりです。私たちは、罪の誘惑から守ってくださる聖霊をいただいており、その御霊は、私たちが誘惑に負けて罪を犯しても、十字架の贖いに信頼させて悔い改めに導いてくださるのです。聖霊が臨むので私たちはキリストの証人です。
(伝道集会の意義と祝福)
以上、私たちは「伝道とは何か」について見てきました。伝道集会があってもなくても、私たちは伝道をいたします。それはキリストから委託された働き(命令)だからです。それゆえに私たちは、まだ天国に行かずに、この世にとどまります。この世のどこにとどまり、どのように神の栄光を表わすかは、それぞれが神に聴き続けることになります。そして、神に聞くことにおいて、世に伝えることにおいても、社会的責任を果たすことにおいても、私たちは聖霊の助けをいつも必要としています。
そんななか、私たちは今年も、秋の特別礼拝(伝道集会)に臨もうとしています。伝道集会は、ひとりではできない伝道の働きです。神の働き(証し)は個人戦も大事ですが、団体戦も重要です。伝道集会は、教会の働き。教会という信仰共同体のわざです。
また伝道集会は、自らの教会の牧師が講師に立つ場合もありますが、外部から講師を招くことが多いです。私たちの団体の先輩でも、外部講師を招かないで毎週の礼拝で勝負すべきという意見の方がいます。これはそれぞれの牧師の賜物の違いもありますし、私も毎週の礼拝を軽んじているつもりはありません。しかし自分は定期的に伝道集会をする教会に最初から導かれました。その良さを知っているつもりです。そして自分も秋の特別礼拝はバックヤードに徹して御名を崇めたいのです。
本日開いたイザヤ40:9には〈高い山に登れ〉ということばがあります。高い山に登るのは〈シオンに良い知らせを伝える者〉です。それは〈エルサレムに良い知らせを伝える者〉でもあります。〈シオン〉はエルサレムにある丘の名前でしたが、エルサレムの雅号(風流な別名)ともなりました。またエルサレムは〈ユダの町々〉の中心でもあります。エルサレムにしても、ユダの町々にしても、神のことばがもっとも語られなければならない場所でありました。そこに神の選びがあったのです。しかし同時に、罪のゆえに裁きがあり、人々は苦難(苦しみと困難)のなかにあったのです。
旧約聖書の時代、神のことばを語る人は預言者と呼ばれました。そんな預言者に〈高い山に登れ〉と言われるのです。どうしてでしょうか。それは神のことばを響かせるためです。教会によっては講壇のある場所が実際に高くなっていたり、説教者の前にマイクが置かれているのは、多くの人に、福音をはっきりと聞いてもらうためです。
そういう意味では、3週間後にこの講壇で福音を語る佐藤潤先生のお話のために祈りましょう。また、家族や他の知り合いが福音を聞けるように案内をしましょう。
集会の祝福を祈るためチラシを用いる。また知っている方に案内するだけだったら4500枚ものチラシを印刷する必要はありません。イザヤの時代〈高い山に登る〉ことが、より広く多くの人に神のことばを聞かせるためでありました。しかし、私たちが地域の戸建やマンションにポスティングして集会を知らせることは、それに似ていないでしょうか。イザヤ40:9を読むと、預言者はエルサレムだけでなく周囲の〈ユダの町々〉にも神のことばを伝えようとしていたことが分かります。
ある人はこう思うかもしれません。教会の案内を配っても、どれほどの人が来るでしょうか。私たちはふだんの生活のなかでスーパーのチラシを見ています。チラシを配ったスーパーはチラシをもらった人の、皆が皆、店に来ると予想していません。しかしひとりでも多くの人に来店してほしいと願って伝えています。
この教会には、チラシを郵便受けで見つけて集い始めた人が何人もおられます。救われてもらうために、福音を信じてもらわなければなりません。福音を信じてもらうためには、福音を聞いてもらわなければなりません。福音を聞いてもらうためには、私たちが語る必要があります。しかし福音を伝えることは、先ほど言いましたように、個人ですることも大事ですが、教会の働き(わざ)として行われることも重要です。なぜなら魂が救われることは、見えないキリストの教会の一員になることでもあるからです。そして見えないキリストの教会に連なるなら、見える教会にも連なるようになるのです。
神様が今年も私たちの教会に伝道集会を開くことを許してくださった(勧めてくださり励ましておられます)。伝道集会は、いろいろなかたちで、私たちひとりひとりの祝福となり、また教会全体の祝福となり、信仰に反対したり無関心な人も含めて、この地域の祝福になると信じます。
伝道をすることは、神の御心に従い、滅び行く魂を救おうとすることです。しかしそればかりでなく、私たちが本来の使命を自覚する機会でもあります。それは感謝なこと、喜ばしいことです。皆で楽しく伝道集会(秋の特別礼拝)の準備をしていきましょう。あと3週間です。祈り、個人的に誘い、またポスティングにも挑戦しましょう。
