2026年2月1日礼拝説教「信じた私たちはどうなっていくのか」イザヤ61:1~4 教会のDNAシリーズ❷

信じた私たちはどうなっていくのか イザヤ61:1-4[2] 教会のDNAシリーズ②

 クリスチャンになって間もない高校生のときですが、「親しき仲にも礼儀あり」といいますか、友人との距離感を間違ってしまい、伝道したのにかえって躓かせてしまいました。その友人はいっしょに教会の高校生会に通っていたのですが、高校生会の先生に「自分がクリスチャンになるとしてもあんなふうになりたくない(私のようになりたくない)」と言ったとかで、自分なりに反省をしたことがあります。

 復活した主イエスが天に昇る前にペテロとした会話が残っています。ヨハネ福音書21:17途中から19までを読みます。〈イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。21:18 まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」21:19 イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。こう話してから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」〉。

 ペテロという弟子は、若いときには、体も健康で、心も溌剌としていて、衝動的に見えるほど、思ったことは口にする、ある意味あっけらかんとした人だったと思います。しかし、そのペテロに主は言われます。〈しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます〉。

 〈両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして〉というのは何でしょうか。拘束されているのかもしれません。あるいは、服を着せてもらっているのでしょうか。そして〈ほかの人〉はペテロを〈望まないところに連れて行く〉のです。〈望まないところ〉とはどこだろうと考えてしまいます。

 主イエスのことばは〈ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すため〉でした。いちばん真っ直ぐな解釈は、ペテロがローマの官憲によって捕らえられ、皇帝ネロの命令で死刑になります。市民権を持たないゆえにペテロは十字架刑に決まりますが、主イエスと同じでは恐れ多いことであると逆さ十字架にかかったという伝説があります。つまりこれは殉教の預言というわけです。

 これほど真っ直ぐではない解釈ですが、ペテロは年を取る。生活に不便が生まれてくる、服の着脱も人にしてもらわなければならない。行きたいところに自由に行ける若いころと違って、人に補助してもらわなければならない。今だったら、免許返納で、今は家族や福祉の車に乗せてもらって移動する。しかし、このような生活もまた〈神の栄光を現す〉のかもしれません。

 そしてもっと深いところで言えば、人生とは何かを語っているようにも思うのです。子ども時代や青年期は恐いもの知らずですが、人生のいろいろな経験の中で自分を過信せず、私たちを〈望まないところ〉に導く神に信頼するのです。自分のことは自分がいちばんに知っているのではなく、おそらく二番目です。それは自分のエゴが神の前に死んで〈神の栄光を現す〉のです。

 本日のお話の題は「信じた私たちはどうなっていくのか」です。一言祈りましょう。

 「愛する神。あなたは、私たちにイエス・キリストの福音を知らせてくださいました。生まれつきのままでは滅ぶばかりの私たちのために、福音の信仰は、私たちに自由と慰めと大きな喜びをもたらします。さらに本日は、福音が成長をもたらすことを学びます。どうぞ聖霊ご自身が、私たちに聖書の真理を教えてくださって、神のことばの約束に立つことができるようにしてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。

(福音は成長をもたらす)

 〈彼らは、義の樫の木、栄光を現す、【主】の植木と呼ばれる〉と書かれています。〈樫の木〉とは〈大樹〉(岩波訳)とか〈大木〉(協会共同訳)と訳されてもいます。とにかく大きな木、巨木です。福音を知らされ、信じた者の祝福が、ここでは大きな木にたとえられています。この〈樫の木〉ということばは「いつも青々とした生気と強さを象徴している」(鍋谷堯爾)と説明する方もいます。

 イエス・キリストも、大きな木によって神の国を喩えています。たとえばマタイ13:31-32〈イエスはまた、別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国はからし種に似ています。人はそれを取って畑に蒔きます。13:32 どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなって木となり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るようになります。」〉。

 福音によって私たちは、罪の影響からの自由、痛みや悲しみからの慰め、そして大きな喜びをいただくことができます。さらに〈義の樫の木〉ということばで表わされるような成長をいただくことができるのです。〈樫の木〉とは、大樹、大木、大きな木のことであるとすでに申しました。では〈義の樫の木〉の〈義〉とは何でしょう。

(義とは神の勝利である)

 〈義の樫の木〉の〈義〉について説明いたしましょう。(旧約聖書)ヘブル語の〈義〉とは〈勝利〉とも訳せることばです。ですから〈義の樫の木〉とは〈勝利の樫の木〉〈勝利の大木〉です。戦いにおいて、人間の正義は、常に勝利を意味したり、約束したりすることはありません。しかし神の正義は、常に勝利です。

 イエス・キリストは、神からの怒りと裁きと呪いを受けて十字架の上で死んだけれど、不思議なことにこれは神の勝利でした。悪魔の勝利ではなく、ニヒリズムの勝利でもありませんでした。Ⅱコリント1:19-20に〈この方(イエス・キリスト)においては「はい(然り)」だけがあるのです。1:20 神の約束はことごとく、この方において「はい(然り)」となりました〉とあるとおりです。                      

(義とは神の裁きである)

 〈義〉とは何でしょうか。〈義〉とは常に勝利される神の性質でした。神が勝利をもたらす〈義〉であるので、神はこの世界を裁かれます。詩篇98:9に〈主は地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき公正をもって諸国の民をさばかれる〉と書いてあるとおりです。

 そして同時に、この〈義〉である神は、救い主であります。イザヤ45:21にこうあります。〈告げよ。証拠を出せ。ともに相談せよ。だれが、これを昔から聞かせ、以前からこれを告げたのか。わたし、【主】ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正しい神、救い主、わたしをおいて、ほかにはいない〉。

 正しい神(義なる神)は〈救い主〉でもあります。では、どのように正しい神は〈救い主〉になるのでしょうか。イザヤ46:12-13にこうあります。曰く〈わたしに聞け、頑なな者たちよ。正義から遠く離れている者たちよ。46:13 わたしは、わたしの義を近づける。それは遠くはない。わたしの救いが遅れることはない。わたしはシオンに救いを、イスラエルにわたしの栄えを与える〉。

 神が救いを与えるとは、〈わたしは、わたしの義を近づける〉とあるように、義なる方である神が、ご自身の〈義〉を近づけて救おうというのです。これは裁きをも意味する神の義が、罪深い人間の救いにもなるということです。

 聖なる裁きであることが、同時に、罪人に対する救いとなります。これはもちろんイエス・キリストの贖いにつながるに違いありません。キリストが十字架で受けた神の聖なる裁きは、人の罪を赦す贖いとなったのです。

(私を植えたのは主)

  そのように〈義の樫の木〉であるとは、単なる巨木ではなく、もちろん独活の大木でもないのです。勝利者である神の〈義〉があって、その義は、人を裁くけれど、人を救うものでもありました。この福音を聴いて解放された人たちは、慰めと大きな喜びにも与るわけですが、大きな木にもなるという成長を経験することになります。

 さらにこの〈義の樫の木〉は、別の言い方でも呼ばれることになります。それは〈栄光を現す、【主】の植木〉です。この木は自然に自生したのではなく、植えてくださった方がおられます。やがて大きく成長する植物の品種を、その地に根を下ろさせたのは、私たちが今日も慕い、賛美している〈【主】〉なる神です。

 イザヤ書61章を研究するにあたって、イザヤ書の他の章で、何が語られ、どんなことばで言われているかを知ることは、たいへん参考になります。とくに60章は繋がりの深い塊です。60:21にこうあります。

 イザヤ60:21〈あなたの民はみな正しい者となり、永遠にその地を所有する。彼らは栄光を現す、わたしが植えた枝。わたしの手で造ったもの〉。そうです。主ご自身が〈彼らは栄光を現す、わたしが植えた枝〉と仰っています。〈わたしの手で造ったもの〉とも言われています。

 私たちはそれぞれの人生で、自らの境遇を呪うような気持ちになったことはないでしょうか。今の若い世代は「親ガチャ」ということばを用います。ガチャという籤が人気ですが、よい親に恵まれると親ガチャがあたったといい、親に恵まれないと親ガチャが外れたというのです。

 私のような世代は「親ガチャ」なることばは新鮮です。しかし家庭の格差、地域の格差、収入の格差、健康。そして、謂れなき差別。そんなものは、いつの時代でもあるのです。親に「産んでくれと頼んだ覚えはない」と悪態をついた記憶を持つ人は少なくないと私は考えます。同世代が夢を声高に語るなかで、夢を思うことさえ自ら禁じている人もいるのです。しかし主は言われます。〈彼らは栄光を現す、わたしが植えた枝。わたしの手で造ったもの〉。あなたが生まれた境遇も、いま置かれている環境も、主がなさったのだから、親や周りを責めすぎてはいけない、あなたは神に言うべきです。

 詩篇16篇に次のようなことばがあります。〈割り当ての地は定まりました。私の好む所に。実にすばらしい私へのゆずりの地です〉(16:6)。前の訳だと〈測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ〉。しかし、ぴんと来ませんでした。自分の伝道者人生は、まず自分の適性がそうなのですが、悪条件の困難ばかりで、喜ばしいことなどあるかと嘯いていたのです。

 けれど、いまは違います。自分は、神のあわれみで、人にも恵まれ、よい奉仕を続けさせていただいています。ありがたいと思っています。石川県のあの家に生まれたことも、数々の失敗や躓きや困難も、すべてひっくるめて肥やしとなっているし、〈割り当ての地は定まりました。私の好む所に。実にすばらしい私へのゆずりの地です〉と心から言えそうな自分がおります。

(栄光を現す植木)

 そんなわけで、私たちの成長というのは、人数の成長もすばらしいのですが、おひとりおひとりが悔いのない人生に進んでいくということです。それが神の栄光を現すということになります。〈主を喜ぶことは、あなたがたの力だ〉(ネヘミヤ8:10)と、聖書も言っています。神からの試練や問題があってもいいのです。その分、私たちは知恵深くなったり、勇気が増したり、仲間や家族の絆が深まったりもするのです。

 今日のお話の最初に、ヨハネ福音書の復活の記事で、主イエスがペテロに語られたことばを学びました。〈年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます〉。それは〈ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すため〉でした。

 それは、私たちの自我が砕かれて、神の声や、周りの叫びに、耳を傾けて、自分自身の人生を神に明け渡すことかもしれません。自分自身のリクエストのなかに、他の人の隣人(よきサマリヤ人)になることを加えます。相手の望みを叶えてあげて相手に喜んでもらうことを、わが喜びともするのです。それは神の栄光を現さないでしょうか。

 また年を取っていくときに、自分でできたことができなくなることもあるでしょう。そのときお世話をしてくれる人に心の底から「ありがとう」と感謝する。助けてもらえることはあたりまえではないし、助ける人が少しでも喜んで続けられるように、助けてもらう人のできる喜ばせ方はないか考える。これも神の栄光が現れないでしょうか。

 そして人は必ず死にます。地上の生き物だからです。死とは、若さや健康の喪失です。経済を手放し、親しい関係も区切らなければなりません。しかしペテロのように〈死に方(どんなふうに亡くなるか)で神の栄光を現す〉こともできるのです。

 それは幸いなことではないでしょうか。葬儀のときに私がほぼ必ず読む聖句があります。黙示録の14:13です。曰く〈また私は、天からの声がこう言うのを聞いた。「書き記せ、『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである』と。」御霊も言われる。「しかり。その人たちは、その労苦から解き放たれて安らぐことができる。彼らの行いが、彼らとともについて行くからである。」〉。

 主にある者の死は、神の裁きが主の十字架で贖われているので、解放であり平安です。善い行いに報いがあります。地上の人生が終わることも感謝できます。祈りましょう。「父よ。私たちそれぞれに人生を与えてくださって感謝します。困難と誘惑の多い世界で、キリストの十字架による神の愛を信じて歩ませてください。主の御名でアーメン」。