神の愛は救いなのか ヨハネ3:16-21
日本ではあまり知られていない方ですが、先月17日にジェシー・ジャクソンというアフリカ系のバプテスト教会牧師が84歳で亡くなりました。この人は、一言でいうと、アメリカ合衆国の歴史において、マーチン・ルーサー・キングJr.と、バラク・オバマをつなぐ人であります。
ジェシー・ジャクソンは、1941年、10代の未婚の母親から生まれ、人種隔離という抑圧的な時代に育ちました。才能ある青年でしたが、キング牧師が始めた公民権運動に身を投じ、キング牧師暗殺後は、モーセのあとのヨシュアのような世代の一人でした。牧師でもあり社会運動家でもありましたが、政治家としても特筆されます。
1984年と1988年にアフリカ系アメリカ人として初めて民主党の有力な大統領候補になりました。1991年から1997年まではワシントンDCを地盤とする上院議員でもありました。3月6日に持たれた葬儀でもバラク・オバマはスピーチをしていますが、ジェシー師の死後すぐに、この前大統領は「二度の歴史的なジェシー師の大統領選出馬」が「この国最高の職務を目指す私自身の運動の基盤を築いた」と述べています。
もちろんオバマだけでなく多くの人たちに影響を与えています。それは共和党のあのトランプ大統領も「大統領になるずっと前から知っていた」、「彼は良い男で、個性的で、粘り強く、世間を渡っていく処世術を身に着けていた」「とても社交的で、人間を心から愛していた!」とコメントしました。少なくとも悪口を言ってません。
ジェシー・ジャクソンという人は、人種差別だけでなく、経済的な不公正とも戦い、「ボイコットや座り込みの組織化から、何百万人もの有権者登録、世界中の自由と民主主義の擁護まで、全ての人が尊厳と敬意に値するという彼の信念は決して揺るがなかった」と言われています。
3月6日の葬儀では友人の牧師たちや多くの人々だけでなく、クリントン、オバマ、バイデンといった民主党の大統領だった人たちも参列し、オバマのそこでの弔辞はネットで原稿でも動画でも知ることができます。オバマは弔辞のなかでこう言っています。「私たちは今、希望を抱くのが難しい時代に生きています。毎日目を覚ますと、民主主義の制度への新たな攻撃、法の支配という理念へのさらなる後退、良識への冒涜が待ち受けています。毎日、あり得ないと思っていたような事態に直面するのです。毎日、権力者たちは私たちに互いを恐れ、互いに敵対するよう促し、一部のアメリカ人は他の人より重要であり、中には全く重要視されない人々さえいると吹き込んでくる。至る所で、貪欲や偏見が称賛され、いじめや嘲笑が強さの仮面を被っているのを目にする。科学や専門知識が貶められ、無知や不誠実、残酷さ、腐敗が計り知れない利益を享受しているのを目の当たりにする。私たちは毎日それを目の当たりにしており、そうした瞬間には希望を抱くのが難しい。だからこそ、落胆したり、皮肉に流されたりしたくなるかもしれない。権力と妥協し、手に入るものを掴もうとする誘惑に駆られる人もいるだろうし、善良な人々でさえ、ただうつむいて嵐が過ぎ去るのを待つだけになってしまうかもしれない」。
決して大げさではない危機意識のように思います。しかし、その人、ジェシー・ジャクソンという政治家でもある牧師の口癖は「希望を持ち続けよう」だったそうです。
私たちは、キリストにあってこの世のものではないのですが、この世界に置かれ、この世界に遣わされています。私たちが、神を愛するだけではなく、世界を愛する群れとなれるように、2025年度は標語聖句に本日の冒頭の聖書箇所ヨハネ3:16を掲げ、テーマは「神は御子によって世を愛した」でした。
本日は年度の終りも近いので、本日の標語聖句から学んでみたいと思います。「この聖句があれば、他のすべての聖句がなくなっても、キリスト教は残り得る」とルターに言われたヨハネ3:16です。
「祈りましょう。〈神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである〉。私たちは一年近く礼拝の初めにこのみことばを聴いてきました。もう一度、丁寧に、このことばの伝えることを捉えさせてくださり、新しい日々に向かわせてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。
(神は《世》を愛された)
ヨハネ3:16の最初は〈神は、実に、世を愛された〉ということばで始まります。ここでいう〈世〉というのは世界のことでありますが、否定的な意味(悪い意味)で使われていないと言われます。それは、そうでしょう。神が愛しておられるのですから。
ジョン・C・ライルという19世紀の英国で活躍した著名な説教者がおられました。ライルが書いたヨハネ福音書の講解が日本語でも読めるのですが、〈神は、実に、世を愛された〉ということばについて面白い議論を書いています。
それは、神が愛された〈世〉について二つの全く異なった解釈があって、そのひとつは〈世〉をすべての人(世界中の全員)と捉えないのです。どういうことかといえば、ここでの〈世〉は神に選ばれた人たち(キリスト信仰者)を指していると解釈する人たちがいたようなのです。
信仰や救いに選ばれた者が、神の永遠の愛を受けるのだから、ここでいう〈世〉とは、言ってみれば信仰者(神の救いに選ばれたまことの信仰者)のことだけを指している、というのです。もしそうであれば〈神は愛です〉(Ⅰヨハネ4:16)とか、この〈神は、実に、世を愛された〉は、クリスチャンだけを指していることになるのです。
しかし、このような限定した解釈について、3つの理由を挙げて、ライル先生は反論しています。
①ひとつめです。〈世〉ということばの性格からです。〈世〉ということばは、聖書のなかでは明らかに「邪悪な」ものに対して用いられることばです。もし〈世〉が聖徒たち(クリスチャン)を表わすことばならば、〈世〉ということばをひどく歪めてしまっているというのです。
②ふたつめです。もし〈世〉ということばが神に選ばれた者のみを指しているなら、このあとの「人類全体」と「人類の中の信じている人」の間に明らかになされている区別を無視してしまうことになるのではないか、ということです。
もし〈世〉が信じている人だけを指すのであれば「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは世が滅びることのないためである」と言えば、それで十分あったはず。しかし、主はそう語られなかった。「信じる者、すなわち、世の中の信じる者はだれでも」と言われたのである。
③最後に、神の愛を選ばれた者だけに限定するのは、神の御性質をきびしく狭いものにしてしまう。そして現代には、こういう批判があることを知っているだろう。キリスト教は信じる者にはありがたくても、信じない者に対して不公平である、という批判である。もし神が選ばれた者以外のだれにも御心をかけないとしたら(配慮しないとしたら)神はどのようにして世を裁くというのか。
以上。というようなことです。ちょっとくどい説明だったかもしれませんが、私たちは絶対に限定付の《神の愛》に立たないようにしましょう。〈神は、実に、世を愛された〉。この〈世〉には、私たちも含まれているかもしれないけれど、私たちの信仰を否定している人も含まれます。すべての人が含まれているのです。
練習してみましょうか。神は無神論者を愛しておられます。神は仏教徒を愛しておられます。神はイスラム教徒を愛しておられます。神はヒンズー教徒を愛しておられます。神はユダヤ教徒を愛しておられます。神は異端のキリスト教徒も愛しておられます。神は不可知論者も愛しておられます。神は、お金に夢中で、信仰のことに全く関心のない人も愛しておられます。神はいろいろな特性を持った人も、もちろん愛しておられます。神は、すべての人を(どんな人をも!)愛しておられます。
(神はどのように《世》を愛したか)
〈神は、実に、世を愛された〉。私たちは、神の愛の範囲が無条件であり、すべてであることを確認しました。それは言ってみれば「ある人たちが他の人たちより重要であり、中には全く重要視されない人々さえいると吹き込んでくる」時代に、信じていることや性質に関わりなく、神は〈世〉を(世に棲むすべての人を)愛しておられます。
では、この神の愛はどの程度なのでしょうか。神の愛は範囲だけではなく程度においても最大です。神が世を愛したのは〈そのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに〉です。
先ほど私たちは、どんな宗教の信奉者も、あるいは無神論者も「神に愛されています」と、練習までして、確認をしたのです。しかし実際、神の愛がどの程度深いか(大きいか)は、イエス・キリストによって分かるのです。人間同士でもそうでしょう。たとえば私が家族に最大の愛をもって愛されていたとする。その愛の表れを見ていないとか、見ていても無視しているとか、です。愛の表れを信じないとどうなるか。
その前に、神の愛の表れ(神の御子イエス・キリスト)を信じるとどうなのかを確認しましょう。ヨハネ3:16の後半です。こうあります。〈それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである〉。そして続けて3:17-18〈神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない〉。すべての人が救われるため、世にイエス・キリストは与えられたのです。クリスチャンは、世のものではないのに、世に遣わされて世に棲んでいると先に言いましたが、その先駆(前衛)はイエス・キリストです。
異なる宗教を信じる人や、無神論者や不可知論者に、私たちは聞かれるかもしれません。どうして私たちが神に愛されているというのだ、世の中に戦争や犯罪が絶えない。それでも神は愛なのか。私たちは、どういうことが言えるでしょうか。私たちではなく、神のことばがこう言っているというほうが正解なのかもしれません。Ⅰヨハネ4:10〈私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです〉。
イエス・キリストの十字架の贖いについては続けて語っていこうと思います。十字架を語らないことは、神の愛のすべてを語らないに等しいのです。
(信じない者への裁きと信仰の結果)
そしてこう書かれています。18節の途中から。〈信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。3:19 そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。3:20悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない〉。
神は愛しておられます。世の人すべてを愛しておられます。どれくらい愛しておられるかといえば、イエス・キリストをお与えになったほどです。人々に行いではなく、悔い改めて神に戻れと説きました。自ら贖いのため十字架につけられて〈世の罪を取り除く神の小羊〉(ヨハネ1:29)として命を捨てました。三日目に復活して、天国に行ってから受ける栄光のからだがどんなに確かなものかを見せました。主は息を吹きかけて〈聖霊を受けなさい〉(ヨハネ20:22)とも言われたのです。主は最後の晩餐の最初に弟子たちの足を洗って~これは奴隷の仕事です~、その愛を最後まで、そして極みまで、示されました(ヨハネ13:1)。
信仰とは救いの条件のようでもありますが、救いの結果でもあります。前にも言いましたが、今年、私は主イエスと出会ってちょうど50年になろうとしています。主をまことに信じるとは、この十字架につけられたお方に自分の人生を委ね始めることです。
神の愛が2000年前に現れていても、それを全く知らない人生があります。だから私たちは福音をすべての人に伝えようとするのです。また福音としてイエス・キリストを知らされていても、その名を信じ、受入れようとしていない人がおられます。その人たちの救いのために祈り、とりなし、苦しむことが教会の大きな使命です。
信仰は結果のような側面があります。人生が過ぎていって、たしかに私は信仰者として生かされて実を結ばせていただいた。比較すれば少ない実でも、たしかに私は神の恵みに生かされた。それを21節はこう言っています。〈しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る〉。
私たちは、ジェシー・ジャクソンがそうであったように、大統領だった人たちが何人も出席するような葬儀は出せないと思います。またジェシー・ジャクソンが完璧な人であったという意味でもありません。しかし、このひとりの人の存在と働きが多くの人の光となりました。
私たちもそれぞれ、神の召しを信じ、キリストの福音を伝え、神の愛を証しする人生を目指していきましょう。それが、キリストに倣って、私たちが〈世を愛する〉ことだと思います。多くの人たちの救いを願いながら、すべての人を愛した神の愛を、恐れず示していきましょう。一言祈ります。「愛する神。愛を知らなかった者に、愛を知らせ、使命を与え、私たちにいのちの歩みを意義あるものとしてくださり、感謝します。どうぞ今週もキリストのいのちのなかで歩ませてください。主イエスの御名で。アーメン」。
