2026年3月1日礼拝説教「からだの灯りである知性」マタイ6:22~23

からだの灯りである知性  マタイ6:22-23

 2026年も二か月が過ぎました。今日の週報の予定にも載せました。昨日届いた『連合通信』260号の千葉ニュータウン・バプテスト教会のニュースにも。そして今月15日に開催される総会の資料にも、載っています。実は、私たちの教会が礼拝と宣教(つまり教会としての活動)を始めて、ちょうど30周年になるのが今年です。

 今から30年前の1996年の4月初め、千葉ニュータウンの一角である印西市高花団地のご自宅を、自分たちが毎週日曜に礼拝する所として聖別した、クリスチャンのご夫妻がおられたわけです。そのご夫妻は、練馬区桜台にある練馬バプテスト教会の会員でもありまして、教会の承認を受けて、単独の働きではなく、練馬教会の衛星教会satellite churchとして礼拝と宣教を開始したのです。

 その1996年、妻も私もまだ千葉ニュータウンには居りません。紀伊半島の南端に位置する那智勝浦町で奉仕をしていました。2000年に紀伊勝浦での働きを辞して、1年間の米国遊学、そして2001年9月から東京基督教大学の男子寮主事となり、合わせて2002年4月から、練馬から派遣された千葉ニュータウン衛星教会の牧師ともなります。

 ですので、私のここでの牧師生活より、千葉ニュータウン・バプテスト教会の歴史のほうが長いということになります。30年前にひと組のご夫婦がここで礼拝と宣教を始めなければ、教会は存在しなかったかもしれない。しかし、ご夫妻が主の導きで教会活動を始めてくださったので、いまの私たちの群れになっているわけです。

 今年のイースターは4月5日で、さすがにイースターは主イエス復活の日曜日ですから、いっしょに祝うのもどうかと思いまして、次の日曜日の4月12日に教会の礼拝と宣教を開始して30周年の記念礼拝をささげようと考えています。執事会でも、この記念礼拝に講師としてお呼びできる方を相談したのですが、いまも練馬教会に集われている片山信彦兄に講師を引き受けていただきました。

 片山さんのご紹介は、今月中に完成します集会のチラシにも載せますので、ぜひ楽しみにしつつお祈りください。今年は、表に4月5日のイースター礼拝の案内、裏には4月12日の教会30周年記念礼拝の案内、両面カラーのものをつくって、多くの有志の方とポスティングできればと願っています。

 今日は少し、こうしたメモリアルな話が多いかもしれませんが、この教会に集う者としておつきあいいただければ幸いです。一言お祈りいたします。「天の父なる神。〈二人か三人がわたしの名によって集まっているところには、わたしもその中にいるのです〉(マタイ18:20)と主イエス・キリストは、ご自分を信じる弟子たちの礼拝や交わりの只中にいてくださる、臨在の約束をされました。その約束を信じて、私たちは集っています。私たちは、十字架の贖いによって罪を赦された者、永遠のいのちの恵みに与る者、そしてキリストの福音を聴く者です。どうぞ今日も私たちを、神であるあなたのことばによって生かしてください。アメリカとイスラエルがイランを攻撃する事態が発生しました。私たちと礼拝を共にした姉妹と家族もまた彼の国に居られます。どうぞご無事でありますように。戦争の終結を願います。私たちの救い主、平和の君、イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。

(世俗の中で神に生きる)

 この世は、宗教的なタイプの人とそうでないタイプの人に分けることができるかもしれません。私は牧師の働きをしていますので、世の中から見ると宗教的なタイプに分類されるでしょうか。しかし自分のもともとのタイプは、そうではないと思います。私の母は、今も故郷のほうで生活していますが、母こそ宗教的なタイプだと思っています。

 私の母は宗教団体が好きであります。今から30年ほど前にバプテスマを受けましたが、たぶん子どものころから親に連れられ、大人になってからも人に誘われてはいろいろな宗教の集まりに顔を出していました。クリスチャンになってからも、信仰がぐらつくときは他の宗教団体に頼ろうとします。母の人生にとって、宗教といいますか、宗教団体は欠くことのできないもののようです。

 パウロがコリント人への手紙第一のなかで〈ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します〉(Ⅰコリント1:22)と語っています。パウロ自身もユダヤ人ですが、神によって旧約聖書を与えられたユダヤ人は宗教的な民族でした。〈しるし〉を要求するというのは、その信仰の正しさを示す「奇蹟」を求めるということです。

 そうしたユダヤ人の集まりは、当然、宗教的な社会です。私たちはすでにマタイ6:1-18を学びましたが、そこでは主によって施し、祈り、断食といった宗教的行為について語られていて、人に見せるために施しや祈りや断食をするなと説かれていました。当時のユダヤは、宗教的なことが人一倍評価される社会でした。

 それに対して6:19から6:34までのマタイ6章後半は、宗教的なことというより、非宗教的といいますか世俗的な事柄について、主イエスの弟子はどうあるべきかということが語られていきます。

 たとえば6:25では主イエスが〈何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい〉と言われています。

 また6:31-32ではこうしたことを受けて〈ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです〉とも言われます。32節で〈異邦人〉というのはユダヤ人以外の外国人ということです。ユダヤ人のように熱心に宗教(しるし)を求めない、まことの神を知らないで、救いを願いもしない人たち、という意味にもなるでしょう。

 つまり、マタイ6章(山上の説教の中心の章)は、前半が宗教的な行為で気をつけるべきこと、後半が世俗的な生活で気をつけるべきことを教えているわけです。

 すでに私たちは先週6:19-21を読んでいます。このように書かれていました。〈自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。6:20 自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。6:21 あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです〉。

 私たちは、時には親しい他者を蹴落としてでも自分を守ろうとする者です。しかし、そんな私たちのため〈地上に宝を蓄えるのはやめなさい〉と主に言われています。そして〈自分のために、天に宝を蓄えなさい〉と言われます。〈天〉とは、目に見えないし、手も届かない、しかし神のおられる(神の御前の)領域です。私たちは、他の人のために地上に蓄えてもいいのですが、自分のためだというのなら天にこそ蓄えるべきです。

 どうしてでしょうか。地上に蓄えるなら、宝が台無しになったり、他人のものになったりするからです。反対に、天に蓄えた宝はだめになることはないし盗まれもしない。

 これは人間にとって、所有の問題、生存の問題、宗教の有る無しに関わらない重要な問題です。主イエスの父なる神は、狭い意味での宗教にだけ拘る方ではありません。私たちが宗教的でなく、むしろ世俗的であっても、そうした世俗の領域においても、私たちと出会おうとしてくださるお方です。

(正しい宝を見分ける目)

  本日は、この宝の問題をさらに深めていこうということです。

 ある人が、この宝(富)の問題を、主は三つのたとえで表わしていると言いました。ひとつめは、先ほどから述べております「貯蓄のたとえ」です。ふたつめは、6:22-23にあたりますが「澄んだ目(健やかな目)のたとえ」です。そして三つめは6:24「主人に仕えるしもべのたとえ」です。

  さらに、ロイドジョーンズという人は、6:21を心heartのこと、6:22-23を知性mindのこと、6:24を意志willのこととして分類しています。

 それで、本日は6:22-23を読んでいきましょう。「澄んだ目のたとえ」であり、私たちの知性が問題になっています。読みましょう。マタイ6:22-23〈からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか〉。

 人の全身(からだ)のなかで〈目〉が肝心要であると言っています。ロイドジョーンズは、これを知性としたわけです。〈目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか〉。23節は悪い例です。目が健康でないので全身が暗い。それも計り知れないほどの闇のようです。

 私たちは自分の知性を自慢しています。きっと先祖が〈善悪の知識の木〉(創世記2:17)から取って食べたせいだと思います。しかし、私たちは、心に不安を抱えていたり、良心の呵責に苦しんでいたりするのです。

 しかし知性は、こう言うのです。心配だ、不安だというのは弱い人間のことだ、私は弱い人間ではない。あの間違ったことを時折思い出すけれど、それを見た人間(目撃者)はいないし、だれでも同じようなことをしているではないか。何より神がいるかどうかも分からないし、神の裁きなどない。

 そのようにして知性は、人を明るくするためではなく、闇の世界に閉じ込め続けるために働くのです。私は高校生のときに教会に通い出しました。神の救いは、福音を聴くことによって人の心に届き始めます。〈信仰は聞くことから始まります〉(ローマ10:17)とあるとおりです。

 しかし多くの場合、私たちの知性は、福音を信じるほうではなく信じないほうに、承認するほうではなく否認するほうへと動きます。私たちの感性が、神よりも悪魔を、調和よりも対立を、義の喜びよりも罪の楽しみを、実は愛しているからです。私たちは心を点検しなければなりません。〈あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです〉(6:21)。

 しかし〈からだの明かりは目〉であり、その目が健やかならば〈全身が明るくなります〉。聖霊によって、それまで曲がっていた知性が変えられて、福音を信じ、受入れ、救いへと至ります。それは神を喜ぶ魂の救いであり(Ⅰペテロ1:8-9)、キリストと同じ姿にやがて変えられるからだの救いです(Ⅱコリント3:18)です。

 そして知性もまた魂の一部ですから、キリストにあって知性も救われて、神の栄光のために、神の御心に沿って働くことができるようになります。知性は魂の〈目〉です。朝起きたとき、私たちは心が赴くままにスマホを開けてしまいますが、知性によって聖書を開くほうを選べます。あるいは、スマホを使うにしても「聴くドラマ聖書」や他の聖書アプリを開けるか。私たちは魂の〈目〉である知性をもって、心を制御し、自分たちの宝を決定づけることもできるようになったのです。

 本日は、キリストを信じる前の知性と、キリストを信じてからの知性は異なることを学んできました。〈からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか〉。

(知性から始まる救いの経験)

 お話の始めに、今年はこの教会の30周年、メモリアルイヤーだというお話をしました。実は、今年は他のメモリアルイヤーでもあると昨日思い出しました。1976年、夏のことでしたが、私はちょうど50年前のバイブルキャンプでイエス・キリストを信じて新しく生まれ変わり、その年の12月5日に水のバプテスマを受けたのでした。

 昨日、そのことを妻に話すと「お疲れ様でした」と言ってくれました。しかし、ほんとうにお疲れ様だったのは、私を信仰に導いてくれた聖書の神なのかもしれません。

 また先週小田原で持たれた連合教職セミナーで講師だったのは、聖契神学校教務主任の山崎ランサム和彦先生でしたが、再会したのは50年のちょうど半分の25年ぶりでした。私が家族と共にミネソタのベテル神学校で一年勉強したのは牧師という働きのリフレッシュのためでしたが、山崎ランサム先生は新約聖書学を究めて日本の神学教育に貢献するためでした。しかし共にベテルのキャンパスで数少ない日本人学生として出会い、重なった年月の半年で家族ぐるみの付き合いをすることができました。

 私にとって、このミネソタの一年は大きくて、この経験があって私にはモデルチャーチができましたし、TCUでの男子寮主事の仕事も与えられました。私たちの教会の国際化・多言語化もこの経験なくして、というところが多分にあります。

 何より50年前、福音を聴いたとき、私はほんとうに頭から信じられませんでした。しかし福音とその信仰を丁寧に学んでいくと、それは知性の問題ではなく、道徳的な意志の問題であるとわかりました。1976年に私は聖霊に捉えられ福音に目が開かれて、クリスチャンとなりました。それ以来、聖書全体が、神の愛のことば、救いの福音として読めるようになりました。それは〈十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出された〉経験でもあります(ガラテヤ3:1)。そんなふうに誰もがイエス・キリストを信じることができます。あなたも、この救いに与ることをなさいませんか。福音を丁寧に学んでいくと、その本質が分かります。祈りましょう。(祈りのことばは略)。