2026年2月22日礼拝説教「そこに心があります」マタイ6:19~21

そこに心があります    マタイ6:19-21

 10年以上前でしょうか。言ってみれば個人的な流行(マイブーム)なのですが「ことばは感情を載せる乗り物だ」ということばが気に入って使っていたことがありました。たしかにことばは感情を載せるのです。いえ、それどころか、感情がなければ、ことばそのものも生まれなかったと言っていいのです。

 昔読んだ本にあった例話ですが、太古の日本人がひとり(きっと山のほうから出てきたのでしょう)、生まれて初めて海を見ました。その海の青さ、大きさ、広さ、美しさに感動して、その日本人は「う」と声を出します。この感動のあまり口から発した「う」という声が、海という日本語の名詞になったという、嘘か本当か分からない話です。

 ことほどさように、ことばというものは感情が動いて発していく。そういうわけで「ことばは感情を載せる乗り物だ」と説明ができるわけです。しかし最近の世の中の様子を見ていきますと「ことばは感情を載せる乗り物だ」というだけでなく、もうひとつ「ことばはことばを載せる乗り物だ」と言わなければならないと考えます。

 つまり、どんな時代であっても、人間社会は不道徳で不完全な人間の営みですから、危ういところは常にあるのだと思います。ただ、私のような者でもはっきり分かるように、世界史は大きな曲がり角に来ています。

 ことばがことばとして機能せず、理屈が理屈として通用せず、自分と異なる者を排除し、お互いに殴り合いをするためにだけことばが使われているのではないか。あるいは感情に訴えて、批判精神を麻痺させ、人々をコントロールするためだけにことばが使われているのではないかと、思えて仕方がないのです。

 私たちは教会です。こんな時代であれば、なおのこと、いま続けて読んでおります山上の説教を丁寧に読んでいきたいのです。私たちの救い主イエス・キリストが、ご自分の弟子たちに対して、この上もなくすばらしい教師でもあったこと。この方がいま私たちにも〈完全でありなさい〉。〈あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい〉(マタイ5:48)と言われていることを覚えたいのです。

 一言祈りましょう。「イエス・キリストの父なる神。あなたは天におられます。あなたは、ことばの曲がった時代にも、私たち人間を正そうとしてくださいます。たしかに私たちの目は曇りやすく、大きな声にすくみ上がり、魅惑的な声には誘われます。それでもあなたが語ってくださいます。時には〈かすかな細い声〉(Ⅰ列王19:12)ですが、それでも私たちの耳には届くのです。聖書が〈教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益〉(Ⅱテモテ3:16)であることを信じます。〈主よ、お話しください。しもべは聞いております〉(Ⅰサムエル3:9-10)。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。

(天とは何か)

 本日、私たちが開いています箇所はマタイ6:19-21です。そのなかで印象的な語句は何かと問われたら、多くの人は20節の〈自分のために、天に宝を蓄えなさい〉を上げると思います。そして、皆が皆、天に宝を蓄えるとは何だろうかと考えると思います。天とは〈地上〉(6:19)ではないことはたしかです。しかし、もっと大切なのは、天とは、神がおられる場所だとされているということです。

 6:1にこうありました。〈人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません〉。6章の前半は、ユダヤの社会で宗教的な徳目とされた、施し、祈り、断食について、主が述べられているところです。

 もちろん「主の祈り」とその前後もありますが、それ以外は〈人に見せるために人前で善行をしない〉ことが奨められています。その役を演じて人々から喝采される俳優、偽善者のようにするな、ということでした。そして神は〈隠れたところにおられる〉とか〈隠れたところで見ておられる〉と書かれていました(6:4,6,18)。

 してみると〈天〉とは、〈地上〉ではなく、神のおられるところですが、それは同時に人には〈隠れたところ〉と言えるでしょうか。自分にとっても他の人たちにとっても、目には見えない、神のおられる領域、それが〈天〉ということになります。

(天は私たちには見えない)

 今日のところを見ていきましょう。6:19-20〈自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。6:20 自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません〉。

 19 節と20節が互いに対応して釣り合っていることは分かると思います。そして〈蓄える〉と訳されている動詞は〈宝とする〉という別訳を当てはめることもできるはずです。すなわち〈自分のために、地上の宝を宝とするのはやめなさい〉〈自分のために、天の宝を宝としなさい〉という訳も可能だと思います。

 この奨めは、蓄えること(何かを大切に思って保管すること)自体を禁じているわけではないのです。あるいは自分のためでなく、他の人のためであれば、地上に宝を蓄えることもよいかもしれません。そして天に蓄えるならば、自分のためであってもよいのです。よいどころか〈天に宝を蓄えなさい〉と奨められています。

 〈天に宝を蓄える〉というのは、いったい何なのでしょうか。繰り返しますが、次のようなことが言えないでしょうか。

 何かに価値を見出し、それを大切にしまっておく。これ自体、何の問題もありません。

 自分以外のために、何かを大事に蓄えておく。たぶんこれもOKです。

 しかし自分のためであるならば、地上で蓄えることはよくない。自分のためであるならば、天に宝を蓄える。あるいは天の宝を己が宝とする。あるいは「天国銀行に預金する」のはいいのです。

 してみると、こういうことではないですか。私たちは、下部構造に従って、ある意味、自己中心に生きていくことは仕方ないけれど、何に価値を置くか、それは地上ではなく天に価値を置くべきだ。天は人には見えない〈隠れたところ〉であるけれど、ここにこそ神がおられる。イエス・キリストの父で、私たちのお父さんとなった方がおられる。

(豊かな青年の出来事)

 ここで、どうしても参考にするべき並行箇所を上げたいと思います。同じマタイ19:16-22を開いてみましょう。曰く〈すると見よ、一人の人がイエスに近づいて来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」19:17 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです。いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」19:18 彼は「どの戒めですか」と言った。そこでイエスは答えられた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。19:19 父と母を敬え。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」19:20 この青年はイエスに言った。「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。」19:21 イエスは彼に言われた。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」19:22 青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである〉。

 この青年は〈多くの財産を持っていた〉とあります。そして並行箇所では〈指導者〉(2017版)あるいは〈役人〉という説明もつきます(ルカ18:18)。つまり若さや財産だけでなく、この人には地位もありました。この青年は、道徳的にもしっかりと育てられたのでしょう。少なくとも自分は、神に救ってもらえるだけの、正しさを持っていて、良い行いをすることで永遠のいのちを獲得できると考えていたのでした。

 しかし遣り取りのあとに、主は青年にこう言います。19:21〈「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」〉。

 この青年は、道徳心も、良い行いを実践しやすい地位もありました。しかし金持ちでした。この場合、とくにルカ福音書には顕著なのですが、お金のあることが仇になります。皆がうらやむ富の蓄積が、ときに落し穴となります。

 主イエスは別の箇所でこう言いました。〈自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです〉(ルカ12:21)。

(どのように天で宝を蓄えるか)

 ですから今日の箇所で、主は、どこに宝を蓄えるかが大事だとしたのです。部署によっては会社の金を預かることもあるでしょう。そういうことではなくて自分のために蓄えるのなら、どこの銀行に託すかを考える以上に、目には見えても神の御心からは遠い場所(地上)ではなく、目には見えないが神がいつもいてくださる場所(天)にお預けなさいと言われたのです。

 その理由は、地上の富は〈虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗む〉からだというのです。反対に天の富は〈虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともない〉からです。これは有形資産だけではないのです。名誉への愛着、地位への愛着、身分への愛着、不当な意味での仕事への愛着、その他何であろうと、この世の生活、この世のことで終わってしまうもののすべてなのです(ロイドジョーンズ)。

 ですので、私自身のことで皆さんにお願いしたいことがあります。若いときに聞きました。伝道者が気をつけなければならないのは、金銭欲と異性欲と名誉欲。お互い様でそうなのですが、教師は格別きびしい裁きを受けますので(ヤコブ3:1)、どうぞよろしくお願いいたします。

 ひとつのまとめとして6:21を読みます。〈あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです〉。自分が手放せないと思って、大事にしたいと考えている、そこにあなたの価値観があり、心の所在がある、というのでしょう。

 だから私たちは、一日のうち、短い時間であっても、意識的に主の前に出ましょう。箴言4:23にはこうあります。〈何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く〉。皆さんが、何にお金を使っているか、何に時間を割いているか、何にエネルギーを費やしているか、それによって皆さんのほんとうの価値観がわかります。ほんとうの優先順序が明らかです。

 「銀も 金も 玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも(しろがねも くがねも たまも なにせむに まされるたから こにしかめやも)」(山上憶良)。日本に現存する最古の和歌集の『万葉集』にこの歌はあります。「金銀などの物質的な豊かさよりも、子供がかけがえのない宝物であるという親の心情」がそこに描かれています。

 それはほんとうに良いことであり、正しいことであると思います。私も三日前まで0歳の孫がおりましたので、そんな気持ちを味わいました。しかし、思います。自分のために子どもや孫に接する以上に、子ども自身、孫自身のために愛情を注ぐ。ひょっとしたら取り違えたり、見分けのつかないことかもしれない。

 しかし、どこかで信仰を持っている私たちは、子どもの成長、孫の成長も、それぞれに責任を果たしながらも、どこかで主にゆだねなければならない、いいえ、主にこそ期待すべきです。

 同じようなことでも、ただの苦役として考えるか、良い行いや成長の機会を主がくださったと考えるかが、けっこう大事なのではないでしょうか。

 ほんとうに今日も難しい聖書の箇所で、私は呻吟しつつ備えました。ただ、このことを証しします。いかなる困難も主の恵み。劣等感や痛みも、主の恵み。物質的なものも、そうでないものも、主の恵みとして思うときに、私たちは天に宝を積めているのではないか。そうして主がお入り用なら、その宝を手放すこともできるのではないか。

 説教のあとの歌を自分が決めることにしているのですが、本日は新聖歌172番を歌うことに決めました。理由ははっきりしませんが、これこそが今日の箇所の応答の賛美だと確信しました。私たちが主の恵みを数えだしたときに、私たちは(こんな私たちですけれど)天に宝を積むことができているのではないでしょうか。

 地上で生きる私たちが、それでも天で宝を積めることが(あるとすれば、そのことが)奇蹟なのではないでしょうか。

 祈りましょう。「愛する神。罪深く不敬虔なこの者が、主を賛美でき、キリストによる恵みを数えることができ、聖霊の感化による救いと信じて感謝します。どうぞ私たちに、主の恵みを数えさせ、天に宝を積む人生にいよいよ導いてください。私たちをまことの幸いに導くイエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。