大きな祈りを祈る~2026年度の標語聖句~ ヘブル13:20-21
本日の中心聖句はヘブル人への手紙13:20-21です。これは、一体どうしたことか。実は来年度(この4月から)の標語聖句をこの聖句にしたいと考えています。
このところ教会は、一年一年だけでなく、3カ年目標も立てています。それは「神を愛し、世界を愛し、教会を愛する群れ」ということばで、毎週小さく週報にも載せています。多くの人が新しく加わり、またこの3年以内にさらに加わることを信じて、教会としてのアイデンティティが確認できることを目指しています。
そしてこの2年、2024年度は「神を愛する人生」ということで、神を礼拝し、神に人生を導いていただく感謝を強調してきました。またこの2025年度は「神は御子によって世を愛した」ということで、神の愛の視点で世界を見ていくことを創世記(原初史)の学びなどからトライしました。昨年秋にH姉の母教会フィリピンのセブ島の教会にお見舞いを送金できたことも恵みでした。
「神を愛し、世界を愛し、教会を愛する群れ」。4月からの2026年度は「教会を愛する」ことにフォーカスを当てようと考えています。
「教会を愛する」ということはどんなことでしょうか。教会を愛するとは、自分ではない者を愛することだと誤解している人がいます。国家や自治体に税金を納め、国民や市民として義務を果たす。そんなふうに教会と自分の関係を理解し、教会を愛することとは、集会を休まず献金もそれなりにすることだと、まず考えてしまう人は不幸です。
そうではなく「教会を愛する」とは、第一に「自分を愛する」ことに似ています。なぜなら、教会とは、福音によって神を信じ、世に派遣されている人々の群れのことだからです。キリストの福音を聴いた時から、すでに神の招きは始まっています。今日も私たちは福音を聴こうと集まっています。礼拝とはキリストの福音を聴くことです。
ですから「教会を愛する」というとき、今日、ここにおられる皆さんおひとりおひとりが含まれていることはたしかです。「教会を愛する」とは「自分を愛する」ことを含みます。なぜなら、私たちはキリストのものだからです。キリストの教会を愛することは、キリストのもの(神の家族)である自分をも愛することです。
もちろん、さらにこういうことが言えます。「教会」にはすでに自分が含まれていることは分かりました。しかし自分ひとりではありません。「教会を愛する」とは他の人を愛することを含むのでしょうか。もちろんです。イエス・キリストはこう言われました。〈わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります〉(ヨハネ13:34-35)。
教会の交わりで、一方的に愛することしかできない人ではなく、ただ愛されることだけを求める人でもなく、キリストに倣って〈互いに愛し合う〉ことが求められています。皆さん、前にも言ったと思いますが、〈互いに愛し合う〉ことは決してひとりではできない、単独では不可能なことです。俺は〈互いに愛し合う〉ぞと宣言しても、必ず「だれと?」と問われます。教会とは、信仰の個人プレーではなく、団体戦です。
一言祈ります。「イエス・キリストの父なる神。私たちは今日もあなたの御前に出ることができました。感謝します。今日久しぶりに来られた方、始めて来られた方にも、キリストの福音が語られ、聴かされて、すべての人が100倍、60倍、30倍の実を結ぶ者になりますように。神の真理のことばのなかで、聖霊のお働きが著しくあって、福音を受入れ信じる人、いよいよ福音にゆだねる人、この福音を証ししたり伝えたりすることを改めて決心する人が起こされますように、イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。
(難解なヘブル書)
本日は、新約聖書の手紙群の中でも個性的なヘブル人への手紙を開いております。数年前ですが、神学を学ぶある若い兄弟が、学び甲斐があると思ったらしく、ヘブル人への手紙を丁寧に学んでいて、この手紙が好きだ、と私に言いました。この手紙を読んだり学んだりした人は、だれでもそうだと思うのですが、そんなふうに長続きするだろうかと私も思ったものでした。
少しだけ、この手紙について書いてある本をいくつか読みますと、ヘブル人への手紙は手紙と呼ばれているけれど、これは説教集あるいは論文であるという理解がいくつかありました。ヘブル人への手紙は、後になって、書いた内容に権威を持たせるため、たとえばパウロが書くような手紙ふうに末尾を書いた(付けた)と言う人たちもいます。
そんなヘブル人への手紙の末尾部分に、本日の祈りはあるわけです。そして、その祈りの直後にはこんなことばが出てきます。13:22〈兄弟たちよ、あなたがたにお願いします。このような勧めのことばを耐え忍んでください。私は手短に書いたのです〉。
ヘブル人への手紙はどちらかといえば難解で、新約聖書の手紙のなかでも〈耐え忍んで〉読むタイプだと思います。著者はこの手紙のことを〈私は手短に書いたのです〉と言っていますが、もし手短に書かなかったら、どんなに長い文書になったのだろうと思わされます。このヘブル書の記者は、すぐれた知性を持った異邦人で、使徒パウロよりも上手なギリシア語でこの手紙を書いていると言われています(田川健三)。
こんな難解なヘブル書です。ヘブル書にはこういうことばもあります。〈固い食物〉の話です。5:13-14にこうあります。〈乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。5:14固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです〉。ヘブル書で論じられている事柄そのものが、幼子のための〈乳〉ではなく〈訓練された大人〉のための〈固い食物〉のように思います。
(難解な祈祷文)
この難解なヘブル書に、難解なお祈りがあります。それは今日のテキストであり、私たちの教会がこれを2026年度の標語聖句とし、主日礼拝の招きのことばとして4月から一年間聴き続けようとしていることばです。〈永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン〉。
この祈りのことばは、礼拝などの祝祷にも使われてきたことばです。皆さんは祝祷の聖句といえば、別の聖句を思い出すでしょう。この教会の礼拝では、通常、民数記6:24-26とⅡコリント13:13を並べた祝祷をしています。そして時々、葬儀や年末年始など、希望を強調したい時にローマ15:13を私は用いています。このような祝祷に用いる聖句の、あとひとつとして先ほどの祈りのことば(ヘブル13:20-21)があるのです。
祝祷で使われる他の聖句よりも長いのは、明らかです。それだけではなく意味がたいへん取りにくい。今回、私たちが使っている2017版の訳は、以前の版よりも分かりよいと思いました。それでも、祝祷を聴いて(何度も聴いて)意味のよく分かることばかといえば、そうでもないと思いました。
難しいことばです。それでも、私は今日このようにこの祈りについてお話ししようと決めております。鋤焼sukiyakiという料理があります。日本を代表するメニューのひとつです。私は、料理としての鋤焼に迫ることはできないとして、私はそれでもこの鋤焼の説明を少しでも遣り遂げたい。
それならば、牛肉、白滝、焼豆腐、葱、生卵、醤油、砂糖、味醂といった鋤焼の材料の説明をするという方法があります。「鋤焼はうまい」と一言でしか言えない者でも、それぞれの材料の説明をすることで、鋤焼を知らない人にも多少は分かってもらえるかもしれない。
そのような思いをもって、本日のヘブル13:20-21の祈りを語ろうと思います。どれが牛肉で、どれが焼豆腐か葱か分かりませんが、今日は分けて説明します。
(主イエスはいのちを捨てた)
第一に、主イエスは〈永遠の契約の血による羊の大牧者〉です。〈牧者〉というのは羊飼のことです。主イエスは〈大〉が付く羊飼です。イスラエルの伝統では、神を羊飼として、人を羊にたとえることがありました(詩篇23篇)。それでは主イエスは、人類にとって神か、神に等しい存在なのでしょうか。
それだけでなく〈永遠の契約の血による〉と書いてあります。これは主イエスが十字架の上で流された〈契約の血〉に違いありません。〈罪を赦すために多くの人のために流され〉ました(マタイ26:28)。主イエスは、羊飼であると共に、過越の祭で屠られる〈神の子羊〉(ヨハネ1:29&36)でした。
そして主イエスご自身は、ご自分を羊飼にたとえました。それも悪い牧者でも普通の牧者でもなく〈良い牧者〉だと言ったのです。〈わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます〉(ヨハネ10:11)。主イエスは敵と戦って死んだのではなく、羊である人間のために自ら十字架にかかっていのちを捨てたのです。主イエスが〈ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました〉(ヘブル13:12)。〈門の外〉とはエルサレムの外で、ゴルゴダの丘です。
(神はイエスを復活させた)
第二に、神は〈平和の神〉であって、〈私たちの主イエスを、死者の中から導き出された〉方です。主イエスは全人類の罪の身代わりで、神からの裁きと呪いと怒りを受けて死にました。主は墓に葬られ、黄泉に降り、そういう意味で、主は他の死んだ方々と全く同じように死んだのです。そこに命は無く、力はなく、望みもありませんでした。
主イエスご自身で復活する見込みなどなかったのです。しかし〈キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった〉(Ⅰペテロ2:22-23)。〈自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました〉(ピリピ2:8-9)。
本日も申し上げますが、主イエスは自らの力で甦ったのではなく、父なる神の手によって復活させられたのです。その理由は、主イエスの生涯が奇蹟の生涯であって、十字架の死に至るまで、神に100%従って、救い主の使命を果たしたからです。〈それゆえ〉。〈それゆえ〉と書いてあります。〈それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました〉。それが〈平和の神〉の働きでした。
(私たちを再創造する主)
第三に、イエス・キリストの父なる神、すなわちこの〈平和の神〉は〈あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいます〉。イエス・キリストを甦らせた、神の力は、私たち不従順だった人間を、造りかえて、神の御心を行う者にしてくださいます。これが救いです。
キリストが死者の中から復活したように、キリストを信じる私たちは〈死からいのちに移されて〉(ヨハネ5:24)しまうのです。そして神の掟から外れるだけでなく、よしんば神の掟を行っても、それを理由に高慢になってしまう私たちが、神に栄光を帰することを含めて神の御心を行う者になるのです。隣人を正しい心で愛せるようになります。そのように、すべてが造りかえられ新しくなるのです(Ⅱコリント5:17)。
(すべてを治める主)
とはいえ、神の御心を行うのは自分だけではないのです。第四に、神ご自身が〈御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいます〉。思えば、良き神の働きにより、私たちは整えられたのです。この〈整える〉と訳されたことばは〈備える〉とも訳せますし、〈完全な者とする〉とさえ訳せるのです。私たちだけでなく、私たち以外の人にも、あるいはあらゆる事物にも神の御心が現れるのです。これもまた、イエス・キリストの贖いのおかげです。
神の御心に生きる「私」と「あなた」がキリストのゆえに〈互いに愛し合う〉ことができるのです。神の御心は、私やあなたの内側にも、そして外側にも行われます。
(栄光は主に)
最後に〈栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン〉となります。私たちは、主にあって晴れがましくなるでしょう。しかし栄光を自分たちに帰するなら、それは堕落です。地上でもしばしば行われますが、天上でも自分に栄光を帰そうとして悪魔は堕落したのです。「恥は我がもの、栄光は主のもの」です。
祈りましょう。「父よ。私たちがあなたの御子イエスを愛し、それゆえに教会を愛する者であらしめてください。来年度はこのヘブル13:20-21のことばを掲げます。どうかこの祈りが聖書に書かれているだけでなく、私たちの唇から、筆先から、あふれてくるようにしてください。教会のかしら、救い主イエス・キリストのお名前で。アーメン」。
