2026年2月8日礼拝説教「私たちの教会は何を目指しているのか」イザヤ61:1~4 教会のDNAシリーズ❸

私たちの教会は何を目指しているのか   イザヤ61:1-4[3]

 いまから15年から20年くらい前の話ですが、そのころの私たちの団体の界隈で耳にしたことばがあります。「夕張に教会はあった。しかし教会に夕張はなかった」。

 夕張というのはわかりますでしょうか。日本の北海道の中央部にある市のひとつです。夕張メロンという、果物の産地としても知られています。また、かつては石炭の採掘で栄えた自治体でした。しかし石炭の需要が少なくなって、すべての炭鉱がやがて閉山。行政の不手際もあったようです。20年くらい前に財政破綻をした自治体として有名になりました。夕張市の人口は、1960年度の約117,000人をピークに、現在は7,500人を切っており、空家率は40%を超えて北海道一のようです。

 夕張市の財政破綻が全国的に知られるようになったころ、仲間の牧師が夕張を訪ねて、夕張にひとつだけ残った教会の牧師から聴いたことばらしいのです。「夕張に教会はあった。しかし教会に夕張はなかった」。禅問答のようで、聞いてすぐにわからなかったし、いまも覚束無いのですが、こんなことではないでしょうか。

 夕張に、教会堂はあったし、礼拝に集う人もいないわけではなかった。活動もあった。しかし夕張という地域が抱えた問題。炭鉱が閉山になって、大勢の人が仕事をなくす。夕張で別の仕事を見つける人もいるが、他へ引っ越す人や家族も多かった。炭鉱の町でなくなって、観光業への取り組みもあったけれど十分な結果ではなかった。

 どんな場所にある教会も、その地域と無関係なわけではないはずです。しかし私たちの時代の教会は、ともすると、その純粋さを守ろうとするあまり、地域の人たちから遊離する(懸け離れてしまいすぎる)ことが多いのではないか。

 そして「夕張に教会はあった。しかし教会に夕張はなかった」とあったように「印西に教会はあった。しかし教会に印西はなかった」。「千葉ニュー(タウン)に教会はあった。しかし教会には千葉ニュー(タウン)はなかった」。そんな教会のありようが、神であるのに人として来られたイエス・キリストのからだとしてふさわしいのかどうか。今日はそんなことを皆さんといっしょに学んでみたいと思います。

 一言祈ります。「愛する主イエスよ。あなたは今日もここに臨んでくださっています。あなたは仰いました。〈二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです〉(マタイ18:20)。あなたのお名前のゆえに、この集まりにもあなたは共にいてくださいます。他でもない、この時代。他でもない、この場所。他でもない、この教会に今日私たちは集っています。父なる神が呼び集めてくださり、礼拝の後は、私たちをこの世に再び派遣してくださることを感謝します。あなたからの使命をどうぞ果たさせてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。

(地域に貢献する教会)

 今日は4節のお話です。先週も言いましたが、教会が閉鎖してもおかしくない時期、ほんとうに私自身が打ちのめされていたころに、61:3の最後のことば〈彼らは、義の樫の木、栄光を現す、【主】の植木と呼ばれる〉ということばを若い友人が私に示してくれました。それだけで十分心強かったのですが、そのとき、その若い友人の師匠にあたる兄弟が私にこう言いました。

 「このことばだけでなく、あなたはこのことばから広げていくだろう」と。これも預言みたいな行為ですが、このことばに愛着を抱いて、毎年この時期にこのことばから語っています。そして、聖書は文脈を大切にしますから、この61:3の前後から理解を深めようとするのは王道で必然です。とはいえ、こんなルーティンも恵みかもしれません。 61:4を読みます。〈彼らは昔の廃墟を建て直し、かつての荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する〉。

 〈義の樫の木、栄光を現す、【主】の植木と呼ばれ〉た、この人たちは〈昔の廃墟を建て直し、かつての荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する〉わけです。どういうことでしょう。一言でいえば「いのちのある教会は地域の祝福となる」。あるいは「成長できた教会は地域に貢献する」。そういうことなのでしょうか。

 イザヤ書が聖なる書物の一つとしてまとめられていった時代、ユダヤの都エルサレムは〈廃墟の町々〉でした。新バビロニア王国に攻められて、神殿は破壊され、王族をはじめおもだった人たちはバビロンに連れていかれていました。そんな〈廃墟の町々〉を人々は〈建て直し〉〈復興し〉〈一新する〉というのです。

 汚名返上です。いえ、返上どころか、エルサレムの復活に人々は目を見張るのです。61:7〈あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受け、人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、人々は自分の地で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが自分のものとなる〉。福音によって変えられた人々は地域に祝福をもたらします。

 私たちは、この地域の教会として何を意識すべきでしょうか。同じ地域にある別の教会でしょうか。同じ地域で伝道する教会として、エールを送ったり、必要ならば協力したり、切磋琢磨することが健全な関係です。

 また、仏教や神道、他にもいろいろな信仰が、この地域にもあるでしょう。それぞれの信仰の特徴を知って、広く宗教について考察する。そんななかで、相手をやり込めるためではなく、さらに深く主を賛美できるように、十字架の恵みにより、神を父と呼び、イエスを主と告白する、その信仰のユニークさを学ぶよい機会とすべきです。

 ですから、私たち、教会に生きる者が第一に意識すべきは、違う教派の教会でも、異教徒の神社仏閣でもありません。そうではなくて、それは、地の上のすべて、そこに住む人間のすべて、です。私たちは〈すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい〉(マルコ16:15)と主に言われたのではないでしょうか。〈御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされる〉(マタイ24:14)のではなかったでしょうか。

 私が推奨している伝道の方法に、福音文書や集会案内のポスティングがあります。上手にお話ができなくてもやれますし、文書をポストに入れるだけで多くの人に働きかけることができます。そしてポスティングは「まち」を知ることができるのです。戸建ての並ぶ住宅地。大小のマンションのメールルーム。さらにぽつんと離れた一軒家。

 もちろん、始めるときに、プレッシャーを感じるときがあります。私たちが取り組んでいるのは色々な人が住んでいる「まち」です。「まち」はたくさんのキリストを知らない人たちに、たったひとりでこれに立ち向かうイメージです。少年ダビデが巨人のゴリアテと戦うような信仰と勇気をもってポスティングを始めることもあるのです。

 しかし〈良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか〉(イザヤ52:7、ローマ10:15)と書いてあります。教会が「まち」に働きかけるとき、かつては幼稚園や保育所。英会話教室。というのがありました。いまだったら、子ども食堂などというのもあります。ただ、こういうのは中途半端にできないので、よほどの重荷と覚悟と召しがなければ、しなくていいのです。その前にポスティング、と思います。

 地道で、小さなことの積み重ねかもしれませんが、私たちが住んでいる地域の祝福と人々の救いに重荷を持ちましょう。そこに住む人たちの魂にキリストの福音を聴かせるため、自分に何ができるか。教会は何をしたらよいか、共に考えましょう。

(万民を集めるキリスト教会)

 教会は地域に貢献する。あるいは地域を祝福する。しかし、どうやってそのようなことが実現するのでしょうか。私は先ほど61:4を読んで、続けて61:7を読みました。飛ばしましたが、意味はよくつながりました。その間の61:5-6を私は慎重に語らなければならないと考えております。

 イザヤ61:5-6〈他国の人は立って、あなたがたの羊の群れを飼い、異国の民があなたがたの農夫となり、ぶどう作りとなる。61:6 しかし、あなたがたは【主】の祭司と呼ばれ、われわれの神に仕える者と言われる。あなたがたは国々の財宝を味わい、彼らの富を誇る〉。

 大国に支配されてばかりのイスラエルにとって、他の国の人たちが自分たちの国に来て働いてくれるということは、想定外の出来事でした。紀元1世紀に主イエスが生まれて十字架で死んで復活して、聖霊が降って教会が生まれるまで、こんなことは起こりませんでした。新バビロニアのあとは、ペルシア。ペルシアのあとは、ギリシア。ギリシアのあとはローマが覇権を握りました。

 しかし61:5-6もまた、神の民に与えられた預言のことばです。〈他国の人〉とか〈異国の民〉は明らかにユダヤ人ではない人たち。エペソ書のことばを借りれば〈この世にあって望みもなく、神もない者たちでした〉(エペソ2:12)。

 先週も話しましたが、イザヤ書61章は、その前の60章とコンビネーションがあるのです。60:1-9は〈諸国〉や〈国々〉ということばが見られ、財宝や貴重な家畜などの輸入が描かれますが、10節以下では人の来訪が描かれます。曰く〈異国の民もあなたの城壁を築き直し、その王たちもあなたに仕える。わたしは激しく怒って、あなたを打ったが、恵みをもって、あなたをあわれむからだ。60:11 あなたの門はいつも開かれ、昼も夜も閉じられない。国々の財宝があなたのところに運ばれ、その王たちが導かれて来るためである〉(イザヤ60:10-11)。

 先ほど読んだイザヤ61:5-6もこの60:10-11も同じことを描いています。〈廃墟の町々、代々の荒れ跡〉の復興が自国民だけでなく〈異国の民〉がやって来ることで回復し繁栄するという幻です。しかもそれは侵略戦争などによって強制的に連れてこられた人たちではなくて〈他国の人は立って〉とあるのです。〈他国の人は立って〉の〈立って〉は自発性を表わすことばです。さらにイザヤ60:10によれば外国からやって来る人には、その国の〈王たち〉も含まれています。

 主は、ご自分に聖霊がとどまって神の国の福音を宣べ伝え始めました。その宣教による神の国の接近についてイエスはこう言われました。〈人々が東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます〉(ルカ13:29)。

 そうです。イザヤ60:10-11や61:5-6は、イエス・キリストの福音によって、神の国が開かれる姿に他なりません。〈人々が東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます〉。神の救いが万民に開かれて、互いに仕え合うことで、信仰共同体は再建されます。

(異文化交流は教会の原点)

 思えば、初代教会が誕生し、新約聖書が成立した背景には、ローマの平和に基づいた異文化交流がありました。主イエスはご自分が十字架にかかって死ぬことを、一粒の麦が地に落ちて死ぬことにたとえました。〈人の子が栄光を受ける時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます〉(ヨハネ12:23-24)。主イエスは、なぜこのとき自らの死のタイミングを悟ったかというと、エルサレムに礼拝に来た巡礼者の中に異邦人(ギリシア人)が混じっていて、この人たちが主イエスとの面会を弟子のピリポに求め、アンデレも協力して主イエスに取り次いだからです(ヨハネ12:20-22)。ユダヤ人でない者(異邦人)が、いよいよ聖書の救い主を求め始めていたのです。

 ユダヤ人であったペテロも、やがて次のように悟ります。〈これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました。このイエス・キリストはすべての人の主です〉(使徒10:34-36)。

 またパウロもこう言います。ローマ2:6-11〈神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられます。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと朽ちないものを求める者には、永遠のいのちを与え、利己的な思いから真理に従わず、不義に従う者には、怒りと憤りを下されます。悪を行うすべての者の上には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、苦難と苦悩が下り、善を行うすべての者には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神にはえこひいきがないからです〉。

 キリスト教の歴史のなかには、ひとつの民族を貶めたり、逆に持ち上げすぎたりした黒歴史(過去の汚点)があり、それが現在でも残っていると思います。しかし私は、初代教会(新約聖書に記された1世紀の教会)の見解に合わせたいのです。すなわちイエス・キリストの誕生と死と復活により神の国は万民に開かれました。それは旧約聖書に証しされたユダヤの信仰でしたが、いまやありとあらゆる民族のための救いとなりました。〈神にはえこひいきがない〉。そして旧約聖書にある〈あなたがたは寄留者を愛しなさい〉(申命記10:9)という伝統も大切にすべきです。

 この説教後、本日は新聖歌1番「いざ皆きたりて」を歌います。「いざ皆きたりて喜ばしく声を一つにしほめたたえよ」「神に造られしものすべては声を一つにしほめたたえよ」。〈すべての国民、部族、民族、言語から〉神とキリストの前に立つ、終りの日の礼拝(黙示録7:9)に私たちは近づいているのです。

 祈りましょう。「主よ、私たちはこの地域にあって、国籍、人種、民族、言語にとらわれない教会を形成しようとしています。どうか私たちの方向があなたの御心に適い、地域と世界の祝福にもなりますように。イエス・キリストのお名前でアーメン」。