福音は私たちに何をもたらすのか(教会のDNAシリーズ①) イザヤ61:1-4
週報の表紙にあたる部分に、毎週《千葉ニュータウンをキリストが崇められる街々に》と書いてあります。さらに《私たちは「聖霊の力で福音を伝え、自由と慰めと喜びと成長がある教会」を目指します》とも書いてあります。さらにその下に《イザヤ61:1-4による着想 CNTBCのDNA》とも書いてあります。
教会にとってイザヤ61:1-4が特別な聖句になっていったのは、教会の大きな試練のなかで、私自身も打ちのめされていたときに、クリスチャンの友人が「これは木森さんのみことばだ」と言ってイザヤ61:3の最後のことば〈彼らは、義の樫の木、栄光を現す、【主】の植木と呼ばれる〉を示してくれたからです。このことばが、そのときから私の聖句になり、教会の聖句ともいたしました。
昨年、私たちの教会は、新しいHPやロゴマーク、教会紹介の新しいリーフレットもつくりました。また、その前に教会への道案内のための動画もできました。限られた時間でよいものがつくれました。理由を考えましたが、ひとつの大きな理由はブランディングbrandingというのですが、この教会が世界に置かれている意味(なかでもこの地域に置かれている意味)を私たちが掴んでいるからではないかと思いました。
一言お祈りいたしましょう。「愛する神。今日も礼拝に私たちを集めてくださってありがとうございます。私たちは欠けだらけで、何より罪深い者です。それなのに私たちは、あなたの恵みにより、神の子とされました。あなたの恵みとは、キリストの十字架であり、贖いによる救いです。聖霊の働きにより、鈍い私たちも、あなたの救いが必要なことを悟り、イエス・キリストを主と告白しました。私たちは、あなたを心の底から天のお父さんと呼びます。そのように呼ぶことのできた幸いを感謝します。願わくは、この世界の、なかでもこの地域の多くの人たちがこの幸いに与ることができますよう、今週も私たちをこの世界と地域とに派遣してください。この礼拝が、私たちの使命のためにも祝福であることを信じます。私たちの心の目と耳をどうか開いてくださり、真理をいよいよ明らかにしてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。
(福音を信じ伝える教会として)
〈【神】である主の霊がわたしの上にある〉。イザヤ書のこの一節は、イエス・キリストにおいて、まず実現しました。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書が共通して語っていることのひとつは、イエス・キリストが公の伝道を始める前に、先駆者であるバプテスマのヨハネから水のバプテスマを受けて、そのとき聖霊が鳩のような形をして、この方の上にとどまったということです。
聖霊は、神が共におられる徴であります。また救いの保証でもあります(エペソ1:14)。そしてルカ福音書4章によりますと、イエス・キリストは故郷ナザレでの安息日礼拝で、このイザヤ書61章の冒頭を読んだことがあるのです。曰く〈「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。」〉(ルカ4:18-19)。
主が自覚されたのは、自分に聖霊がとどまっている最大の目的は〈貧しい人に良い知らせを伝えるため〉でした。〈良い知らせ〉とは神の福音(マルコ1:14)のことです。〈貧しい人〉とは、この世で顧みられないほうの代表でしょう。どんな人にも福音は〈良い知らせ〉なので、この世で顧みられていない人にも福音は伝わるべきです。
そして〈良い知らせを伝えるため〉に、父なる神は、主イエスを任命し、この主イエスを世界に送られた(派遣された)のです。
(福音は人間に自由をもたらす)
福音とは人間に何をもたらすでしょうか。〈捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。」〉とあるように、それは人間に自由をもたらすためです。
〈目の見えない人には目の開かれることを告げ〉とあるように、その自由、福音がもたらす自由というのは、神からの真理を知ることによってもたらされる魂の自由でもあります。〈真理はあなたがたを自由にします〉(ヨハネ8:32)。
また〈主の恵みの年を告げるために〉ともあります。〈主の恵みの年〉というのは、旧約聖書のレビ記に記された「ヨベルの年」のことと言われます。すなわちレビ記25:10〈あなたがたは五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰る〉。
「ヨベルの年」は、50年に一度の、特別な回復の年でした。聖書には書かれてあるが、実際には行なわれなかったといわれるほどの、原状回復のための画期的な掟でした。畑を休ませて土地の力を回復させる。売却された土地も、かつての持ち主に戻される。そして経済的な理由などで奴隷となった人が、この年に主人から解放されます。
イザヤ書61章、そしてルカ4章にある〈主の恵みの年を告げるために〉は、この「ヨベルの年」のような社会的解放を含みます。イエス・キリストの救いによる解放(もたらされる自由は)、魂の自由と共に、社会制度的な自由(目に見える解放)にも及ぶに違いありません。それは理想的です。しかし、理想が現実になるという幻です。
信仰とは何でしょうか。心の問題(魂の課題)であることはたしかです。しかし正しい信仰が目に見えない心の状態だけを扱うというのなら、それは聖書の信仰ではありません。この世のことは、男性と女性で判断が違うことがあります。資本家と労働者で価値観の異なることがあります。それぞれの国や民族の言い分があるでしょう。
しかし共にイエス・キリストを、個人的な救い主、そして世界の主として知って信じているのなら、ほんとうに大切なことでは一致できるし、お互いを認め合うことができるはずです。それぞれは罪の奴隷でした。しかしパウロはローマ人への手紙のなかでこう言っています。〈あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となりました〉(ローマ6:17b-18)。
聖霊によって私たちは神の福音を伝えますが、神の福音を聴いて信じる人は、罪から解放されて〈義の奴隷〉となるのです。
(福音は慰めをもたらす)
福音は私たちを解放し、まことの自由を、魂にもたらし、そして現実の生活にももたらします。福音は他に、何を私たちにもたらすでしょう。
イザヤの61:2にはこうあります。〈【主】の恵みの年、われらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるために〉。神の福音がもたらすもののひとつは〈すべての嘆き悲しむ者を慰める〉慰めです。
61:2を観察すると二つの対照的なスケジュールが記されていることに気がつくはずです。ひとつは〈【主】の恵みの年〉です。先ほど50年に一度の「ヨベルの年」について説明しました。信じられないような大きな恵みとして、すべての借金が免除になり、つながれているすべての人が自由になる、回復の日、助けの日です。
それに対して、もうひとつ。〈われらの神の復讐の日〉が出てきます。これは借金が取り立てられる日です。天の神からの聖なる裁きが、世界的にまた宇宙的に行なわれる、終りの日です。実は先ほどのルカ福音書4章においては、この〈われらの神の復讐の日〉ということばは主イエスによって読まれなかったのです。
〈【主】の恵みの年〉と読んだ後、主イエスは巻物を巻いて、会堂の係の者に渡してしまわれたのです。〈【主】の恵みの年〉の次は〈われらの神の復讐の日〉と書いてあるのに、主はこれを読まずに〈今日、この聖書のことばが実現しました〉と宣言されました(ルカ4:21)。主は「ヨベルの年」のような回復の時(救いの日)は始まったけれど、終りの日、終末の裁きである〈われらの神の復讐の日〉は「未だ来たらず(まだ実現していない)」としたのです。これはいったい何でしょうか。
私たちは人生において、様々な悲しい出来事を経験いたします。仏教では四苦八苦といいます。生きることそのものが楽なことではありませんが、年を取って若さが失われること、病気になって健康が失われること、死ぬことによって命が失われることがあります。また、先週、私たちの信仰の仲間である兄弟が94歳で天の御国に旅立たれ、明日ここで告別式を持ちますが、愛する人たちと別れる苦しみ、別離もまた、痛みを伴う、大きな悲しみです。
イザヤ書は、しかし言います。〈すべての嘆き悲しむ者を慰める〉。これもまた福音のもたらすもの、慰めです。慰めの完成は〈われらの神の復讐の日〉すなわち世の終りの審判の時を待たなければなりません。その日、私たちは、地上の生涯において別れた人たちとも再会するのです。
そうであるのでパウロは手紙のなかでこう言っています。Ⅰテサロニケ4:18〈こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい〉(新改訳初版や第三版)。私たちは究極の裁きが究極の慰めをもたらすことを信じながら、慰め主とも助け主(ヨハネ14:16など)ともいわれる聖霊に、支えられたり導かれたりしながら、悲しみの多い、地上の人生を歩んでいくのです。教会の交わりも聖霊の賜物です。
(福音は喜びをもたらす)
福音のもたらすもののなかには、喜びがあります。それは強烈なもので、ダイナマイトの爆発力にも匹敵します。イザヤ書61章は3節に入ると、嘆きや悲しみは慰められるだけでなく、大きな喜びによって覆われることがわかります。61:3の途中までを読みます。〈シオンの嘆き悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるために〉。
喜びについて、私たちは何を言ったらいいのでしょうか。喜びは、イエス・キリストを信じ、救いの恵みに与った者の、著しい特徴のひとつです。
ローマ5:2〈このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます〉。
そしてペテロもこう言っています。Ⅰペテロ1:8-9〈あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです〉。
信仰は見えないものを見るように生きることですが、それは〈信仰の結果であるたましいの救い〉を得ていると生じることなのです。見たことのない、そして今も見ていないイエス・キリストを愛したり、信じたりして〈ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍って〉います。信仰の結果は喜びです。上手く説明できないかもしれません。しかし自分の心は、神を喜ぶこと(主の名を賛美すること)ができるのです。新しく生まれて神の国を見るとは(ヨハネ3:3)、その結果、大きな喜びに与ることなのです。
(福音は成長をもたらす)
自由、慰め、喜び。イエス・キリストがこの世界に来てくださって、まず私たちは、罪の力に屈さなくてもいいように変えられました。また、深い悲しみにあっても、聖霊の慰めが私たちから離れることなく、終りの日に究極の慰めを期待することもできるのです。そして信じる者には、悲しみや苦しみだけでは終わらない、大きな喜びに与るのです。キリストの持っておられる、花婿の喜びが、私たちにも伝染しています。
自由、慰め、喜び。この3つがあって、第4の《成長》があるのだと思います。イザヤ61:3節後半〈彼らは、義の樫の木、栄光を現す、【主】の植木と呼ばれる〉。木の種類が樫かどうかは余り関係ありません。かの日に植えられた、その木は、人が見上げるほどの大木、巨木になっています。毎年、だいたいこの時期に、私は本日の箇所から説教をしますが、今年は《成長》を強調し、深く掘り下げる必要を覚えています。
この箇所の学びは、来主日も続けていたします。《成長》する教会について、聖書は何と言っているでしょうか。礼拝のなかで、〈必要なこと〉〈無くてならぬもの〉(ルカ10:42)を私たちはしっかりと聴き取ってまいりましょう。
一言祈ります。「天の神様。今日も多くの兄弟姉妹たちと共に、あなたの御前に出ることを許され、感謝いたします。イエス・キリストがこの世界に生まれてくださって、十字架の上で死んでくださいました。この出来事が、私たちの救いのためのニュースとなって、自由と慰めと喜びと成長を私たちにもたらすこととなりました。それぞれが唯一無二uniqueで、違いを有する私たちが、この地で豊かに結びつけられて、いよいよ〈義の樫の木、栄光を現す、【主】の植木と呼ばれる〉ことができますように。主に油を注がれた第一の方、イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。
