2026年1月1日「キリスト・イエスの確かなとりなしの中で」ローマ8:34

キリスト・イエスの確かなとりなしの中で ローマ8:34

 あけましておめでとうございます。新年から長い話は禁物と心得ております。

 ここのところ、元旦礼拝は、1月から年度が新しくなる日本バプテスト教会連合の主題聖句から語っています。理事長がなぜか毎年ローマ人への手紙の第8章から順に選んでいるらしく、今年は先ほども読みました8:34です。

 こう書いてあります。〈だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです〉。

 ここではまず問いかけがあります。〈だれが、私たちを罪ありとするのですか〉。パウロがこの手紙を書いた当時、筆者がわざと問いを設け、その答えを次に書くという論法がよく用いられたようです。Q&Aで読む人の関心を引き、読者を書き手が言わんとする方向に導きます。

 このQ&Aの論法が、本日の8:34の前後にも出てきます。8:33と、8:35-36です。

 まず8:33ですが、こうあります。

 ローマ8:33〈だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです〉。

  神が義と認めてくださったというのは、私たちのすべての罪を神が取り除いてくださって、有罪ではなく無罪判決を出してくださった。大筋では、罪の赦しのことであり、教理的には義認justificationという言い方になります。

 33節では、このように義認の教理が確認されています。ローマ人への手紙は、私たちがキリストを信じて、神の前に義とされる信仰義認がまず説かれている手紙です。1-4章です。この大切な教えが33節では繰り返されています。

 さて34節の次に来る35節にはこうあります。〈だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか〉。

 8:35。そしてその答えになる8:36を見ると、イエス・キリストを信じる者には何らかのかたちで苦しみがつきまとうことがわかります。

 36節にはこうあります。〈こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」〉。

 これは詩篇44:22の引用ですが、神を信じて神に付く者は、かえって苦しめられることが多いかもしれません。ある意味、これは私たちが義と認められて、いよいよ主と似た者に変えられていくときに覚悟しなければならないことかもしれません。

 信者が、主に似た者に変えられていくことを聖化sancificationといいます。神によって義と認められ、地上の人生において聖化の道を歩むとき、私たちには危難が付き物です。

 しかし37節が言うように、私たちは神に守られているのです。8:37〈しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です〉。

   まだ聖書を読み始めたころは、特にそうでしたが、〈圧倒的な勝利者〉ということばに私は圧倒されました。そうです。〈圧倒的な勝利者〉というのは単なる勝利者ではないはずです。薄氷を踏むような非常に危ない状況のなか何とか勝ちを拾うということでもないでしょう。

 このローマ人への手紙の1-8章はキリストを信じて得られる救いとは何か(どんなものか)を説明している箇所です。義認とか聖化とかをパウロは丁寧に語っています。

 そして今日の34節を含む8:31-39は、その説明の締めくくりの総括です。キリスト信仰者は圧倒的な勝利者であって〈死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません〉と結論づけています。

 そんなすばらしい私たち、やがての将来は,栄光の姿に変えられる(栄化glorification)はずですが、神によって義と認められ、キリストのように苦難に与りながら聖化の道を歩んでおります。〈しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です〉。

 もう一度言いますが、私たちが圧倒的な勝利者なのは、私たちが努力したからではありません。そうではなくて〈私たちを愛してくださった方(神)によって〉です。キリストによる義認も聖化の歩みも、神に支えられているのです。そして神は私たちの救いのために、イエス・キリストを私たちの世界に送られました。

 さて、いよいよ私たちは、本日のテキストである8:34を丁寧に観察していきたいと思います。ローマ8:34〈だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです〉。

 まず最初の〈だれが、私たちを罪ありとするのですか〉を考えていきます。

 私たち人間の問題は何か、といえば、罪です。社会で裁かれる犯罪のような罪だけが、聖書で教える罪ではありません。聖書で言う罪は、天と地を造られた唯一の神を、神と認めないこと、この神を礼拝せず、感謝もしないことです。

 人には、最初の人であるアダム以来、律法に背いて、神に逆らう性質が宿るようになり、人の心は空しくなりました。神に悔い改めて、神のもとに帰ればいいのですが、人の心は頑なで自ら悔い改めることができません。滅びの宣告も効かないし、愛を説いても悪びれる様子もなかったりします。

 ですから34節の最初の文〈だれが、私たちを罪ありとするのですか〉は、むしろ逆に言いたくなります。〈だれが、私たちを罪なしとするのですか〉。

  しかし私たちがすでに33節で学んだとおり、私たちは、神によって義と認められております。また35節以下で学んだとおり、私たちは、この汚れた地上の人生において、圧倒的な勝利者として罪や背教から守られた聖化の歩みをなすのです。しかしそれは〈私たちを愛してくださった方(すなわち神)によって〉です。

 信仰生活の始めも、途中も、神の守りなしにはあり得ません。恐れ多いことですが、やはり〈だれが、私たちを罪なしとするのですか〉ではなく、現在の私たちの状況は〈だれが、私たちを罪ありとするのですか〉なのです。〈だれが、私たちを罪ありとするのですか(いや、だれもいない)〉なのです。

  「いや、だれもいない」。これは反語ですが、つまりキリスト者は、自分自身からも、他の人からも、そしてサタン(悪魔)からさえも、根本的なことで責められることはないというのです。聖書にはほんとにすごいことが書いてあります。

 それでは私たちは、まるで「恐いものなし」ではありませんか。キリストにあって無双なのでしょうか。

 誤解を恐れずにいえば、キリストがユニークであるがゆえに、私たちもユニークな存在です。しかし、それはあくまで私たちがキリストを受け容れ、信頼し、依存しているからです。

 そしてこのキリストのユニークさは4つの象徴で8:34に描かれています。〈だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです〉。

 神によって義と認められ、さらにキリスト者として私たちが歩き続けられるのは、イエス・キリストのおかげです。

 まずキリストは〈死んでくださった方(十字架でいのちを投げ出してくださったお方)〉です。この十字架の死が、私たちの信仰にとって最も重要な急所であり、この年も、この十字架のことばを恥じることなく伝えてまいりましょう。そのためにも私たちがキリストの十字架を日々思い起こし感謝することが重要です。

 次にキリストは〈よみがえられた方(復活をなさった方)〉です。イエス・キリストが十字架で死んだけれども、甦って今も生きておられます。たしかに、イエス・キリストの復活を信じられないという方もおられます。この方々に今日私はキリストの復活を信じる秘訣のひとつをお教えしたいと思います。

 それはイエス・キリストの物語。その生と死を福音書から学ぶことです。キリストが死んだ後、復活をなさったのはどうしてでしょう。いえ、もっとことばを選んでいえば、キリストが復活した(起きた)というよりも、神がキリストを復活させた(起こした)のです。

 そして神がなぜキリストを復活させたかというと(それはもちろん永遠の昔からのご計画であったはずですが)、聖書によればキリストが十字架の死にまで従われるほどに父なる神に従順であったからです(ピリピ2:9)。キリストの復活の事実を受けとめるために必要なソースは、福音書の他の情報であり、格別に十字架の死についてなのです。

 第三に、キリストは復活して40日後に天に昇られ、父なる神の右におられるようになりました。これは、父と同じ権威と力をもって全世界・全宇宙を支配しているということです。

勝利と支配と権威。エペソ人への手紙1章20-21節には〈この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました〉とあります。また、ペテロ第一の手紙3章22節には〈イエス・キリストは天に上り、神の右におられます。御使いたちも、もろもろの権威と権力も、この方に服従しているのです〉とあります。

 第四に、キリストは、その父なる神の右にいて、ただ世界を見つめているのではありません。〈私たちのために、とりなしていてくださる〉ということです。イエス・キリストは、地上で2026年を生きる私たちのために、これからも弁護者であり(Ⅰヨハネ2:1)、仲介者であり続けるということです(Ⅰテモテ2:5)。

 「イエス・キリストの死と復活が私たちの赦しと義の完全な根拠となるのなら、なぜ私たちには仲介者が必要なのか」という問いを立てることができるかもしれません。しかし、イエス・キリストは私たちの救いのために十字架と復活以上に何の付け加えもなさいませんし、必要もありません。イエス・キリストは一度限りでそれを成し遂げられました。

 しかし主イエスがしてくださるのは、天において私たちのために成し遂げられた御業を象徴することなのです。イエスは、ほふられ、勝利を収めた小羊のように立ち上がられます。そのことも含めて、神はキリストと共にこの世界を治めているだけでなく、私たち教会のために今もこれからも寄り添ってくださり、守ってくださることを、この執り成しによって示してくださっているのです。

 キリストの復活があってこそ、この方が神の右に着座されていることも、今も執りなし手であることがわかります。そして先ほど述べたように、従順なキリストの死であったので神はキリストを復活させた(死から起こした)のです。ローマ8:34には、そのように私たちが罪赦されて救われ、地上のトライアルがいっぱいありながらも救われ続けるための4つの象徴が描かれていますが、そのうちの肝心要はキリストの十字架であることを覚えましょう。

 今回私は、この説教の準備のために、米国のミネソタ時代にお世話になったある方の説教原稿を大いに参考にしましたが、そこにはこう書かれていました。

 〈まず、あなたのために命を捧げた方としてイエスを知る。「あなたのために死んだ」ではなく「あなたのために命を捧げた」と私が言うのは、イエスが死を選んだことを明確にするためです。イエスは死ぬことを計画されました。あなたのために死を受け入れました。あなたを狙う神の弾丸の前でつまずくのではなく、自ら進んでその前に立ちました。マルコ10章45節には、「人の子は、多くの人の身代金として、自分の命を与えるために来たのです。」とあります。ですから、そのようにイエスを知るべきです〉。

 これを読んでこう思いました。私はキリストの十字架を語ってきたけれど「あなたのために死んだ」ではなく「あなたのために命を捧げた」と私もあまり言ってこなかった。キリストの死をもっと愛の表れとして語っていこう。私たちの教会の将来のために、そのことも教えられた次第です。祈りをいたします。