2025年12月14日「罪の赦しはどこに」マタイ6:12a

罪の赦しはどこに   マタイ6:12

 先日はH姉の母教会であるフィリピンセブ島のタリサイ市のバプテスト教会に、地震被害に対するお見舞い金を送ることができました(※注)。

 そして先週8日の深夜に青森県東方沖でマグニチュード7.6、震度6強を記録する、大きな地震があって、このあたりも揺れました。北海道が実家の姉妹もいますし、今イギリスにいる兄弟は青森県弘前市が実家です。岩手県の盛岡市に私の娘が住み始めているものですから、安否を尋ねたりもしました。

 青森県東方沖を震源とする地震はその後も続いているようですが、一昨日の夜は、教会の二階で激しい揺れを感じました。この揺れはすごいので、きっと娘のいるあたりはもっとすごいだろうと思い、連絡をとると私が心配した一昨日の地震は茨城県南部が震源でした。東北ではなく、この近くから揺れ始めた地震でした。

 地震は恐いですね。いまから14年前の東日本大震災では22,000人以上の死者・行方不明者を出しました。忍耐のできない、非常に激しい圧迫を受けて、私たちが生きる望みを失って、死を覚悟する。実際に亡くなってしまった方、お身内を亡くされた方は、ほんとうにお気の毒です。

 生きるという札の裏には、死ぬという字が書かれている。だれもがいつか通るはずの《死》を覚えなければ、私たちは次の祈りをほんとうの意味では祈れないのではないか。〈私たちの罪をお赦しください〉(ルカ11:3)。〈私たちの負い目をお赦しください〉(マタイ6:12)。本日の箇所は、罪の赦しを願う祈りのことばです。

 祈りましょう。「主なる神。私たちを今日も生かし、導いてくださり、ありがとうございます。クリスマスを待ち望むこの季節にも、あなたのお名前がますます聖なるものとなり、あなたの御心がこの地上において行われますように。どうぞ、戦争が終結し、いのちが尊ばれますように。また、地震を初めとする自然災害が起こるなかで、私たちが防災や減災に努め、必要なときに助けや分ち合いができますように。そして本日は《罪の赦し》の祈りです。聖霊ご自身によって説教者も会衆も強められて、大切な指針が神の家族のなかで共有されますように。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。

(「主の祈り」の構造)

 マタイの福音書によって「主の祈り」の学びをしていますが、構造はお分かりになったと思います。

 まず〈天にいます私たちの父よ〉という、神への呼びかけがあります。主イエスに教えられて、神を〈父(お父さん)〉と呼ぶところに最大の特徴があります。

 そして6つの祈願のことばがあり、最初の3つは神に関することのために祈ります。〈御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが行われますように〉。それぞれ〈御名〉〈御国〉〈みこころ〉と訳されていますが、元のことばどおり訳すと〈あなたの名〉〈あなたの国(支配)〉〈あなたの心(思い)〉となります。

 そして〈天で行われるように、地でも〉とあって、これは3つの祈願すべてにかけることができます。主の弟子たちに求められた祈りの前半は、神に関しています。

 そして後半の3つの祈願は11-13節であって〈私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください〉となります。

 前半が神に向かって〈あなたの(神の)〉と言い続けましたが、後半の3つの祈願は〈私たちの〉とか〈私たちを〉とあって、祈っている弟子たち(自分たち)に関する祈りです。とくに第四祈願では〈私たちの日ごとの糧〉、本日の第五祈願では〈私たちの負い目〉とあります。〈私たち〉の所有格が続きます。

(神に対して富まない者)

 〈私たちの日ごとの糧〉とは、食物を中心とした私たちは日々生きていく上で必要なものです。私は考えました。〈日ごとの糧〉の次に、私たちが求めたくなるのは〈負い目〉や〈罪〉の赦しだろうか。〈日ごとの糧〉の次に、自分は服や住まいを欲しがるだろう。お金も欲しい。しかし服や住まいやお金もまた〈日ごとの糧〉に含まれるかもしれない。しかし満たされすぎて、神を忘れることもあるのです(箴言30:9)。

 「衣食足りて礼節を知る」ということばもあります。食べ物に不自由しなければ、知識や教養を求めるかもしれない。あるいは家族や友人など人間関係の潤いを求めるかもしれない。地位や名声を望んだり、芸術や宗教の高みに行こうとするかもしれません。たしかに生活の心配はないけれど、何か心が空虚で満たされない人もあるでしょう。

 しかし、人にはいろいろなタイプがあって、皆が皆、精神的なものや霊的なものを求めるわけではありません。ルカ福音書で、主はひとつのたとえを語られています。ルカ12:16-21〈それからイエスは人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。12:17 彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』12:18 そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』12:20 しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』12:21 自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」〉。

 このたとえは、ある人物が主イエスに遺産分けの相談をしたときのものです。しかし主イエスは〈いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したのですか〉と言って、断りました。その上で、主は〈どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい〉と言いました。さらに〈人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです〉とも言ったのです。

 上部構造と下部構造。精神と肉体。あるいは禁欲と快楽。私たちの信仰を二元論的に解釈して、その上部構造や精神や禁欲のほうだと決めつける誤解があります。たしかに《罪の赦し》は魂の救いにつながるのですが、肉体もまた終りの日に救われることを忘れています。そうではありません。

 ある人たちは、キリスト教信仰を道徳的に理解します。倫理的で真面目な生き方がキリスト教信仰だと誤解しているのです。またある人たちは、キリスト教信仰を教養主義として理解しています。キリスト教信仰を学問や芸術や文化に置き換えます。しかしキリスト教信仰はすぐれた学問や芸術や文化を生み出しましたが、それは木の幹に生えた枝とか花とか実のようなもので、信仰の本体ではないのです。

 いま〈日ごとの糧〉に不足がないから、次は魂の救いに取りかかるというのではないのです。イエス・キリストの福音に始まるキリスト教信仰は、もっとwholistic総合的なものです。「主の祈り」の第四祈願と第五祈願をどのようにcontrast対比させるかと言えば、いま述べたような霊肉の二元論ではありません。

 そうではなくて〈日ごとの糧〉が生きるために必要なものであるとすれば、《罪の赦し》は死を前にして必要なものなのです。神の救いに選ばれた人は、人生のどこかで魂の危機に直面します。

 このように救いに選ばれた人のタイミングというのは、様々です。ある人は経済的に富んでいます。別の人は経済的に困窮しています。しかし共に、聖霊の導きのなかで、イエスを主と告白します。ある人は病気や障害で悩んでいるかもしれません。別の人は、今は健康そのものという人もいます。しかし共に、キリストの選びのゆえにキリストの弟子となって、豊かな実を結ぶことができます。

 ルカ12章で主イエスが語られた、畑を所有する金持ちは愚かでした。しかし破産したわけではありません。臨終の間際まで、この人は長者番付に名を連ね続ける人でありました。しかし、男は予測していないタイミングで亡くなります。地上では楽しんでいましたが、彼は〈神に対して富まない者〉でした。

(罪とは神に対する借金である)

  本日、私たちはマタイ6:12の前半の学びで礼拝が終りそうな気がしています。〈私たちの負い目をお赦しください〉。この祈りです。

 〈負い目〉と訳されています。ふだんの「主の祈り」で〈罪〉ということばで祈られている方も多いと思います。どういうことなのでしょうか。この〈負い目〉と訳されていることばは二つの意味があって、実際の負債(借金)という意味があります。そしてもうひとつの意味は、神に対する借金という意味で〈罪〉と訳することができます。

 聖書で言う〈罪〉とは、借金に似ています。返済を待ってくれますが、その日までにお金を入れないと罰を受けなければなりません。

 私は大きな借金をしたことはありませんが、大切な論文の締切を守れなかったことが二回あります。初めのときは留年したので、まだよかったのです。二回目は卒業しているのに未提出という恥ずかしい状況でした。学校に借りを作っているわけです。40年くらい昔の話ですが、何とかしなければなりませんでした。妻に叱られて、教官にも手紙をもらい、卒業取り消しのぎりぎりで完成し提出しました。実は今でもそうなのですが、考えをわかりやすく文章をまとめるのがほんとうは苦手なのです。

 聖書の時間意識は、時間には始めがあって終りがあるという直線的な歴史観(終末論)です。私たちが借金を背負っていて、気持ちを切り替えて、なかったことにしようということはできません。ですから、罪というのは心の問題ではないのです。聖書は、物事には必ず終りがあると言っているのです。どんな終りでしょうか。

 神に造られたこの世界が終わるときがあります。この世界が滅びて、新しい天と新しい地が現れるときが来るのです。第一が世界の終りです。

 そして個人の人生の終りです。そのときは〈死後にさばきを受けること〉も定まっています(ヘブル10:27)。そのときまでに、神の御心に従わなかった罪の決済が終っていなければなりません。第二が、個人の人生の終りです。

 そして三番目まであります。デリケートな話ですが、御霊の迫りを無視し続けて手遅れになる場合があります。どんな場合でも人生が終わる直前に駆け込めばOKと考えるのは間違いです。神は、人を御心のままにあわれみ、御心のままに頑なにされるのです(ローマ9:18)。〈今日もし御声を聞くならあなたがたの心を頑なにしてはならない〉(詩篇95:7-8、ヘブル3:7,15,4:9)と書いてあります。今を逃してはなりません。

(何のために主イエスは来たのか)

 最後に、この日曜日もまた、クリスマスを思い起こすべき礼拝日であると言いたいと思います。先日6日、今年も市民クリスマスが開かれ、教会につながっていない多くの方がTCUのチャペルに集まり、聖書からのメッセージを聞き、主への賛美を聴くときを持ちました。私は、今年も司会をさせていただいたのですが、司会は大勢の人々の前で代表祈祷をする役目もあります。

 大切な祈祷ですから、祈ることを文章に書いて備えました。そして、そんなときは、福音の証であることを損なわず、多くのクリスチャンではない方々にもアーメンと言いたくなるような、祈りのことばであろうと願っています。

 御心を求めつつ、祈り心で、祈りの文章を書いていったのですが、今年はひとつの聖句が頭をよぎりました。この聖句を祈りの文章のなかに含みたい。引用するよう、主が導いてくださったと思ったのです。それがⅠテモテ1:15でした。

 ごいっしょに読みましょう。Ⅰテモテ1:15〈「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです〉。

 最初のクリスマスの晩に、神の御子がキリストとしてお生まれになった目的は〈罪人を救うため〉であったと書いてあります。教会とつながっていない多くの方のいる前で〈罪人〉などと言っていいだろうか。クリスチャンでない方たちが心頑なに身構えないだろうか。以前だったら、相当悩んで、この聖句を使わなかったかもしれません。

 しかし主は私を導いて、Ⅰテモテ1:15を引きながら四、五百人の前で、私はお祈りをすることができました。今日私は、あまり講壇で語ったことのない話をしました。大学と神学校の両方で卒論提出が遅れたことです。このことに関して、とくに神学校に対しては、間違いなく、自分は〈罪人のかしら〉だと思うわけです。

 しかしそんな私でも、というか、もっと言えないところで罪多き私のために、主イエスはこの世に来てくださった、そして十字架の上で罪を背負って贖い主として死んでくださった。この歴史的事実(ほんとうに起こった出来事)があるから、私は罪赦されています。恥多き人生ですけれど、あわれみのなかで立てています。神に救われた者として、神の救いを証ししています。聖霊の賜物を喜んでいます。

 私たちは、聖霊をいただき、主の弟子として、みことばの約束を信じています。そして真心から〈私たちの負い目をお赦しください〉と祈れるのです。〈天には栄光、地には平和が御心に適う人々にありますように〉(ルカ2:14意訳)。主イエスの誕生と十字架によって、罪の赦しは地上に現れたのです。

祈りましょう。(後略)

※注…この秋、タリサイ市を含むフィリピンセブ島には大きな地震被害が遭ったが、その後に甚大な台風被害がタリサイ市にあり、教会は台風被害に対する見舞金を送った。説教のなかで地震被害への見舞いとしているのは説教者の勘違い。