2025年11月2日「あなたのお名前が聖とされますように」マタイ6:9c

あなたのお名前が聖とされますように   マタイ6:9c

 教会に通い始めますと、お子さんでもそうなのですが、礼拝が終るのは頌栄という短い歌と、牧師が手を上げる祝祷のあとであると学習します。同じように、お祈りの最後は「イエス・キリストのお名前によって、アーメン」というのが、締めのことばらしいと学習します。

 「イエス・キリストのお名前によって」「主の御名によって」、どうも名前というものに教会は関心が強いらしいと感じます。

 名前、それも神様の名前だと〈御名〉という言い方を日本語では致します。「御手」「御足」「御心」「御国」「御前」のように日本語で〈御〉というのは、丁寧な言い方です。しかし丁寧であるだけでなく、「主の祈り」における〈御名〉ということばは、神様に向かって〈あなたの名前〉という言い方です。そして6:10の〈御国〉〈みこころ〉も〈あなたの国〉〈あなたの心〉という意味です。

  「主の祈り」の学びは、前回までの〈天にいます私たちの父よ〉という呼びかけを受けて〈御名が聖なるものとされますように〉という最初の祈願に入ります。別の日本語訳では〈御名があがめられますように〉という表現になります。

 とにかく、名前。それも神のお名前が、本日の焦点です。共に学んでいきましょう。一言祈ります。「愛する神。私たちを今日も集めてくださってありがとうございます。私たちは、あなたの名を知らない時期がありました。しかしあなたの名を先に知っている人がいて、あなたの名を私たちそれぞれに現わしてくれました。あなたの名を聞き、あなたの名を信じ、私たちは、あなたの名のゆえに生きる者となりました。神様。いまも私たちをあなたの名のゆえに生かしてください。あなたの名は万物を生かします。また、みことばを与えてください。みことばは、あなたの名を知らせ、あなたの名による救いを知らせます。あなたの御子イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。

(名は対象を特定する)

 名前ということで私たちは何を考えたらいいでしょうか。神は天地創造の最初に光を創造し、光と闇を区別して、光を昼と名づけ、闇を夜と名づけました(創世記1:3-5)。また天や地や海も、神に名づけられたものです(創世記1:6-10)。神は命名者です。

 しかし神によって神のかたちとして造られた人間も名を付けることが許されました。創世記2:19-20aには、こうあります。〈神である【主】は、その土地の土で、あらゆる野の獣とあらゆる空の鳥を形造って、人のところに連れて来られた。人がそれを何と呼ぶかをご覧になるためであった。人がそれを呼ぶと、何であれ、それがその生き物の名となった。2:20a 人はすべての家畜、空の鳥、すべての野の獣に名をつけた〉。また人は、やがて〈主の名を呼ぶこと〉すなわち神の名を呼ぶことも始めます(創世記4:26)。

 名を付けるとはどういうことでしょうか。それは特定するということです。たとえば獣のなかで「犬」と名を付けたとします。そして「犬」と名づけられたことで、「犬」は、「犬」以外のものと区別されます。私たちが、神の名を知り、神の名を呼ぶということは、私たちが、神以外のものと神を区別するということです。私たちは、神以外のものを神と呼ぶことがないように、神の名を知るべきです。

(名は特徴を含んでいく)

 先月、娘が長男を出産し、私にとっては孫ができ、私は孫の祖父になりました。それだけでなく、婿の仕事の関係で、娘は里帰り出産となり、我が家にはいま娘と孫がいます。孫は10月9日に生まれたのですが、妻にも私にも12日になるまで名前が知らされませんでした。娘と婿が相談して決めた名前をその日の晩に教えてもらうまで、私は何か落ち着きませんでした。早く子どもの本当の名前で呼びたいと思ったからです。

 「名は体を表す」といいます。でも孫を見ているとわかります。幼子は、その名前に、その子の性格やら性質がくっついていくのが先で、成長して大人になって「名は体を表す」のです。エイブラハム・リンカーンが「40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て」と言ったのは、そんなことです。

 しかし人間はそうでも、神は違います。神は光や闇や大空に名前を付けるだけではなく、名前を通してご自身を現されます。とくに選民イスラエルが400年間奴隷だった時代にご自分を現されたとき、ご自分についてこう言われました。

 2つの名前を言いましょう。神はまずモーセにご自身を現されました。

 出エジプト3:6〈わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である〉。400年以上前の、族長と呼ばれた父祖アブラハム、イサク、ヤコブの名前が続きます。モーセの時代にはあまり見られなかったかもしれませんが、神と親しく、そして神に愛されて、神の道を歩んだ人たち、その先駆者の名前です。

 私たちは、この世界の聖なる造り主を〈天にいます私たちの父よ〉と呼ぶことをしています。でもこの方が〈私たちの父〉となったのは、救い主として地上に来られたイエス・キリストの〈父〉だったからです。このことを忘れてはなりません。私たちには、アブラハムやイサクやヤコブより、ずっとすぐれた先立つ方がおられるのです。

 そしてもうひとつ、続けて主はご自分をこう言われました。出エジプト3:14〈神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」〉。

 神はご自分を〈『わたしはある』〉と名のられました。英語でいうとI AM WHO I AMです。また、I WILL BE WHAT I WILLとも解釈できます。神は何者にも依存しないで存在する方です。そして、こうなろうとするとおりになる方です。この世の神々は、信者がいなくなれば、存在しなくなる空想の産物です。

 しかし聖書の神は違います。モーセが召されたころ、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫であったイスラエルは、まことの神への正しい信仰も熱い献身もなくしていました。たとえば21世紀の現代はギリシア神話の信者がいなくなって、ギリシア神話の神々がまさに神話だけの存在になりましたが、聖書の神は違うのです。主のことばを借りれば、まことの神は石ころからでも〈アブラハムの子ら(信仰を受け継ぐ者)〉を起こすことができるのです(マタイ3:8)。

 そして神は、私たちの救いのために、人間にさえなられました。主イエスは、福音書のなかでこう言われています。〈まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです〉(ヨハネ8:58)。

 神の名前は、人間の名前と違って、最初からはっきりとした特徴を持っています。神は、エル(力ある神)であり、エルシャダイ(全能者)であり、エルヨン(至高者)であり、エロヒーム(力に満ちている神)であり、アドナイ(主)であり、ヤーウェ(イスラエルと契約を結ぶ神)と呼ばれます。

 名前を覚えて、意識したり、呼びかけたりするときに、神の特徴がその人の心に染みていきます。そしてイエス・キリストは、この世において、正しい意味で、神の名を現した方です(ヨハネ17:6)。そして、イエスによってもたらされた神の名は、堕落させようとする世の誘惑から弟子たちを守り、教会を一つにするのです(ヨハネ17:11-12)。

(神の名は特約である)

 主イエスはそのように尊い神の名を地上にもたらした方です。その〈御名が聖なるものとされますように〉と私たちは祈るのです。

 神の名が聖なるものとなるとは何でしょうか。神は、もとより罪のない方、聖なる方です。だれかに認めてもらったり、助けてもらったりしなくても、神の名は聖なる名前です。しかし、天においてではなく、この地上において、神の名前は聖なるものとされているでしょうか。むしろ神の名は汚されているのではないでしょうか。

 預言者エゼキエルの書36章には以下のことばがあります。エゼキエル36:21-22〈わたしは、イスラエルの家がその行った国々の間で汚した、わたしの聖なる名を惜しんだ。36:22それゆえ、イスラエルの家に言え。【神】である主はこう言われる。イスラエルの家よ。わたしが事を行うのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った国々の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである〉。

 旧約時代のユダヤ人(イスラエル民族)は、エルサレムを中心とした約束の国にいたときも罪を犯し、主の御名を汚していたのです。そして裁きとしてイスラエルは、大国(新バビロニア)の軍事的侵略の餌食となり、他の国々へ散らされました。その外国(散らされた地)でイスラエルは反省して大人しく神に従っていたかというと、そうではない。人間の行動というものは、環境の変化だけでは改善しないことがしばしばです。

 選びの民によって汚されたご自身の名前を、神は惜しまれます。そして神は続けてこう言われます。エゼキエル36:23-28〈わたしは、あなたがたが国々の間で汚したわたしの大いなる名が、聖であることを示す。あなたがたが彼らのただ中で汚した名である。わたしが彼らの目の前に、わたしがあなたがたのうちで聖であることを示すとき、国々は、わたしが【主】であることを知る──【神】である主のことば──。36:24 わたしはあなたがたを諸国の間から導き出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。36:25 わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよくなる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、36:26 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。36:27 わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。36:28 あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる〉。

 とくに23節でしょうか。主はこう言われています。〈わたしは、あなたがたが国々の間で汚したわたしの大いなる名が、聖であることを示す。あなたがたが彼らのただ中で汚した名である〉。預言者ヨナは、タルシシュ行きの船が大嵐に遭ったとき、嵐の原因が異教徒の乗組員ではなく、まことの神を知りながら、主からの使命や臨在から逃げ出した自分のせいだと深く自覚しました(ヨナ1:1-17)。

 私たちは、十字架に付けられたイエス・キリストによって、神のお名前を得たのです。神は恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれみます(出エジプト33:19)。私たちは罪深いのに、神の一方的な選び、キリストの恵みによって、神の子とされました。イエス・キリストのお父さんの神は、〈天にいます私たちの父〉となってくださったのです。私たち人間の神、親となってくださいました。キリストのゆえにです。

 神の主権。神の自由と言っていいと思います。天におられる聖なる神は、人間の罪によって汚れることはありません。しかしモーセをとおしてイスラエルに示したご自分の名前は汚されました。しかしもう一度、神の名を聖なるものとするために、主は選びの民に〈新しい心を与え〉〈新しい霊を与え〉ようとなさいます。人の〈からだから石の心を取り除き〉〈肉の心を与える〉お方です。

 これはイエス・キリストの十字架の贖いと復活、永遠のいのちとして与えられた聖霊によって実現した救いです。私たちは救われました。全く自由なこの神が、私たちのために存在する神となってくださった。私たちを養子に迎え、父となってくださった。私たちのためではない神としては、存在されなくなっているのです(加藤常昭)。

 私たちが実生活において聖なるお名前どおりに聖なる方と認め、服従することによって「だれの目にも神の聖なることがわかるようにさせてください」(赤江弘之)という願いが、〈御名があがめられますように〉という祈りに含まれております。

 神の名を汚すばかりの私たちが、救いの恵みに感謝して、神の名前の聖なることを、私たちの生活を通して少しでも回復させてください、と。自分のがんばりではなく、私たちに聖霊を注いでくださった神の働きとして、この回復も造られていきます。天では違うけれど、地では文字通り地に墜ちている神の名前が〈聖なるものとされますように〉と祈るのです。キリストによって神の子とされた私たちは、救ってくださった父なる神を告白するときに、この祈りを祈らずにはいられないのです。

 「天の神様。あなたは聖であるのに、この地上においてあなたの名前は汚されています。しかし、主よ。あなたは聖なる神の子を私たちの代わりに罪人の代表として裁きに遭わせ、私たちを救ってくださりました。私たちはあなたを崇めます。あなたの名前を聖なる名前として喜び、少しでも世に伝える者にしてください。聖霊をくださった神の子イエス・キリストの尊いお名前によって祈ります。アーメン」。