父ならばそれでいいのか マタイ6:9b
先週から《主の祈り》の学びは本文そのものを学んでおります。〈天にいます私たちの父よ〉という呼びかけで始まり、6つの祈願が続いていきます。〈御名が聖なるものとされますように〉は第一の祈願です。
本日は、先週学びました呼びかけの続きと、それに続く第一の祈願への繫ぎについて考えてみたいと思います。
一言祈りましょう。「愛する神。あなたは世界中の〈私たち〉がささげるための祈りとして《主の祈り》をお示しくださいました。あなたの独り子であるイエス・キリストが弟子たちに口伝えし、マタイとルカの福音書にも記されました。礼拝で聖書を学ぶなか、この大切な祈りにさしかかり、私たちの群れはなるだけ丁寧に読もうと願っています。それはあなたに近づくためです。またあなたの息子や娘として世に遣わされるためです。私たちは、あなたが崇められる地域や国や世界を夢見ます。どうぞ私たちを今日もみことばによって整えてください。十字架の贖い主、イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。
(父のたとえが危うい時代)
先週、私たちは《主の祈り》が〈父よ(お父ちゃん)〉という呼びかけで始まることを覚えました。神の独り子イエス・キリストの十字架が、罪の赦しの贖いをもたらしました。私たちは神の子として、天地万物の造り主である聖なる神を「お父さん」と腹の底から(心から)呼べるようになりました。
聖なる神は、イエス・キリストの父でした。そしてイエス・キリストの贖いによって、神は、私たちの父にもなってくれました。これは言ってみれば、養子です。イエス・キリストは、父なる神に似ていますが、私たちはそれほど神に似ていません。自分はだれに似ているのだろう。所詮、自分は「醜いアヒルの子」ではないか。そう考えます。
しかし神は、イエス・キリストのゆえに私たちに聖霊をくださいましたから、間違いなく私たちの〈霊の父〉です。ヘブル12:9-10を読んでみましょう。〈さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。12:10 肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです〉。
この箇所には〈霊の父〉による訓練を受けとめる目的で、〈肉の父〉の存在と訓練についても書かれています。〈霊の父〉である神も、また〈肉の父〉も私たちを訓練します。しかし、子を訓練するという点では同じでも、〈肉の父〉の訓練は〈わずかの間〉で〈自分が良いと思うことに従って〉の訓練。〈霊の父〉による訓練とは〈私たちの益のために、私たちをご自分のきよさにあずからせようとして〉の訓練です。
おそらくヘブル人への手紙を書いた人は、〈肉の父〉を古代家父長制における主人、子どもたちを鞭などでしつける、一家の長としてイメージしていると思います。しかし〈肉の父〉は、人間の親すべて、場合によっては、会社の父、国家の父、民族の父と呼ばれる人たちを含んでもいいと私は考えます。もちろんいちばん身近な〈肉の父〉は、自分を育ててくれた家庭の両親に違いありません。
私が若いころになかったことば(概念)に「毒親 toxic parents」ということばがあります。調べますと、今から約35年前の1989年に、アメリカ合衆国の医療関係のコンサルタントでグループセラピストのスーザン・フォワード (Susan Forward) という人が書籍を出版し、そこで「毒親」ということばが初めて使われました。
このフォワードの本は、その10年後の1999年日本でも『毒になる親 一生苦しむ子供』という題で翻訳出版されました。毒親の定義は「子どもの人生を支配し、子どもに害悪を及ぼす親」です。子どもを支配しようとしやすいことは一般の親にもありがちな性質ですが、子どもに対する否定的な行動パターンを執拗にくりかえして、ほんとうに子どもの人生を支配するようになってしまう、普通の親とは異なる親、まさに毒性を持った毒親の存在があるのです。
ほんとうの毒親を身近に持ってしまったら、否定するとか、距離を置くとか、ほんとうに縁を切るとか、毒親には依存も服従もせず、何とかしないといけないと思います。毒親なんていないと考える人もおられるかもしれませんが、そんなことはありません。
先週も、報道によれば、富山県の地方裁判所で、かつて高校生だった娘に性的暴行を加えた実の父親に「卑劣かつ悪質性が高い常習的犯行で結果は重大」として求刑通り懲役8年が言い渡される判決がありました。極端なケースかもしれませんが、「どんな親でも親と名が付けば子どものことを考えている」というのは誤りです。
そんな人間の普遍的な暗さ、あるいは、でこぼこした重さのなかで、私たちは地上で生かされています。しかしキリストは、ご自分の父なる神を〈私たちの父よ〉と呼びかけてもよろしいと言ってくださいました。呼びかけられる神ご自身も、人間の父親が、どんなに不完全で、ときに罪深いかわかっておられるはずです。毒親を持った人も、そうでない人も、あるいは、ほんとうに親には恵まれた人も、神を〈私たちの父〉と呼びかけてよいのです。それがキリストの贖いの結果、福音による祝福です。
エペソ3:15によれば、神は〈天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父〉と書かれています。時代がこれからも悪くなって、家族も、親も、悲惨で残酷な響きしか鳴らせなくなるかもしれません。それでも〈「家族」という呼び名の元〉は神なのです。そしてキリストのゆえに、キリストの父は〈私たちの父〉なのです。
(神の父性はどこに)
毒親という極端なことを言いました。しかし〈父〉(=父親)という人間のたとえであっても、神を誤解なく受容する方法はないのでしょうか。
少なくとも2つはあると思いました。ひとつは、主イエス自身が、神の人間に対する救いについて、神を人間の父親にたとえた、たとえ話があるからです。それはルカ福音書の15章です。ルカ15:11-24を読みます。
ルカ15:11-24〈イエスはまた、こう話された。「ある人に二人の息子がいた。15:12 弟のほうが父に、『お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい』と言った。それで、父は財産を二人に分けてやった。15:13 それから何日もしないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。15:14 何もかも使い果たした後、その地方全体に激しい飢饉が起こり、彼は食べることにも困り始めた。15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせた。15:16 彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。15:17 しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。15:18 立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。15:19 もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。15:21 息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。15:23 そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた〉。
多くの人が聞いたことがあるでしょう。主イエスのたとえ話でも、もっとも有名なもののひとつ。「放蕩息子のたとえ」としばしば題されています。
このたとえで描かれている父は、どんな親でしょうか。親の立場にありますが、子どもの自由を尊重しています。弟息子の勝手な態度や申し出に対して、意思を尊重しています。たしなめたりもしたでしょうが、最終的には受け入れています。悲惨な失敗を予想していたに違いありませんし、実際そうなりました。
そして弟息子が故郷を離れてからは彼は死んだも同然と嘆きつつ、思い直して村境に戻るまでひたすら待っています。彼が移り住んだ〈遠い国〉を訪ねることはしませんでした。そこが、羊を捜す羊飼いのたとえや、銀貨を捜す女のたとえとは違うところです。失われた羊、失われた銀貨と続く、放蕩息子のたとえは、本来独立すべき個性や自尊心を持った人間が失われた話だからです。
毒親の特徴が、過干渉・無視・虐待などによって子どもを支配し続けることにあるとすれば、この放蕩息子の父は、古代家父長制の社会に生きていますが、毒親から最も遠い人物のようです。父は村境に息子を発見すると自ら大急ぎで走り寄って抱きしめ、息子に悔い改めの告白をする暇さえ与えずに、息子を新しく生まれ変わらせ、そして祝宴を開くのです。25節以下では受け入れがたいと感じている兄息子を諭しさえします。
《主の祈り》の呼びかけで〈父よ〉とのみ記しているルカ福音書は、そのあとの放蕩息子のたとえで、はっきりと「神が父であるとは慈しみ深さのことである」「神は慈父である」と告げているのです。
それではマタイの福音書は、どうでしょうか。神は、毒親とどう違うのでしょうか。イエス・キリストの父であり、〈私たちの父〉である方は、いつの時代も子どもを支配し続けようとする毒親たちとどう違わせているのでしょうか。
ユダヤ人が多く、形式を重視する「マタイの教会」は、〈私たちの父〉が人間と並ぶような誤解を生んではならないと思えたのでしょう。そしてそれは、マタイの福音書が大切にしていく〈天〉ということば(概念)を取り入れることで、解決を図ったに違いありません。
〈天にいます私たちの父よ〉。原語の順では〈父〉〈私たちの〉と記されたあと〈天にいます〉ということばが続きます。父なる神は天におられる。〈私たちの父〉は地上ではなく、天におられる。至高の場所におられる。天には、神の王座があります(詩篇11:4)。天は神の栄光を語り告げます(詩篇19:1)。
神は天と地を創造されました(創世記1:1)。地は神の足台であって、天こそが神の王座です(イザヤ66:1)。地は、人が管理し、支配を任されたところです。しかし天は、人間の手が及ばない領域です。そこは罪のない聖なる領域、神の御心が100%為されているところです(マタイ6:10b)。
〈私たちの父〉となってくださった神が〈天にいます〉ということは、神は罪のない聖なる方だということを思い起こさせます。また、神が〈天にいます〉ことで、神は〈その御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現してくださる〉(Ⅱ歴代16:9)ことを理解しやすくします。父なる神が〈天にいます〉という告白は、このように神の聖さと力を表わすことになるのです。
〈天にいます私たちの父よ〉。神は慈愛に満ちた〈私たちの父〉であって、聖なる、大能の方である。その告白自体が、福音を証言し、神を賛美するものです。《主の祈り》には賛美のことばや感謝のことばが表現として入っていなくても、内容としてはふんだんに入っています。
そして〈天にいます私たちの父〉として、主イエスの父なる神を告白していくときに、私たちには〈御名が聖なるものとされますように〉と願っていく賛美の思いが湧いてくるのです。聖なる方で、慈しみ深く、力ある父なる神に、私たちは祈りをささげ、礼拝をしているのです。私たちは今日も神の家族です。
一言祈ります。「〈天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように〉。私たちの神、主よ。あなたはイエス・キリストの父であり、私たちの父ともなってくださった慈しみ深いお方です。私たちは神の養子ですが、主イエスがそうであったように、いつもあなたの御顔を仰ぎたいと願います。〈上にあるものを求めなさい〉(コロサイ3:1)と、みことばも奨めています。そこに父であるあなたがおられ、いまはその右に、復活されて挙げられた、救い主もおられます。今日から始まる一週間のなかで、絶望して天を仰ぐだけでなく、天にあなたとあなたの独り子キリスト・イエスがおられることを思って、主にある希望にあふれさせてください。一週間の旅路を導いてくださる救い主、イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。
