神は何と呼ばれたいのか マタイ6:9b
キリスト教霊性の涵養のために、日々の生活の中で「静まること」を大切にする流れがあります。現在ですと、クリスチャン・ライフ成長研究会(CLSK)が日本でその流れを大きく担っていると思います。妻も私も若い時から、この「静まり」の流れの影響下にあったと思いますが、そこでよく聴いたエピソードがあります。
あるクリスチャンのご夫妻が、そうした「静まり」の会に出ていて、他の皆さんといっしょに課題を出されました。その課題は、夫婦が向き合って座って、相手に呼びかける。新婚さんとかでなくて、銀婚式が終わったかどうかくらいの、日本人同士の夫婦です。日常生活で、夫が相手を「ママ」とか「君」と呼ぶ場合もあるでしょう。もちろん、相手の名前を呼ぶこともあるでしょう。名前だって「~さん」「~ちゃん」と呼んだり、呼び捨てで呼ぶこともあります。愛称で呼ぶ場合だってあるでしょう。
用事や事柄を伝えるのではなく、ただ相手に呼びかける。その呼びかけのことばが、自分にとって呼びかけてほしい言い方だったら、相手の顔を見て頷く。そうでない言い方だったら相手の顔を見て首を振る。自分の配偶者が、どんな呼び方で呼びかけてほしかったか。ほんとうのところを知ろうとするワークショップです。
それで、そのご夫婦は、そのワークショップがなかなか終わらなかった。妻の夫に対する呼びかけに夫は簡単に頷けたようなのです。が、夫が妻の名前をいろいろに呼んでも妻は決して首を縦に振って頷いてくれない。他の組は、皆、この課題を終えているのに、夫はあれかこれかと呼びかけても、妻は首を横に振ってNoと示す。こんな言い方で、自分は呼ばれたくなかった。こういうふうに呼んでほしかったのに、不本意な呼び方だった。我慢していて、辛かったという話です。
この男性が最終的に何という呼び方で妻の名前を呼んだのか、私も知りません。しかし、男性は最後にその呼び方に辿り着きました。時間がかかったこともあるでしょう。この人の妻は「そうよ、そんなふうに呼んでほしかった」と言って、涙を流したそうです。私たちは、本日、神に私たちが何と呼びかけるかを学びます。
一言祈りましょう。「天の父よ。私たちはすでにあなたに呼びかけて祈りを始めています。あなたがどんな方であるかを知らないで、闇雲に呼びかけているのではありません。しかし《主の祈り》を丁寧に学ぶことで、私たちがもっとあなたのことを知り、あなたへの祈りを整えていくことができますように。私たちを変えてくださる救い主、成長させてくださるイエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。
(神を父と呼ぶ救い)
マタイの福音書に山上の説教があり、山上の説教のなかに《主の祈り》が入っているので、私たちは先週から《主の祈り》の学びを始めています。
さて《主の祈り》というこの名前、この名前は何を表わすのでしょうか。先週、読みましたように〈あなたがたはこう祈りなさい〉と言って、主が《主の祈り》を教えてくださいました。ですから《主の祈り》とは、主が教えてくださった祈り、主イエスが伝えてくださった祈祷文であります。
どうして、この《主の祈り》が、弟子たちに伝えられる必要があったのでしょう。先週、学びましたように、私たち人間には、偽善者のように、人に見られたくて祈ってしまう誘惑があるからです。また神をほんとうには知らない人たちのように、言葉数の多さで、祈りの効果を期待する間違いもあるからです。またルカ11:1が伝えているように、主イエスから弟子たちは祈りを学びたい(教わりたい)と願ったからです。
祈りの人である主イエス。主はどんな祈りをされたのでしょう。《主の祈り》は、主が教えていたとしても、主ご自身は、どのように祈っていたのでしょうか。
若いときに、違うグループの先輩牧師が《主の祈り》を主が教えていただけでなく、主ご自身がそのような祈りをしていたと考え、主が祈り、主と共に祈り、主に向かって祈るという構成を個人的に披露してくれたことがあります。聞いたばかりはびっくりしたのですが、よく考えるとおかしいと思いました。
なぜなら《主の祈り》には〈私たちの負い目をお赦しください(罪の赦しを求める)〉祈りがあるからです。主は罪を犯したことがなかったからです(Ⅰペテロ2:22)。イエス・キリストは、私たちと同じように試みにあわれた人間ですが、罪を犯しませんでした(ヘブル4:15)。この一点だけを見ても《主の祈り》は、私たちのための祈りであって、主ご自身が祈っていた祈りとイコールではないことがわかります。
しかし、明らかに《主の祈り》には、主も同じように祈っていたはずだと言える部分があります。それが本日の呼びかけの部分です。厳密にいえば〈父よ〉と呼びかける部分です。〈ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ〉。
原語の順で言えば、まず〈父よ〉ということばです。並行箇所のルカ福音書11:2には〈天にいます私たちの〉という部分がなくて、ただ一言〈父よ〉と呼びかけることばがあるのです。「お父さん」「ファーザー」「アボジ」。いろいろな言い方ができます。主イエスは〈神の子〉(マルコ1:1)であり〈そのひとり子〉(ヨハネ3:16)で特別ですが、私たちにも、神を〈父〉と呼びかけて祈りなさい、というのです。
実は、ここには福音があります。私たちも神を「お父さん」と呼んでいいのです。〈この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった〉(ヨハネ1:12)。〈神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます〉(ローマ8:14-15)。
イエス・キリストを神の子キリスト(救い主)として受け入れた人は、神の子とされる。神の子は、神の御霊(聖霊)に導かれる人であって、この御霊によって私たちは神を〈「アバ、父」〉と叫び、呼ぶのです。私たちに賜ったキリストの救いは、いろいろに表わすことができますが、私たちが神を父と呼べることはその大きな徴です。
(神は、私たちの父)
そのように、私たちは、まことの神の子(神の独り子)キリストによって、自分たちも神の子となるのです。イエス・キリストは、聖なる造り主を〈わたしの父〉と呼びました(マタイ26:39&42、ルカ2:49、ヨハネ20:17)。
しかしこの《主の祈り》もそうなのですが、聖書は、私たちキリストの弟子たちに「私の父」と呼ぶよりも〈私たちの父〉と呼ぶように奨めているように思うのです。《主の祈り》は、礼拝(公の礼拝)で祈られることが多いですが、自宅などのプライベートでも〈私たちの父よ〉と呼びかけ祈るように奨められています。
私たちにもたらされた救いは個人的なものであります。しかし同時に、救いは教会的なものでもあります。ここでいう教会、聖書的教会とは、もちろん建物のことではなく、制度でもなく、キリストの名によって呼び集められた複数の人々を指します(マタイ18:20)。教会の本質は、人間です。キリストによって集められた人たちです。
父なる神は、子なる神キリストをもちろん特別に見ておられます。ヨハネ3:16にある〈そのひとり子〉という言い方がわかりやすいのではないでしょうか。この、神の独り子であるイエス・キリストは、100%完全な神であり、100%完全な人であります。また100%完全な人でありますが、アダムの罪の影響を全く受けておられない。人となられた神の子として、その地上の生涯において、100%神の御心を行われました。
イエス・キリストはその地上の生涯において罪を犯したことがないというのは、ただ掟に背かなかったということではないのです。父なる神の愛に示された神の御心を100%果たしたということです(ヨハネ5:19)。キリストはアダムの原罪の影響を全く受けなかった。罪のない神の独り子を、皆さんはうらやましく思うでしょうか。
うらやましく思ってもいいのですが、罪のない方が地上を歩かれたのは、人々に罪のない人間の平安を見せるためだけではありませんでした。むしろそうではなくて、罪のないキリストだからこそ、父なる神は大きな役割(使命)を負わせていました。それは、贖いです。罪の贖いです。〈神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである〉(ヨハネ3:16)。キリストの十字架の死は、贖いでした。
イエス・キリスト、神の独り子の死、その贖いによって、私たち罪人は、聖なるただおひとりの神を〈父よ〉と心底呼ぶに至ったのです。すでにお話ししたことといくつも重なりますが、ガラテヤ人への手紙4:4-6を開きましょう。
ガラテヤ4:4-6〈しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。4:5 それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。4:6 そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました〉。
イエス・キリストが神によって世に遣わされました。イエス・キリストの誕生であり、受肉の神秘です。イエス・キリストの霊である聖霊が、神によって信じる者の心に遣わされます。聖霊の個人的降臨であり、聖霊を受ける救いです。そしてイエス・キリストの誕生と、聖霊の授与をつなぐのは何でしょうか。それは〈律法の下にある(罪深い)者を贖い出す〉十字架であり、〈私たちが子としての身分を受ける〉救いなのです。
私たちが、天と地を造られた聖なる神を〈父よ〉と呼ぶに至ったのは、キリストの十字架、贖いによる救いのおかげです。イエス・キリストは、私やあなた、ひとりひとりの救い主でありますが、間違いなくそれと共に〈世の救い主〉(ヨハネ4:42、Ⅰヨハネ4:14)、世界全体の救い主なのです。
どうか皆さん、イエス・キリストを自分だけの救い主と考えないで、自分たちの救い主、私たちの救い主、と考えてください。そしてイエス・キリストが私たちの救い主であるのだから、イエス・キリストの父なる神は私たちの父となるのです。私たち人間は、イエス・キリストの贖いのゆえに、神の養子になりました。そうした救いが、梃子となって、私たちは、神を〈私たちの父〉と呼ぶのです。
(「私たち」の範囲)
神の子キリストが、十字架の贖いを根拠にして、私たちを神の子にしてくださいました。それゆえに私たちは、イエス・キリストの父なる神を、〈私たちの父〉と呼ぶわけです。《主の祈り》は、やがて贖いとして実現するキリストの救いに根ざしています。そういう意味では《主の祈り》は、キリストによって神に呼び集められた者たちの祈り、「教会の祈り」ということができるでしょう。《主の祈り》は「教会の祈り」なのです。
さて、この《主の祈り》なのですが、一人称複数〈私たち〉という言葉が多いことに気がつかれたでしょうか。《主の祈り》は祈願(祈り願うこと)が6つあると大概いわれます、第4の祈願は〈私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください〉。第5の祈願は〈私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します〉。第6の祈願〈私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください〉。これらも、一人称複数の〈私たち〉という代名詞が出てきます。
さらに、もちろん本日の呼びかけ〈天にいます私たちの父よ〉にも、この〈私たち〉が出てくるわけです。この〈私たち〉は、どこからどこまでを指すのか。イエス・キリストを信じてはじめて、この祈りは心底〈父よ〉と呼びかけて祈れるわけですから、〈私たち〉とは信者のことだ、いま教会に集っている人々を指す、と理解できます。
しかし、もしそうであるならば、私たちが礼拝において「今日ここに集えなかった人にも恵みがあるように」と祈る。あるいは「私たちにまさって恵みがあるように」と祈る。これは、礼拝をとおして恵まれるわけだから、参加しないで恵まれるというのはおかしいと主張することもできるわけです。
けれど、そういった主張も紹介した上で加藤常昭牧師はこんなことを述べています。「しかし、私はむしろ、こういう議論をすることがおかしいと思います。私どもが、今ここで主の恵みにあずかる喜びを味わえば味わうほど、ここにいない他の人びとのことなど、どうでもよいとは思えません。この恵みは、すべての人にとって大切なものなのです。心にかかる人びと、そしてまた、自分では赦せないと思いこんでいるような人びとにも、この恵みを祈り求めざるを得なくなります。あんな奴に神の恵みがあってたまるかという思いがあったとしても、そのような思いがここでは捨てさせられる。そしてむしろそのような人のためにこそ主は祈っていてくださる、死んでくださってさえいる、ということを、私どもはここで確認するのです」(加藤常昭説教全集マタイ2)。
教会のための祈り《主の祈り》は、私たちと私たち以外に厚い壁をつくらないで、すべての人が、イエス・キリストの父なる神を〈私たちの父よ〉と祈ることを願って、ささげることのできる祈りです。
一言祈りましょう。「主よ。私たちは、キリストの十字架による贖いに、このような場で意識させられ、恵まれます。御霊の助けに感謝いたします。どうぞ、謙った心と、あなたからの知恵によって、多くの人があなたに向かって〈私たちの父よ〉と呼びかける者とされますように。そのため、宣教に取り組む、私たちの群れ(教会)を強めてください。イエス・キリスト、救い主のお名前によってお祈りいたします。アーメン」。
