だからこう祈りなさい マタイ6:9a
まずは祈ります。「主イエスの父なる神。今日も私たちはあなたの御前に出ています。イエス・キリストが二千年前に尊い贖いをなさいました。その贖い(十字架の死による)がなされる前に、主イエスは、あなたのことばを語り続けました。主イエスは、あなたに信頼した生活を送り、あなたの大能の力によって奇蹟の働きもなさいました。しかし、そればかりでなく、主イエスは、神に遣わされた者として、神のことばを語りました。惜しむことなくあなたによって与えられた聖霊の注ぎと働きがそこにあったからです(ヨハネ3:34)。いま私たちは、祈りについて語られたキリストのことばに耳を傾けます。信じない者にとって、祈りそのものが想像しがたいものですが、信じる者にとっては、日常の営みであるがゆえに、祈りは分かっても、祈りのすばらしさを忘れがちです。主よ、本日は〈こう祈りなさい〉と奨められた、その奨めを中心に祈りについて学びます。あなたご自身がキリストに無限に与えられた御霊を、私たちにも存分にお与えください。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。
(祈りさえも神の導きを必要とする)
本日第一に強調したいことは、私たちは祈れない者だということです。
旧約聖書の詩篇には〈愚か者は心の中で「神はいない」と言う〉ということばがあります。詩篇14:1です。アダムの堕落で変わってしまった人間は、神の存在を認めないということです。もちろん恵まれた家庭で、小さい時から聖書の神について聞かされていた。祈る習慣も教えられたという人もあります。
しかし、そのように宗教的に恵まれた環境で育っても、アダム以来の深い罪の性質はどんな人にも神を認めさせまいとするのです。その人は知識で神の存在を知っています。そして小さい時からの習慣でお祈りをするのです。でも心の深いところで、神がいるはずなのに、まるでこの世に神がいないかのように振舞う時があります。
最初の人間が神に背いたために、人間の心に生じた暗さ(すなわち愚かさ)は〈心の中で「神はいない」と言う〉ことをさせてしまうのです。イエス・キリストに対して「主よ、主よ」と言う者が天国に入るのではなく、神の御心を行う者が天国に入る、とキリストは言われました(マタイ7:21)。口先だけではなく、真心から神を神と呼びかける者、腹の底から神と呼べなければなりません(それはただ聖霊の働きです)。
ですから次に言えることは、私たちは、神の存在を認めない性質を持っている(それゆえに私たちは神の尊厳をいつも傷つけている)のですから、祈ることにおいても、神に教えていただかなければなりません。神については正しい知識を得ることが重要ですが、それだけではなく神を腹の底で認める信仰をいただく必要があるのです。
たとえば、一ヶ月半ほど前の礼拝で、私たちは旧約聖書創世記の4章を学びました。人類は神に犠牲を献げること(すなわち礼拝すること)を習慣的に身につけていましたが(創世記4:3-5)、個人的に神に祈ることはそのもう少し後の出来事でした。創世記4章の終り、4:25-26にこう書かれていました。
創世記4:25-26〈アダムは再び妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけた。カインがアベルを殺したので、彼女は「神が、アベルの代わりに別の子孫を私に授けてくださいました」と言った。4:26 セツにもまた、男の子が生まれた。セツは彼の名をエノシュと呼んだ。そのころ、人々は【主】の名を呼ぶことを始めた〉。
アダムとエバの三男のセツは、長男のカインが次男のアベルを殺害するという、暗くて悲惨な家庭で育ちました。セツも大人になり家庭を持つようになりましたが、生まれた男の子にエノシュと名を付けました。エノシュとは人間という意味ですが、弱さや脆さが強調されている名前です。自分の大きさや強さを誇るのではなく、謙った名前でした。親であるセツの人柄が偲ばれます。そんなセツとエノシュの親子がいたころ〈人々は【主】の名を呼ぶことを始めた〉と聖書は記すのです。
私という人間は神にふさわしい、というのではなくて、神が私に呼びかけてくださって、私を礼拝に導き、祈りを与えてくださった、というのが正しい実感ではないかと思うのです。神にふさわしい人など、この世には一人もいないのです。
(主は祈りを重視している)
私たちは、マタイの福音書を少しずつ学んでいます。5章から7章は、主イエスの説教の記録ですが、山上の説教と呼ばれる有名な塊です。そして6章の前半(1-18節)は、施し、祈り、断食という義の行いが、役者がするような演技(偽善)であってはならない、という奨め。
そのなかで、主イエスは、祈りについては、さらに注意を喚起しています。6:7-8〈また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。6:8 ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです〉。
当時のユダヤ人は、施しや祈りや断食をしていると社会的に評価されるので、人に見せるために、こうした義の行いをしていました。それで偽善者のように、施すな、祈るな、断食するなと戒められたのです。しかし神に対する義の行いである祈りについては、神をほんとうには知っていない異邦人のように祈るなとも警告を与えられたのです。
同じことばを繰り返せばいいのではない。たくさん祈ったら願いが聞かれると思うのは勘違い。大切なのは、神に信頼して祈ること。〈あなたがたの父(なる神)は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられる〉。ならば祈る必要はないとさえ思えるけれど、それは私たちが、神と繋がることや、神との交わり(交流)を、実は欲していない証拠です。
このように私たちは自分のために祈るということをするかもしれないけれど、神のことを考えて、神のために祈る(あるいは神ご自身を求めて祈る)ことが苦手です。そうではないでしょうか。私たちは、神以外のものを求めることがほんとうに得意です。
人から褒められるために偽善者のように祈る。あるいは、たくさん祈って自分の願いを実現したい、ただそれだけになってしまい、神をかえってなおざりにしている祈り。私たちは、祈ることにおいて、実は絶望してもよいのかもしれません。私たちは、キリストのことばを聴きながらも、神に祈れない者である、と。
主イエスは、このままでは、偽善者や異邦人のようにしか祈れない弟子たちのために言われました。6:9〈ですから、あなたがたはこう祈りなさい〉。マタイの福音書では、このように弟子たちに《主の祈り》を教えられたのです。まだ祈りを身につけていない新しい人のためにも《主の祈り》は必要ですが、信仰を与えられて何年も何十年も経ている人のためにも《主の祈り》は大いに値打ちがあるのです。
(主のように祈りたい)
かくして私たちは、いよいよ心躍らせて《主の祈り》を今週から学びたいと思います。
しかしその前に、このマタイの福音書に記された《主の祈り》の他に、別の福音書に記された《主の祈り》があることを覚えたいと思います。
福音書というジャンルの書物は、新約聖書のなかにマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの名の記された四つの福音書があります。そのうちのルカ福音書にも《主の祈り》が記されています。今日はそのところも開いて読みたいのです。ルカ11:1-4〈さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」11:2 そこでイエスは彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。11:3 私たちの日ごとの糧を、毎日お与えください。11:4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。私たちを試みにあわせないでください。』」〉。
マタイの福音書の《主の祈り》。そしてルカ福音書の《主の祈り》。本日の週報には両方の《主の祈り》を比較しやすいように、印刷してあります。どう思われたでしょうか。
神への呼びかけが最初にありますが、マタイは〈天にいます私たちの父よ〉とあるのに対して、ルカはとても簡潔に〈父よ〉と呼びかけます。
賛美や感謝がわかりやすく書かれておらず、願いが連なっていますが、〈御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように〉は同じでしょう。しかしマタイの第三祈願〈みこころが天で行われるように、地でも行われますように〉は、ルカにはありません。第四祈願と第五祈願は若干の違いはありますが、ほぼ同じ内容といってもいいでしょう。しかし第六祈願はマタイにある〈悪からお救いください〉が、ルカにはなくて〈私たちを試みにあわせないでください〉だけ、ということがあります。
さらに他の違いもあるのですが、ルカの《主の祈り》のほうが、マタイの《主の祈り》より簡潔だということは、異論のないところでしょう。学びを進めながら、ルカの《主の祈り》と比較することも時々すると思いますし、その違いはなぜ生じたのか論ずることもあるかもしれません。
今日は「だからこう祈りなさい」というタイトルにあるように、導入のところです。そしてルカの《主の祈り》の導入を観察して、《主の祈り》を知ることの意義についてさらに考えていきましょう。
すでに読みましたルカ11:1にはこうありました。〈さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」〉。
主イエスはよく祈る方でした。とくにルカ福音書には祈る主イエスの姿が目立つと言う人たちもいます。私たちは、あまり祈らない人ではなく、よく祈る人、祈りの人になりたいと思います。イエスの祈る姿を見て、弟子たちは、イエスの信じている神について深く考えたり、イエスと神との関係の太さ(絆の強さ)を思ったりしたはずです。そして自分たちも、主イエスのような祈りの人になりたい、祈り深くありたいと考えたかもしれません。父なる神にもっと近づきたいと弟子たちは願ったに違いありません。
私は、他の多くの方と同じように、信仰に欠かせない感情のひとつは、憧れだと思っております。神の国運動の先駆者であり、主イエスの紹介者として、バプテスマのヨハネという人物がおりました。自分たちが主イエスの弟子であったように、バプテスマのヨハネにも、ヨハネの弟子として生活する人たちがいました。
そしてバプテスマのヨハネは、偽善者のようでも異邦人のようでもない正しい祈りを、ヨハネなりに教えていたのだと思います。私たちも、聖書から、聖霊の導きから、神とキリストご自身から祈りを学ぶのですが、それが人をとおして、人の集まりでもある教会の交わりのなかで祈りを学びます。
自分も、イエス・キリストのようになりたい。その願いのなかで、信仰の先輩から、祈りの秘訣を教えてもらいたい、祈りの態度を身につけたいということがあるでしょう。祈りは人に見せるためにするものではありませんが、複数の人が心をあわせて祈ることを主は奨励されていました(たとえばマタイ18:19-20)。
教会は〈祈りの家〉(イザヤ56:7、マタイ21:13)と言ってもよいと思います。あるいは主イエスから祈りを教わる「祈りの学校」と呼ぶことも可能かもしれません。主は〈わたしから学びなさい〉(マタイ11:29)と言われました。そして主イエスの弟子たちは〈ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください〉と言ったのです。私たちも主に〈祈りを教えてください〉と願おうではありませんか。
主は弟子たちに《主の祈り》を教えました。それは私たちが祈りにおいて、神を知らない人や、神を知ってはいても偽善者のようにならないためですが、同時に、私たちが主イエスの祈りの生活に憧れて、主に近づくためでもあるのです。
〈私たちにも祈りを教えてください〉という願いに対して、主は言われました。ルカ11:2b〈祈るときには、こう言いなさい〉。私たちは、主イエスから神への祈りを学ぶのです。祈りましょう。
「神様。私たちは主イエスに倣いたいと思います。主のようになりたいのです。私たちに祈りを教えてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。
