2025年10月5日説教原稿

祈りの急所  マタイ6:5-8

 先週は、困っている人を助ける「施し」が偽善者のようであってはならない、という奨めでした。それは主イエスの山上の説教が新たな塊に入ったことでもありました。6:1は、その導入のことばでした。6:1〈人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません〉。これは6:1-18の導入であり要約でもあります。

 先週もいいましたが〈善行〉と訳されていることばは直訳すべきだと思います。マタイ福音書の「らしさ」を強調するためです。教会で使っている新改訳2017版の脚注に直訳として「自分の義を行なわないように」と出ていました。6:1はこうなります。人に見せるために人前で自分の義を行なわないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません〉。

 やがて〈神の義〉ということばも出てきます。マタイ福音書のなかでは〈義〉ということばや概念に注目して見えてくるものがあるかもしれないと思っております。そして、この6:1-18の塊は、2-4節〈施し〉について、5-15節〈祈り〉について、16-18節〈断食〉についてと、3つのことが取り上げられます。

 そしてこの3つに共通しているのは、偽善者のような(見せかけの)振る舞いをするな、ということ。それに〈まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです〉と付け加わります。

 そしてさらにこれらの〈義の行い〉をするときの具体的な勧めがあり〈そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます〉ということばに帰着します。

 6:2-4、5-6、16-18は、そのように繰り返されます。同じ形式を繰り返すことで結論が強調されます。6:1の〈人に見せるために人前で自分の義を行なわないように気をつけなさい〉という奨めです。たしかに、イエス・キリストによる生きた信仰をせっかくいただいているのに、偽善者になるのはもったいなくて惜しいことです。

 一言祈ります。「主なる神。私たちは教会という船に乗って信仰の旅を続けております。二週前の主日には62名という人数が集まって伝道的な礼拝をささげることができました。これからも、この地域の多くの方々が、あなたによって礼拝と交わりに呼び集められることを願います。すべてはあなたの御手のなかにありますので、感謝します。一方、私たちは、信仰の見えなくなった兄姉や、年齢や健康上の理由で集うことが困難になっている仲間たちのことを覚えます。先週、突然に入院を余儀なくされた方もおりますので、どうぞ私たちに、ますます祈りの霊を注いでくださって、とりなしの務めに励ませてください。本日は、祈りについて学びます。どうぞ、語る者と聴く者を強め、この世界と地域の人たちに、慰めと望みを、聖なる力によって示す者にしてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。

(人の前で祈る)

  本日は、祈りについて学びます。

 6:5〈また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです〉。

 主イエスは、〈人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈る〉ことを、ここで取り上げています。偽善者の振る舞いだというのです。

 今日の世俗社会に生きる私たちには、イメージしにくいことかもしれません。〈会堂〉というのはシナゴクとも言いますが、土曜安息日に礼拝をする建物であって、私たちがこの建物で礼拝や交わりをするような場所です。主イエスが活躍したころのユダヤ社会は礼拝共同体であって、〈会堂〉が地域の人たちの集会所でもありました。

 また〈立って祈る〉ことは、座って祈ることの多い私たちと違って、そのころは〈立って祈る〉のがふつうです。だから立って祈ることは不思議なことでも何でもありませんが、〈大通りの角に立って祈る〉ことを主は批判しています。〈人々に見えるように〉祈るということなので、〈大通りの角〉だとよく目立つわけです。

 ある人(ロイドジョーンズ)は、エルサレム神殿に詣でるとき、神殿の本来の祈りの場所に進むのを待てないくらい自分は神に祈りたいという熱心のアピールだ、と説明していました。〈会堂〉においては、地域で一番の敬虔な人。〈大通りの角〉では、都エルサレムの不特定多数の人に祈る姿を見られたかったのかもしれません。あるいはユダヤでも祈りの時間が定まっていたので、通行中でも祈りを始めたのかもしれません。何にしても、当時の熱心な人たちの心根を、主は見抜いておられました。

 マタイ福音書の註解書のいくつかに《マタイの教会》という言い方が出てきます。《マタイの教会》とは、マタイの福音書を編集した人たちが読者として想定していたクリスチャンの群れのことです。ルカの福音書の記者は、ユダヤ人に限定しない全世界のクリスチャンや求道者を読者として考えていましたが、マタイはユダヤ人でクリスチャンになった人たちを自分の福音書の読者として考えていました。これは、たしかなことです。

 何が言いたいかというと、マタイの福音書の最初の読者《マタイの教会》は、ユダヤ人の信者が大半です。旧約聖書の律法に基づく生活を背景にイエス・キリストの福音を受け入れてきた人たちです。その人たちにとって、ユダヤ式の、施しも祈りも断食も、受け継がれるべき文化であって、クリスチャンであっても、そうした義の行いに励むことが、まだ主イエスを信じていない同胞へのあかしとなると考えてしまう人たちでした。

 そうした人たちに、主イエスは、律法学者・パリサイ人を偽善者として激しく批判していたことを思い起こさせる福音書が、マタイ福音書なのです(とくに23章を参照)。

 

(隠れたところにおられる神)

 主は6:6でこう続けられました。〈あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます〉。

 〈自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉め〉というのは、旧約聖書イザヤ書26:20にもある言い方です。神の裁きが過ぎるまでしばらく身を隠せ、という箇所です。私たちはいつも密室で祈ることはできません。また、それを求められてもいないのです。

 しかし、目には見えませんが、主イエスの救いによって私たちの〈父(お父さん)〉となってくださった神がおられ、私たちのどんなことばをも聴いてくださいます。神とお話しすることが祈りですから、私たちは、人に見られなくてもかまわない。〈父〉と呼べる神に祈るのだ、と腹を括ることが勧められていないでしょうか。人を意識しない祈りとは、人に見られていないということ以上に、神に心を向けることが大事です。

(異邦人もユダヤ人も)

  さて今日はあまり言わない《マタイの教会》ということばを紹介しました。それは続く7-8節にも当てはまるのかもしれません。6:7-8〈また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。6:8 ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです〉。

 〈異邦人〉ということばが出てきます。祈りの悪いお手本となっている、神を知らない人たちという意味で使われています。こういう言い方が、地域的にユダヤ人のクリスチャンしかいない《マタイの教会》らしいところなのです。〈異邦人〉というより、聖書で教える唯一の神を知らない、いわゆる異教徒といったほうが正確でしょう。

 もちろん、唯一の神を知っているキリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒であっても〈同じことばをただ繰り返して〉しまうことはあるのです。仏教や神道やヒンズー教の人たちを私たちは笑えません。「〈異邦人のように〉祈るな」と主イエスが言われたのは、聖書が教える唯一の神(アブラハムの神)を信じる信仰者にも同じ落し穴があるからです。格別に主イエスは山の上で弟子たちに語られたのですから、私たちは、クリスチャンとして、この箇所においても我が事のように主の勧めを聴くべきです。

(なぜ繰り返すのか)

 私には、同じ文面のメールを10通も20通も送信する癖を持っていた友人がいます。その友人の癖は最近かなり直ったようですが、昔はたいへん煩わしくて困りました。そのころ、友人に何度か注意しました。そして尋ねました。「もしかしたら同じ文面のメールをたくさん出したら(無視せず)読んでくれると思っている?」。友人は頷きました。私たちも、神に対して同じようなことをしてしまうかもしれません。

 主は言われました。〈彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです〉。主イエスもそうでしたが、繰り返し祈ることが悪いのではありません。しかし〈ことば数が多いことで聞かれると思っている〉のは、神に信頼しているからではありません。自分の熱心や努力で神を動かそうとしています。主客転倒であり、偶像を拝む人の論理です。

(よく祈っていた)

 最近、日課のように娘と散歩しています。娘は臨月に入って、それなりに歩いたほうがよいので、ボディガードとして夕方娘の散歩に付き合っております。三日前は多々羅田公園の外周を歩いていて、以前に自分がこの外周をよく歩いていたことを思い出しました。外周を右回り、内周を左回り、というふうに二周分歩きながらお祈りをする習慣を持っていました。いわゆるprayer walkです。

 そしてなぜそれをしていたのか、しばらく考えていると、もともとは2016年の今ぐらいから、2018年の土地取得→会堂建設まで、まだ空き地だったこのあたりの外周をほぼ毎日7周ずつ歩き回っていたのを思い出しました。この土地が与えられて会堂を建てられるように、エリコの故事に倣って(ヨシュア6:4&15)7周回るprayer walkをしていました。

 人に見られたいわけではもちろんありません。現代の世俗社会では、奇妙なことをしている変人と思われるかもしれません。土地を買って、会堂建設なんて、教会にも自分にもできることではなく、これくらいしかできないし、これくらいはさせてもらおうと思って、毎日のように(当時はあまりひとけのない)土地の外周を回ったのです。

 主があわれんで御手を動かしてくださり、2018年の7月にこの会堂が建ちました。

 そのあともしばらく会堂周りの7周を続けていたのですが、残りの土地に家が建ち始めてprayer walkは多々羅田公園2周に変わったのでした。そしてしばらくするとprayer walkが形式的なお勤めになってきたのでやめたわけです。しかも7年くらい経って、自分がprayer walkを日課にしていたことをすっかり忘れていたのです。

 自分のprayer walkを振り返って思うのですが、それは神の御手を動かすためではなくて、先ほど言いましたように「これくらいしかできないし、これくらいはさせてもらおう」という動機でした。

 聖書的な祈りとは、ただ神に願いを伝えるだけではありません。主が〈あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです〉と言われたように、ある意味で、こちらから主にお願いを伝える必要はないのではないか。分かっているので祈らなくてもよい、と言われているかの印象さえするのです。

 こうしたキリストの奨めからわかるのは、神に願う以上に、祈りには意味や深みがあるはずということです。祈る人が、神におもに願いを伝えるわけですが、その本質は、人が神と交わりを持つことだ。それが、祈りの本質だということです。

 そしてもうひとつ、私たち人間が困難な課題に取り組んでいくために必要である。「逃げるは恥だが役に立つ」ということわざもありますが、人生には何度か決して逃げてはいけないときがあると思います。そんなとき、祈り続けることで、自分の思い通りにならなくても、神が最善を尽くしてくれる。そのことを前向きに信じることができます。

(主の祈り)

  そのように、祈りは、偽善者のように人の目を神よりも意識せず、異邦人のように熱心やがんばりで神を動かそうとしないで、ささげられるべきです。

 たいへん難しいことのように感じますが、そんな私たちのために主は、ご自分の名前でやがて呼ばれる《主の祈り》を教えられます。6:9a〈ですから、あなたがたはこう祈りなさい〉と主は言われます。

 祈りましょう。「主よ、私たちは祈りにおいても失敗しやすいものであることを認めます。タイトルの通り、祈りにも急所があるのです。私たちは気をつけて、あなたとの関係を祈りによって深めていくことができますように。目的を取り違えたり、自己満足に陥ることなく、あなたをお父さんと呼べることにいつも心から喜べますように。私たちに祈りを教えてくださったイエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。