2025年9月14日説教原稿

愛他と愛敵 マタイ5:38-42

 この世界には、善人もいれば悪人もおります。正しい人もいれば、正しくない人もいます。これは、たしかです。しかし自分は善人だと思っている人が、神の目には悪人であったということはあり得ます。もしかしたら自分だけでない、世界中の人がこの人は善人だと思っているけれど、神の目には悪人であったということさえあるのかもしれません。また、逆もあるかもしれません。人の目には悪人(それも極悪人)であったけれど、実は神から見ると善人であり正しい人であった、というような話です。

 以上のことを、どうやって確認しようかと考えました。このマタイ福音書に書かれている、主イエスが語られた、たとえ話のひとつを共有しようと思います。(今日の箇所より、ずっと先ですが)マタイ13:47-50を読みます。〈また、天の御国は、海に投げ入れてあらゆる種類の魚を集める網のようなものです。13:48 網がいっぱいになると、人々はそれを岸に引き上げ、座って、良いものは入れ物に入れ、悪いものは外に投げ捨てます。13:49 この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者たちの中から悪い者どもをより分け、13:50 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです〉。

 日本語には雑魚ということばがあります。人間にも使うときがありますが、もともとは「いろいろな種類の入りまじった小魚」のことです。実際に今でも魚を捕る漁師さんは水揚げの時、売り物になる魚と売り物にならない魚(雑魚)を分けます。そのように〈この世の終わり(世界の終末)〉には、他の魚と雑魚が選り分けられるように、悪い者は〈火の燃える炉に投げ込〉まれて〈泣いて歯ぎしりする〉というのです。これは、最後の審判とその結果のひとつにほかなりません。

 Ⅱペテロ3:7に〈今ある天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるために取っておかれ、不敬虔な者たちのさばきと滅びの日まで保たれている〉と書いてあります。私たちは無限の日常のなかで生きるのではありません。個人の人生にも始めがあって終りがありますし、世界にも始めがあって終りもあるのです。

 今日の箇所は、そういう聖書の歴史観(時間意識)と矛盾するものではありません。《やがて》滅びるということは、《いま》保たれている、ということでもあります。やがて滅びるに違いないけれど、今は神が保っておられる(保持しておられる)この世界で、私たちはどのように主の弟子として他の人たちと接していくべきかというお話です。

 一言お祈りいたします。「愛する神。私たちを今日も呼び集めてくださり、ありがとうございます。終りの日が来るまで、私たちは〈地の塩〉〈世の光〉として地上の世界に置かれています。隣人を愛し、また、敵を愛するという課題を、今日は学びます。主の御霊が、私たちの理解する力を強め、ことばや行いや生活にも進み、イエス・キリストの弟子としての役割にますます向かっていけますように。救い主のお名前で祈ります。アーメン」。

(愛他の精神)

 5:43〈『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています〉。

 山上の説教のこのあたりでは、主イエスが旧約聖書のいくつかの命題を取り上げて、解釈と適用を発展させておられます。本日は最後の命題、隣人愛です。〈『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』〉。まず、自分の隣人を愛することが勧められ、そして、その影の部分のように〈あなたの敵を憎め〉とも言われています。

 まず〈あなたの隣人を愛しなさい〉です。「聖書の戒めの要約は隣人愛です」と言ってもいいのです(ガラテヤ5:14参照)。この戒めに対して〈私の隣人とはだれのことですか〉(ルカ10:29、第3版)と疑問を投げかけた人もいます。

 〈あなたの隣人を愛しなさい〉、もっと正確にいえば〈自分自身のように〉が付きます。そしてもともとのテキストは、旧約聖書のなかでもモーセの時代に遡るレビ記19:18です。本日は19:17と共に読みます。レビ記19:17-18〈心の中で自分の兄弟を憎んではならない。同胞をよく戒めなければならない。そうすれば、彼のゆえに罪責を負うことはない。19:18あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは【主】である〉。

 この戒めが与えられたとき、イスラエルは、モーセに率いられてエジプトを脱出してから一年くらいでした。食べ物にも水にも不足する荒野の旅が始まっていました。他の民族を頼ることはできません。エジプトに帰ることはもっとできません。

 私たちは〈兄弟〉だ。〈同胞〉だ。憎むな、しかし戒めよ。よく戒めて、お互いへの責任を果たせ。仲間に仕返し(復讐)するな。そして、仕返しできないからといって、心に恨みを抱くこともするな。〈同胞〉は〈あなたの隣人〉だ。〈あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは【主】である〉。

 イスラエルの神、【主】への信仰が、〈同胞〉である隣人への愛に結びついています。ですから第一義的には〈あなたの隣人〉〈私の隣人〉とは同国人であるイスラエル人(ユダヤ民族)のことだったのです。

(憎むべき敵とはだれだったか)

 次に〈あなたの敵を憎め〉を考えます。〈敵を憎め〉とは何を意味しているのでしょうか。旧約聖書のなかには「ズバリここです」と言える場所はないのですが、それに類する表現はあります。また「〈敵を憎め〉と聞いているよね」と主が言われたわけですが、「そんなことないですよ」と聞いている弟子たちは言わなかったわけです。

 レビ記の舞台は、出エジプト直後の荒野でしたが、主イエスが宣教された1世紀は、もはや、ひとつの民族が小さな領土に固まって生活するだけの時代ではありませんでした。ユダヤの国がローマ帝国の一部でしたし、ユダヤの辺境であるガリラヤ地方も〈異邦人(諸国民)のガリラヤ〉(マタイ4:15)と呼ばれていました。ユダヤ人の多くも、ディアスポラといって地中海世界のあちらこちらに移り住んでいました。

 そんななか〈あなたの敵を憎め〉という勧めは、どういう意味合いを持つでしょうか。愛を同胞(同じ民族)に限定して、それ以外は愛する必要がないとする解釈です。異邦人は聖書の神を信じないで神に敵対する者だから、私たちも異邦人を憎んでよいのだ、と考える人たちもいたでしょう。周辺の異民族を軽蔑しつつ、ユダヤを統治していたローマには複雑な憎しみを抱いている。そんなユダヤ人がガリラヤ地方にも多かったはずです。そしてローマに反乱を企てる熱心党という過激なグループも存在していました。

 そして、そんな1世紀のユダヤのことを考えておりますと、最近それとよく似た話として、この国では「~人ファースト」などという言い方が、一部で流行ったようです。そして実際「~人ファースト」ということばによって、排斥運動や差別がもっと増えていきそうで、嘆かわしい限りです。

 主イエスが5:44で〈しかし、わたしはあなたがたに言います〉と述べ〈自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい〉と言ったのは、特にそういうことだと思うのです。かつてユダヤ人はユダヤ人のことだけ考えていればよかった。しかし〈天の御国が近づく〉〈時が満ち〉ておりました(マタイ4:17、マルコ1:15)。

 ヨハネ福音書では、ユダヤ人でない異邦人(ギリシア人)がイエスを真摯に求めていることを、主が弟子たちから聞いて、一粒の麦のように自らが死ぬことを言い始めています(ヨハネ12:20-26)。ローマ帝国のなかでユダヤは辺境でしたが、多民族、多文化、多言語、多宗教、多国籍の波が確実なものとなって、主は十字架で死なれたのです。

(天の父の恵み)

 以上、私は、当時の時代背景や聖書理解を鑑みて、主イエスの話を聞いた弟子たちが〈自分の敵〉と言われて、まず誰のことを考えたか想像してみました。主は「ユダヤ人にとって敵である異邦人を憎む」ことが当たり前の時代に〈自分の敵を愛しなさい〉と言ったのです。なぜでしょうか。

 5:45〈天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです〉。父なる神は、今日にでも正しい善人を救い、正しくない悪人に決定的な裁きを下すこともできます。が、すべての人が悔い改めに進むことを願って、忍耐しておられます(Ⅱペテロ3:9)。そんな寛容で慈しみ深いお父さんの子どもになるため、私たちは、自分の敵を愛し、迫害する者のために祈れというのです。

 今日、私たちは、それほど民族や国籍の違いが気にならなくなってきています。言語の違い、文化の違い、そして宗教の違いは、それなりのバリヤーですが、それでも一致や共生の道を探ります。未だ最後の審判が来ておらず、聖なる神でさえ、だれにでも日の光を注ぎ、天から水の恵みをくださいます。このような神の一般恩恵は、私たちの道徳性にかかわらず与えられるという点で、特別恩恵である福音に似ています。

 私たちはキリストの福音のすばらしさが分かると、父なる神の慈愛も分かるし、敵を愛せよ、迫害者のために祈れという奨めの意味も分かるのです。

(神の子の祈り)

 私たちはキリストの福音によって救われていきます。十字架の福音であり、悔い改めたら救われる福音であり、復活のいのちに与る福音です。しかし、ここでは〈天におられるあなたがたの父の子どもになるため〉と述べられています。それは神の家に引き取られた神の子が、いよいよ神の愛がわかって、神の子らしくなるためです。

 そして、最終的には〈あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい〉(5:48)という目標があります。〈天の父〉の完全さは、罪を嫌う完全さだけでなく、罪人を愛する完全さでもあります。

 私たちは、自分が人間らしく生きるために他の人を愛しますが、真に人間らしく生きるためには〈自分の敵を愛する〉という命題を抱えるべきだと思います。それはどうしてなのでしょうか。ひとつには〈自分の敵を愛する〉ことによって、敵が敵でなくなる可能性があるということです。

 敵と私には好みの違いや利害の対立があるかもしれません。しかし〈私の隣人とはだれのことですか〉との問いに、主は親切なサマリヤ人のたとえ(ルカ10:30-37)を話され、隣人がだれであるかより、隣人になることの大切さを説かれました。そのように〈自分の敵を愛する〉ことで敵を味方に、少なくとも隣人にする可能性があります。

 しかし、こうも言えるでしょう。どうしても味方になれない間柄だから〈自分の敵〉なのですという場合もあるでしょう。プロ野球の阪神タイガースの選手が敵を愛するために、巨人戦で手を抜いたり、阪神の選手でありながら中日にも登録ができるでしょうか。白色であるということは赤色ではないことを含みます。

 事は単純ではありません。しかし相手が簡単に自分と同じにならないからといって牙を剥くのは、キリストの弟子らしいことなのでしょうか。早く悔い改めてもらいたいと思って忍耐しているのは、父なる神だけではありません。イエス・キリストがそうであり、キリストの弟子である私たちも忍耐をもって愛を表わそうと努力します。

 5:46-47〈自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。5:47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか〉。

 私たちは自分の得にならないとお返しをしないところがあります。愛されないと愛することを学ぶことさえ難しい。今まで挨拶をしたことのない人に挨拶をしてみる、教会のなかでもできると思います。私はこの夏、教会の庭の水撒きを朝と夕にしています。近所の何人かと挨拶ができたりしています。隣人愛の第一歩は挨拶だと思います。

 それから最後に世の中には、もっと手強い〈敵〉のいることは語りたいと思います。軍事侵攻してきた隣国、独立どころか生存を認めない軍隊、説得の効かないストーカー、学校などでのいじめ。この世は決して甘い場所ではありません。逃げる以上の方法はないし、逃げることさえ叶わないかもしれません。意味の分からない不条理な世界で、主は〈自分を迫害する者のために祈りなさい〉と言われました。

 それは主が十字架で祈った、とりなしの祈りかもしれません。〈父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです〉(ルカ23:34)。しかし、そんなことでなくてもよい。明らかな悪に対して、「神よ裁いてください」と祈ることは、敵の頭に炭火を積むことであると信じます(箴言25:21-22、ローマ12:20)。

 世の終りが来るまでは、私たちは「答えの出ない世界で」生きるのだと思います。来主日の特別礼拝に期待しつつ、私たちはどんな祈りであれ、慈しみ深い天の父が聴いてくださらない祈りはないと思うのです。イエス・キリストは言われました。〈自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい〉。

 共に祈りましょう。「主よ。私たちは完全なものではありませんが、完全なあなたに信頼し、自らも完全であろうと願います。『答えの出ない世界』もいつか終わることを信じて、選り好みなく挨拶のできる者にしてください。主イエスの御名で。アーメン」。